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養神館合気道の故・塩田剛三氏について
養神館合気道の故・塩田剛三氏について質問なのですが、 どうして塩田氏は合気会から独立してしまったのですか? また、開祖・植芝盛平氏に対して批判的な意見を述べていたそうですが、 具体的に何で(著書やビデオなど)述べていたのかわかりますか? 著書・合気道人生では批判的な意見は全く述べられておらず、 むしろ植芝氏の神業を絶賛していたのですが…
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>塩田氏が開祖と不仲になったために独立したのかと思っていたのですが、 >独立は二代目になってからだったのですね。 いいえ、独立は昭和30年ですから開祖逝去前です。(開祖逝去は昭和44年) 言葉足らずのところがあり申し訳ありませんでした。戦後、合気会本部の中心的指導は藤平先生でしたが、吉祥丸氏は度々そうした発言をしていたようです。一部指導することはやっていたそうですが、もともとは会社勤めをしていて合気道とは距離を置いていたそうです。「定時に会社に行き、定時に帰ってくる生活が理想」と述べていた方です。しかし、やはり時には植芝家として発言することもありました。そして二代目を継承した時に態度が一変してしまった。それは表向きの顔とはまた異なっています。 また塩田先生が開祖と不仲になったというのも少し違うと思います。独立後に合気会で催しがあった際に塩田先生は出席されていますが、遠慮して端のほうにいたところ、開祖から「こっちにいらっしゃい」と言われ、集合写真も開祖のすぐ近くに座っています。開祖は塩田先生の力量を認めていたのだと思いますし、塩田先生があちこちで植芝道場の宣伝をしていたことも知っていたと思います。塩田先生も道場の中心に植芝先生の写真を掲げていました。 塩田先生より早く、既に昭和6年に戦前の弟子の望月稔先生が静岡に道場を開いていますが、この時は植芝先生自ら道場開きに出席されています。ですから必ずしも弟子が道場を開くことに反対というわけではなかったようです。(望月先生は植芝先生より大東流の巻物を贈られ、養子縁組の話ももちかけられた) 合気道史について詳しくお知りになりたいのなら、「合気ニュース」のバックナンバーを読まれることをおすすめします。合気ニュースは合気道と大東流の専門の季刊誌で、合気道史研究家のスタンレー・プラニン氏が編集していました。合気道、大東流各派の名だたる先生方のインタヴューから構成された雑誌でしたが、単に発言をそのまま載せるだけでなく、事情通のプラニン氏の編集、解説が生きていて、非常に分かりやすい誌面になっています。現在、合気ニュースは、季刊誌「道(どう)」という名称に変わり合気道以外の武道、武術の記事も含まれた内容になっていますが、今でも合気ニュースのバックナンバーは大書店に置いてあるところがありますし、またネットでの購入、国会図書館での閲覧も可能です。 私がNO.3において述べたことも合気ニュースに掲載されてきた記事内容と矛盾していないと思います。特にNO.3の冒頭部分は、合気ニュースのインタヴューにおいて塩田先生が発言したものです。合気道諸先生方のインタヴューは「植芝盛平と合気道」(合気ニュース)に収められていますが、旧版では詳しいところが割愛されています。「決定版 植芝盛平と合気道」(I、IIとも)のほうが核心部分に触れた内容になっています。 特に、合気ニュースにおいて藤平光一先生のインタヴューを載せることは最大のタブーであったようです。合気会の主たる先生方の取材インタヴューの掲載があらかた終わった後に記事にされていました。 ご参考になれば幸いです。
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- rakudagoro
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養神館設立の経緯については、「決定版 植芝盛平と合気道 I 」(合気ニュース)の塩田先生のインタヴュー部分や、「合気道修行」(竹内書店新社)に詳しく書いてあります。 合気会側の著した合気道史には書いてありませんが、敢えて書くことにします。終戦後、植芝盛平先生は戦犯G号に引っかかり(原文ママ、G級戦犯のこと)、合気会の財団法人は取り消されました。これは植芝先生が京都の武徳会の顧問を務めていたからです。合気会本部は進駐軍のダンスホールになり、塩田先生の言葉を借りれば、植芝道場は一度潰れました。(「決定版 植芝盛平と合気道 I 」より) 植芝先生はGHQの追及を逃れるために茨城県岩間町に隠棲します。この間、植芝先生は弟子の赤沢善三郎先生に習わせた鹿島新当流を基に合気剣を完成させます。弟子たちは少しずつ岩間に集まり、塩田先生も家族を連れてしばらく滞在し合気道修行に打ち込みました。 昭和26年、塩田先生は岩間の合気神社で九段を印可されます。(一部のネットの情報では36年とされているが、26年が正しい) しかし、塩田先生は生活のために合気道を離れ会社勤めを余儀なくされました。これは合気会の植芝吉祥丸氏も同じです。吉祥丸氏は後に合気会二代目道主を継ぎますが、開祖逝去まで証券会社に勤務していました。 その後、塩田先生は日本鋼管で合気道指導を依頼され、更には83箇所もの警察署での巡回指導を開始します。合気道の何たるかを知らない者達を納得させるために指導の際に演武を必ず行ったが受けを取ってくれる弟子もおらず、自由に攻撃してくる当地の柔道家、空手家たちを実際に倒して見せるしかなかったそうです。 昭和29年、ライフ・エクステンション(長寿会)が主催した「日本総合古武道大会」での演武が最優秀賞を受賞したことで政財界から注目され、昭和30年、支援を受け養神館を設立します。 「反逆児のように言われるが、警察、防衛庁を開拓して回ったのは自分だ」「常に植芝道場の宣伝をした」そうです。知名度が低く、戦後活動も停滞していた合気会本部に代わって、塩田先生は合気道普及のために体を張って邁進していました。 独立の要因としては無論先生本人の意思はあったと思いますが、当時弟子の中では最高段位の九段を印可されたこと、戦前、塩田先生の実父は植芝道場の有力な支援者であったため特別待遇を受けていたこと、戦前、戦後の植芝先生の技が変わってしまったこと、自身の指導理念が生まれたこと、そして合気会は植芝家が継ぐものという考えがあったからだと思います。 塩田先生の合気道が戦後の合気会で受け入れられたか、逆に疑問です。指導はやはり植芝先生、植芝家が中心です。戦前とは違い植芝先生の動きはより柔らかい円の動きになりましたが、大変失礼ながら植芝先生の年齢的なものもあったと思います。塩田先生は「戦前と戦後の植芝先生の動きは全然違う。私は先生が一番すごかった50代の時の弟子だ。」と述べています。 また指導法についても以下のように発言しています。 「植芝先生の教え方は現在の指導方法とずいぶん違っていました。その日稽古する技を、まず先生がやってみせるのですが、ただ手本の動きを見せてくれるだけで、言葉による説明はまったくないのです。なにをどうやれというふうには、けっして教えてくれません。」「これでは本当に素質のある人しか、先生の武道の本質を身につけることができません。植芝道場においては、できる人はできるのですが、できない人はまったくできないという状態でした。」 「昔の武道はそれでよかったのです。しかし、今は時代も変わって、多くの人たちにもっとわかりやすい形で合気道を学んでいただかなくてはなりません。」「集団を相手に教える以上、誰もがきちんと正しい理合を覚えられるような指導をしなくてはならないと感じたのです。」(「合気道修行」より) これは批判とは少し違うと思います。また塩田先生は合理的な集団指導をする柔道出身であったことや、他に戦時中、戦地で合気道を指導した経験も影響していたと思います。そして、こういった考えを持った塩田先生が合気会本部で自由に指導することができたのか、自身の指導理念を実現できたのかというと、できなかったと思います。 合気会本部も藤平光一先生がハワイ、アメリカでの指導を開始し、合気道は逆輸入の形で認知されていきます。「合気道を通じて心を教えたいと願い稽古に励んだ。ところがあの時代は、食べるだけで精いっぱいで、気だの、心だのと言ったところでなかなか耳を貸してくれない。」 「当時の日本人は、私がいくら気について語っても、決して言うことを聞こうとしてくれなかった。それは国民の意識がすっかり海外へと向かってしまっていたからである。国産品は見向きもされず外国製品であれば、どんなものでもありがたがる時代だった。」「ならば、私がアメリカに行き、そこで合気道の心や気を広めてしまったらどうなるだろう?アメリカで認められたものならと、日本人ももう一度目を向けてくれるようになるに違いない。」(「中村天風と植芝盛平 気の確立」東洋経済新報社) 当時は藤平先生の海外からの送金で本部道場の修復をやっと行っていた状態でした。 塩田先生、藤平先生の活躍で国内外の合気道人口は増えたと言っていいと思います。また合気会内の指導体系を作り上げ、技を公開したのも藤平先生が最初でした。ハワイでの技の公開に対して、植芝先生が教え過ぎだと立腹した程です。批判の矢面に立ったのは藤平先生です。(「中村天風と植芝盛平 気の確立」) 精神的な教えについても、植芝先生は難解な宗教的、神道的なことを述べるばかりで一般の者たちにはなかなか理解できなかったそうですが、代わって自身が修行した禅や禊を基にわかりやすく述べたり「気」について解説したのも藤平先生でした。実は合気会内では今でも藤平先生の精神的な教えが生きています。吉祥丸氏は繰り返しますがサラリーマン生活を主として送っていて後継者の意識も希薄でした。 二代目道主は藤平先生にという声がある中で、藤平先生自らニ代目に吉祥丸氏を推挙し実現させました。しかし吉祥丸氏は変わってしまったといいます。 吉祥丸氏は塩田先生、藤平先生を批判していました。塩田先生の独立については「話が違う」と言って憤ったと伝えられ、藤平先生は冷遇され結果的に組織から出る形になりました。しかし独立は、両先生の能力、独創性が傑出していたため仕方がないことだったのかもしれません。 最後に塩田先生の言葉をもう一度記しておきます。 「私が修行中に考えていたことはただひとつ、いつか植芝先生をブン投げてやる、ということでした。不遜な考えだと皆さんにお叱りを受けるかもしれません。しかし、私が先生に恨みなどなかったことはもちろんですし、何度も言うようですが、今でも先生を尊敬しています。」 「しかし、先生が偉大だからこそ、あえてその高い山に全身全霊をかけて挑み、乗り越える価値があると思うのです。」 「武道における師弟関係は、ただ弟子が師匠を敬うだけではいけないと思います。実際に師匠と闘うかどうかという問題ではないにしろ、師匠を乗り越えること、つまり師匠に勝てるように修行を積むことが弟子の務めだと言っていいでしょう。逆にそういう気持ちがないと武道は極められないのです。」(「合気道修行」)
お礼
塩田氏が開祖と不仲になったために独立したのかと思っていたのですが、 独立は二代目になってからだったのですね。 また、九段の印可を受けたのは26年と、かなり早かったのですね。 塩田氏だけでなく、藤平氏のことまで説明してくれてありがとうございます。 とても参考になりました。
- hey_hey_11
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合気会は一般への公開に伴い危険技を禁止するようになってきました。 そのため、開祖の技が伝授されないことを危惧して何人かの弟子が開祖の教えを 継承したいと思っていたようです。 その時、開祖から唯一独立の許可がでたのは塩田先生だったようです。 そこで、継承を考えていた人と養神館を立ち上げたと聞いています。 それに、元々開祖は弟子に対して言葉での教えをしたことがないと言われています。 道場に来てめぼしい人を見つけるとひたすら技を掛けるだけだったと、かつての弟子の一人が自伝で紹介していました。 その中で、ある弟子があまりにも何の教えがないので開祖に尋ねたら、 「合気道技は手取り足取り教えてしまうと凝り固まった物になり個性がなくなってしまうので、 自分なりの技を試行錯誤しながら磨く物で私があなた達の発想を阻害したくないからだ。」と言われたそうです。 それを聞いた人は感動し自ら率先して稽古をすようになったと自伝の中に書いてありました。 その証拠に、同じ合気会系道場でも師範によって同じ技が全く異なる事もあります。 その他で聞いて所では、教えるのが面倒だとも言ったとか言わないとか。不確かですので悪しからず。 私見ですが、明治の男子は頑固であまり口に出さないのが美徳とした時代背景もあるのかなと思います。 塩田先生はその中で一人毎日金魚の動きを観察し開祖とは異なった合気道を築き上げ、 認めざるおえないことも事実だったようです。 晩年の開祖は、「塩田以上の人物にはもう会えないだろう。」と言っていたそうです。 批判については恐らく開祖ではなく二代目道主に対してではないかと思われます。 二代目道主は一般に公開するに当たり、様々な改革をしたのでかなりの弟子から批判を受けたようです。 でも、そのお陰で私も合気道を習うことが出来ていることは事実です。 そのため一時的に養神館との交流がなくなったようですが、現在は盛んに交流をしています。 裏話は何かの雑誌か本やTVの特集で見ましたので、どこまで事実かは私も分かりません。
お礼
>批判については恐らく開祖ではなく二代目道主に対してではないかと思われます。 >二代目道主は一般に公開するに当たり、様々な改革をしたのでかなりの弟子から批判を受けたようです。 なるほど。 そういえば藤平氏ら他の高弟達も二代目になってから独立してしまいましたね。 回答ありがとうございます。
- michael-m
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私は合気道協会ですが、富木先生もやはり植芝先生に対しては賛美しかありませんし、実際直接指導を受けた人に聞いてもそれ以外出てきません。 確かに自分なりの武道精神が出来上がれば、弟子は師匠のコピーじゃないのですから意見も持つでしょうし、様々ないきさつで独立したのでしょうが、だからと言って師を尊敬しないと言う事はないでしょう。 非難したり卑下するのは、精神的に未熟な後世の者だけだと考えた方がいいです。様々ないきさつを誠しやかに述べるのも同じです。 ご本人、或いは近い者が直接記したものを信じるほかないです。
お礼
回答ありがとうございます。
お礼
塩田氏の独立の経緯だけでなく、望月氏や藤平氏のことまで 詳しく説明してくれてありがとうございます。 塩田氏を始め、藤平氏、望月氏など、名だたる高弟たちはほとんどが独立してしまっているので どうしてそうなってしまったのか疑問だったのでとても参考になりました。 >また塩田先生が開祖と不仲になったというのも少し違うと思います。独立後に合気会で催しがあった際に塩田先生は出席されていますが、遠慮して端のほうにいたところ、開祖から「こっちにいらっしゃい」と言われ、集合写真も開祖のすぐ近くに座っています。開祖は塩田先生の力量を認めていたのだと思いますし、塩田先生があちこちで植芝道場の宣伝をしていたことも知っていたと思います。塩田先生も道場の中心に植芝先生の写真を掲げていました。 そういえば養神館には開祖の写真が飾られていますね。 独立した後に書かれた著書でも開祖を褒め称えていますし、 不仲というわけではなかったのですね。 望月氏が養子縁組の話まで持ちかけられていたというのは知りませんでした。 元々望月氏は講道館出身ですし(もっとも、高弟は全員講道館出身ですが…)、 独立して当然なのかなと思っていたのですが、 道場開きにも開祖は出席されて、しかも養子縁組まで持ちかけられていたのですね。 >合気ニュースにおいて藤平光一先生のインタヴューを載せることは最大のタブーであったようです。合気会の主たる先生方の取材インタヴューの掲載があらかた終わった後に記事にされていました。 藤平氏が二代目だけでなく、開祖からも冷遇されていたのは知っていましたが、 インタビューすらタブーだったとは知りませんでした。 藤平氏の説明する合気道はとてもわかりやすく、 呼吸法や鍛錬の間違いまで実体験を交えて惜しみなく説明してくれていたので とても参考になりましたし、尊敬していただけに残念でなりません。 何度も詳しく説明してくれてありがとうございます。 とても参考になりました。 合気ニュースは購読しようかどうか迷っていたのですが、 これを機に買って読んでみようと思います。