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人権って叶いますか?
すべての人は、それぞれの幸福を追求する権利がある。それを侵害してはいけない。というような、ことだったように思います。ちがったら、注意してください。それで、教育の平等、等が具体的案としてあるわけですが。 無論、誰しも幸福を追求します。 質問はこれです。 ☆個々の人権が、衝突する場合というのは、どのような場合が考えられますか? 富が足りないのであれば、生産、分配すれば十分に足ります。 一人の異性を二人の人が好きになった場合は、その異性が決めればいいわけです。 土地などの場合はどうでしょう。共有するということになるのでしょうか? 認め合う、分け合うということでしょうか?他にもたくさんいい場所がありますよ。みたいに。一見、理想の人権には穴が見当たりませんがどうでしょう。 無論、他生物と共存していくというのは人類の課題ですが。 こう思います。 自分の幸せを、・純・粋・に求めれることが前提でのみ、人権は機能するのではないのですか?むしろ、人権の中では、その人の幸せというのは、他の人との折り合いの中で、方向付けられていくとも考えられます。その折り合いというのが、純化過程なのでしょうか?譲れない一線もあると思います。どうでしょう。交錯する譲れない一線を、許しあえるでしょうか?譲れない一線とはどういうものでしょうか? 長い質問文ですが、よろしくお願いします。
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人権とは人が生きる権利ですが、質問の人権が衝突する場合というのは生死に関わることが基本にあると思います。究極的に言ってしまえば、今から1万年前に同じ生き物を追った全く別の2人が同時に矢を射たとするとそれは、2人のものだけど少しでも早く射殺したほうがやはり権利はあると思います。しかし、射殺した人より早く射殺された獲物を見つけた人がいたらそれは”発見者”です。そうなったときにはややこしくなりますが、上手く話ができて半分半分でしょう。どちらも納得しないと思います。でもここで譲りあわなければ0になることもあります。帰ってお腹をすかせた子供がいるならば、それも緊急ならば半分でも手を打たねばならないと思います。究極的に言えばそういうことではないのでしょうか。度量の狭い人広い人、緊急に欲している人などいろんな人がいます。いろんな交錯する”譲れない”場面ではその人の人間性にかかってくるのではないのでしょうか。個人的には生死に関わることでなければ譲るようにしたほうが、後に良い結果になるように思います。今は、残念な気持ちの方が多かったりしますが。少し長くなりましたがこんなことも考えたりしました。
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- Bokkemon
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当初、人権に関してのご質問であったものが、自然と人類という論点に飛躍してしまっています。異なるご質問をされるのであれば、別のスレッドを立てられるべきかと思います。 そうでないと#1・#2の方にも失礼にあたるものと思いますが、いかがでしょうか?
お礼
それは誤解です。自然と人類という視点を、引き合いに出し、それでもカバーできない部分を、人権という観点で見ようという趣旨を、提示したつもりです。 人権という視点は未完であると感じています。 人が生まれながらに平等であると言うことは、生まれながらにして、同じラインに立っているということです。 そのラインが、譲れない一線ではないのですか?と、いうアプローチを今、私はとっていますが、ほかのアプローチ、もしくは、そのラインとは何か? 同じラインが交錯するとはどういうことなのか?などの、疑問を解消するすべ、きっかけを、多くの回答者から得たいと思います。 >そうでないと#1・#2の方にも失礼にあたるものと思いますが、いかがでしょうか? #1.#2の方には、とても感謝しています。彼らの回答を得て、考え、そのときに出した結論を、お礼に述べさせていただいています。 無論、Bokkemonさんの回答も、考えさせられるものがあり、ここまで私の思考は発展しました。すくなくとも、私には、よい成果をえさせていただいています。管理者や、回答していただいたみんなには、まず、感謝をしています。 失礼に当たるとは思えません。あくまで、人権にまつわる話をしているつもりです。 木を知るのに枝葉をみるのは、必要なことと思います。それらは木の一部だからです。 木を知るのに、森を見るのも必要なことかと思います。 その木は、森の一部だからです。 私の質問は、木です。独立させて、それ以上の何がわかるというのですか? 主観というのは、独立しえないものと、考えています。 主観もまた木です。そうみるならば、 独立した主観もまた、まるぼーずの木ではないですか? どうでしょうか?もしよろしければ、更なるご意見、お待ちしております。 豊かな主観は、独立していないと考えています。
- Bokkemon
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「譲れない一線」の「譲れない」は主観的な価値観ですから、普遍的な定義はできないかと思います。例えば、「自分の命」を一線と考えてみても、我が子の為に命を投げ出す親だっていますから。 人それぞれにある、その時、その場で、譲歩することが自己の喪失につながる事柄について「譲れない」と感じるものでしょう。他者の目から他者の価値観で譲れるかどうかを評価しても仕方がないものです。 もちろん、その線を譲らないことが「社会的に許容されるかどうか」は別の議論です。
お礼
>「譲れない一線」の「譲れない」は主観的な価値観ですから、 その譲れないという主観的価値観が、それぞれのときと場合で違うと言うことは、その一個人においても、譲れない一線と言うのは変化すると言うことです。そのような、動く一線は、譲れない一線とは言いがたいように思います。そのときは、自己の喪失と感じるかもしれませんが、自己と言うものは、変化し続けているために、生きていけるのだともいえます。 幸せは、その、よく動く主観的価値観のみによっては、追求されえないと、考えています。主観に対するのは客観ですが、まだ、観方はあります。それが、人権の持つ視点であると考えています。 >人それぞれにある、その時、その場で、譲歩することが自己の喪失につながる事柄について「譲れない」と感じるものでしょう。他者の目から他者の価値観で譲れるかどうかを評価しても仕方がないものです。 自己と言うのは、時と場合により変化する、相対的なものでありますが、あらゆるとき、あらゆる場合においても、譲れないこと、というものを考える余地、視点は、持っておくべきだと思います。 人によって、時と場合によって、違うんだ。と言うのは、あたりまえのことであり、それだけでは進めません。それだけでは幸せにうまくつながらないから、更なる考えを、ここで聞きたいのです。 どうでしょうか?そんなものは考えられないでしょうか? 今、世界には、その更なる視点が、二つ認められています。 自然という視点と、人類という視点です。 この二つの視点は現在機能しています。この二つの視点を考慮しないと、あなたの言う主観的価値観は成立しないのです。なぜなら、主観的価値観と言うものの、結構な部分が、この二つの視点によって現れる、フィールドに、存在しているからです。 この質問では、更なる視点を求めているともいえます。 (既出の二つの視点を、いまだ使いこなせていないうちですが。) 今、この二つの視点でも、カバーしきれない主観の相違を、カバーする、新たなフィールドを見れる域です。 もし、さらに、ご意見、伺うことを許してもらえるのなら、うれしいです。
- Bokkemon
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タクシーの件にしろ、店員の例にしろ、他律的に「こうだ」と決めてしまえば決着はできるでしょうが、人権の対立で述べるのであれば、店員や運転手による(対立当事者の意思と無関係に)決着ではなく、当事者どおしの決着をみなければ、恐らくayamatiさんの求める答えではないように思うのですが? 分配にしろ、譲歩にしろ、当事者が和解的決着に歩み寄ることを想定されているのではないかと思いますが、その意味で、「医師が医師の自律的意思で決める」ということでは患者どおしの自律的解決にはなっていないと思うのです。その点こそが、人権の対立関係なのではないでしょうか? 他律的な決着も含めて人権の対立は無いと考えるのであれば、裁判をイメージするとわかりやすいのですが、必ず決着されてしまいます。それで人権の「譲れない線はなくなった」と考えるのであれば、そもそも、命題自体に意味があるとは思えません。 たとえ裁判で決着したとしても、それが当事者双方にとって納得のいく結果にいたったことにはならないでしょう。敗訴した原告、原告勝訴の被告、どちらも結果には納得しないものです。それに、裁判は人権の対立関係を調整するための仕組みですし、調整の結果を(無理にでも)出すのが存在の意味ですから、裁判の段階では人権の「譲りがたい対立」が存在することが前提です。このような機関の助けを借りて「他律的に決着する」ことをもって「譲れない一線はない」と考えてしまうと議論が堂々巡りになってしまいます。
お礼
>このような機関の助けを借りて「他律的に決着する」ことをもって「譲れない一線はない」と考えてしまうと議論が堂々巡りになってしまいます。 裁判官は、当事者ではありません。裁判は、他律的な決着だと思います。 そして、前回答のお礼では、自律の中には他律が内在しているのでは?という意見を提出しました。そして、一輪の花の話は、感傷的な答えをしたのはこちらであり、一輪の花の話は、情感を帯びていたと、言いたかったのですが、送信した後に、間違えたことに気がつきました。すみません。 本題ですが、譲れない一線の前に、幅を持たしている場合が、多くあると思うのです。その幅を寄せ合って、譲れない一線が触れ合わないようにしているのではないかと。で、本当に譲れない一線とは何か?と、考えています。 あわよくば、意図的に自分の幅を利かそうとする者もいる中、ジリ貧、譲れない一線ぎりぎりの攻防を強いられている者も、いると思うのです。それが破られてしまった者も、いるでしょう。 人権における、譲れない一線とは何だと思いますか? これが、まさに人権の本質的な意味に触れえるのだと思って、質問させていただきました。もしよろしければ、ご意見、お待ちしております。 語弊の多いお礼で、申し訳なく思っております。
- Bokkemon
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全ての決定を他律的に委ねるところには「人権」という概念は成立しないはずです。自律的な決定権にこそ「人権」があります。人権の衝突を「他律的に解決すればできる」というのは、人権の検討ではないものと思いますが、如何でしょうか? また、花一輪の件では、自然界との関わりで述べられていらっしゃいますが、ご質問の中の「無論、他生物と共存していくというのは人類の課題ですが」という部分から、その問題は措いておいて、人権の衝突にフォーカスをあてた回答を求めていらっしゃるものと拝察しましたので、敢えてそのような例は外して回答させていただいたものです。
お礼
非常に丁寧な回答をいただけて、感謝しています。 >人権の衝突を「他律的に解決すればできる」というのは、人権の検討ではないものと思いますが、如何でしょうか? どうでしょう。他律的に解決するというよりも、個の持つ自律の中には、他律が含まれていると考えます。つまり、個の持つ自律とは、個が単体だけでは生きれないがゆえに、どうしても他人のリズム、つまり、他律を含むと。 つまりわれわれの場合、各々のリズムのほかに、身近な人のリズムから、それらが属する人類社会のリズム、いけば、自然のリズムなども含まれていると考えると、各々のリズムは違えど、同じ大きなリズムの中でさらに刻んでいるのであり、それらの衝突が、綺麗に響きを形づくるか、不協和音になるか、全くでたらめになるのか、結果は出るものとして受け止めなければなりません。 医者の例にしても、全くに他律的かというと、そうではありません。 医者は機械ではなく一人間であり、患者は文字通り、医者に命を預けています。医者は、患者(他律)のために、自律により判断すると、考えれます。 どうでしょうか? 一輪の花の例は、とても感傷的であったため、感傷的に答えてしまいましたが、了解しました。
- Bokkemon
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回答になっていないようでしたら、申し訳ありません。 卑近な例から大上段の例まで、思いつくままに並べて見ます。 ・二人がただ一つ残っている一足の靴を巡ってどちらが買うかを争う。 => どちらかが諦めざるを得ない(一方が諦めればよい、では、双方の人権を満 足したことにならない) ・社運を賭けた商談に急げばギリギリ間に合う者同志が数少ないタクシー待ちで順 番を争う => 間に合わなければ会社が危うい(一方が譲ればよい、では、双方の人権を満 足したことにならない) ・氾濫して繰り返し甚大な被害をもたらす川を改修すると上流住民の生活権(漁業 権)を奪う => 生活権の対立(一方が我慢すればよい、では、双方の人権を満足したことに ならない) ・共に離れて暮らす子2人が寝たきりになった親の介護をする => どちらかは生活を犠牲にしなければならない。共に生活を失うわけにもいか ない。 ・心臓移植を必要とする重篤患者2名に適合する移植可能な心臓1つ => どちらかが生命を維持できる 当事者にとって「譲ってもいいもの」なら、そもそも「譲れない一線」ではなく、ご質問の範疇ではないのでしょうから、それは除きます。 端から見れば「譲れない一線」という重いテーマから言うと馴染まない「ドーデモイイコト」も多いのですが、「譲れるはず」と考えるのは当事者ではないからで、当人たちにとっては必死なこともあり、他人からはその必死な事情を窺い知ることはできないものです。 まさに命が消えようとしている我が子が望むのであれば、一輪の花でさえその子の親にとっては「譲れない」ものでしょう。客観論で「譲れるはず」と評価しても、解決にならないことも多いと思います。
お礼
>客観論で「譲れるはず」と評価しても、解決にならないことも多いと思います。 だから、少し難しいのです。タクシーや、川の話は、解決できるのです。タクシーは、タクシーが儲かる方をとればいいのであり、また、交通の便がよくなることでそういう話は減ります。靴も、話し合い、もしくは、店主が決めればいいのです。店主の基準がお金か気まぐれかはわかりません。 川の話は、自然と折り合いをつけれるかを見極めればいいのです。 寝たきりの親の人権を考えればいいのであり、 心臓の話はちょっとわかりません。順番待ちという現象は起きても、同時にそういう状態が起こった場合は、より助かる見込みの高い方を、医者が決めるのではないでしょうか。それすらも同じ確立というのなら、まさに医者の裁量にかかっているといえます。 >まさに命が消えようとしている我が子が望むのであれば、一輪の花でさえその子の親にとっては「譲れない」ものでしょう。 もっとも目を見張るべきなのは、そこに、無言でささげられている一輪の花の命です。 人権と人権がぶつかるとき、調停をするのは、自然という、包括的枠組みのなかでの、人としてのあり方、であるかもしれません。 人は、独立して生きているのではありません。そうならば、人権という概念など必要ないのです。常に第三者がおり、また、自然のシステムを借りて、生かされているのです。 獲物を二人の猟師が同時にしとめた。だけれども、その獲物はどちらのものでもないという考え方が、その二人が共存する道を示すのではないでしょうか? 個々は個々の枠を超えて。なぜなら、一人で生きているわけではないから。 人は人の枠組みを超えて。なぜなら、人は人だけで生きれるわけではないから。 国も、民族も、宗教も、それぞれの枠組みを超えて、動かなければなりません。 現代において、われわれ個々は、人類としての行動を、目前、迫られています。 ありがとうございました。
憲法で保障している人権は、 第十三条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。 ということで、なんでもかんでも認められるわけではなく「公共の福祉に反しない」限りであり、「最大限尊重」はされるけど絶対ではないわけです。 また、 第十二条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。 とあり、自己の利益のために他のものの権利を著しく阻害するようなこともしてはならないわけです。 どこで線を引くのかというのは個別の事例によって代わってくるわけで、それらの線引きをしたのが現在の民法、刑法、その他の法律になるわけですね。 ここの人権の衝突で考えると、たとえば、税制度もその一つでしょう。 生活の立ち行かなくなった人に対して生活保護という形で、人権のうち基本的な「最低限の文化的生活をする」権利を与えるために、国は他の国民の財産権を制限して税を徴収し、そのお金で生活を保障します。 この場合は生活保護法がそれを行っているわけですね。 このように日本にある法律の相当部分が、人権の保障とそのための権利の制限との二面性を持っています。 では。
お礼
公共の福祉が、ある種空港のどこの国でもありませんみたいな地域を設定しているのですね。線ではなく面で。緩衝地帯とも言うべきでしょうか。 具体的でわかりやすく、日本での実際例まで挙げていただきうれしいです。 ありがとうございました。
補足
法の網(ネット)をくぐってというように、法は面でもなく線でもないのかもしれないと、思いました。
お礼
>人権とは人が生きる権利ですが そうでしたか(謝。人が人らしく生きる権利、というのを思い出しました。 >個人的には生死に関わることでなければ譲るようにしたほうが、後に良い結果になるように思います。 なるほど。死線ですか。確かに、まるで人権に向けられて引かれているようなものですね。非常に参考になりました。ありがとうございます。 動物も、考えれば、死線はかなりの判断の基準であるようにも思います。 人間の死線とは一体何なのでしょう? 難しいです。 ありがとうございました。