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ヒューマニズムとは、どういうことでしょうか。

ヒューマニズムは、ヨーロッパに起源のある思想でしょうが、東洋にはそういう思想はなかったのでしょうか。もともとヒューマニズムは、人間中心主義などと訳されているようですが、どういう意味なのでしょうか。ご教示を、お願い致します。

みんなの回答

回答No.4

 回答番号:No.3:  ☆ヨーロッパのヒューマニズムは中世の権威や権力から人間を解放する根拠…そういう古いものへの抵抗に理由を与えた…、ということでしょうか。  ★私の表現の仕方です。与えたという言い方がどうなのか疑問ですが、ある主とした思潮のあるキャッチフレーズやジャスティファイする言い方に使われたのではないですか。  ☆対置するものがなければヒューマニズムは、もしかしてなかった?  ★対置するものが無かったではなく、旧来のものがある傾向には邪魔な制約になり、そこから抜け出す必要がかだいとなった。そのための反旧弊の観念とことばでしょう。そういう旧弊と思われるものがなければ、当然、ヒューマニズム要求という運動はないのでしょう。  歴史に何がなかったらは、意味の無いことではないですか。  解釈と構成ではあるが、頭の中の論理演算ではないのですから。

M2331110
質問者

お礼

ありがとうございました。歴史の中でのヒューマニズムが、どのようなことなのか、少し調べてみます。『もしかしてヒューマニズムはなかったのでは?』と申し上げたのは、歴史的な状況を別にして、ヒューマニズムを考える余地があるような気がしたので、違った言い方をすべきでした。貴重なご意見、お礼申し上げます。

回答No.3

 私の認識でしか在りませんが、回答番号:No.2の補足です。   1. 中世をどう捉えるかによってヒューマニズムの意味も違ってくる。そういうことでしょうか?  No.2の補足:近代の欧州世界史は、中世を宗教(カソリック)呪縛の伝統と呪縛の時代、暗黒の時代などと観することが多いですね。  そういう風にみて、それからの解き放ちを近代という観方があると存じます。  人間主義とか、ヒューマニズムとかいうのは、そういう対置的な運動とスローガン的な概念ではないのでしょうか。  という意味で申し上げました。中世を絶対王権や中央集権のない、のどかな、地域の自由な文化が花咲いていたと見る観方では、ルネッサンスの人間主義やヒューマニズムなどのいう主張は的を得ていないというのではないでしょうか? 2. 宗教関係に対置されるというのは、  教会権力に反駁する側面、効果のある、運動概念でしょう?  一つは、聖と俗でいえば、俗のほうは主として、王権でしょう。  だから教会権力と王権。  もう一面は、教会の教えとそれからの離間。  そういう対置関係ではないですか?

M2331110
質問者

お礼

ありがとうございました。ヨーロッパのヒューマニズムは中世の権威や権力から人間を解放する根拠…そういう古いものへの抵抗に理由を与えた…、ということでしょうか。ヒューマニズムは権威や権力に対置する。対置するものがなければヒューマニズムは、もしかしてなかった?

回答No.2

 ヒューマニズムというタームは人間主義というような意味と訳語なのでしょうかね。  世界史の中では、近代の幕開けとしての、ルネッサンス(人間復興)で唱道されていましたよね。  何からのルネッサンス(人間復興)かは、回答番号:No.1さんのご回答にもありますね。  中世というのをどう評価するかの見方と課題を含んでいるでしょうし、人間主義をどこから復興するか、どこでどう疎外されていたかの言い方、視点も考えるのでしょうね。  最初から何かを追求する目的性も無く、唯単に、自堕落や、取り留めなさ、したい放題が人間の復活や復興ではないでしょうし、人の考えた道徳や社会規範にがんじがらめになるのが、それでもないでしょう。  そういう意味からは、東洋の儒教や老荘思想も、そして仏教も人間の、個人と世界の解脱と復活なのですよね。  欧州世界史における、ヒューマニズムという形での、教権に対する反発ではないですけれども。  歴史はずぅっと人間の復活であってきたのかなと、存じますが。  欧州世界史のヒューマニズムは、そういう意味ではないのですよね。  だから、そのヒューマニズムはやはり、宗教(人間の復活を目指す)関係の特定の教えでは対置されうるものですね。

M2331110
質問者

お礼

ありがとうございました。ヒューマニズムは、ヨーロッパでは中世から近代への変化の一つの契機で、中世をどう捉えるかによってヒューマニズムの意味も違ってくる。そういうことでしょうか?宗教関係に対置されるというのは、どういう意味ですか?

  • marginate
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回答No.1

ヒューマニズムは今では多義的な意味になっていて訳も複数ありますよね。 だからもう、ごく単純に考えたほうが意味はつかみ易いような。 【神様(を崇め奉ること)中心の世界】→【人間(の心のはたらき)の自由な世界】にしよう! という運動である、というふうに。 つまりは、宗教やしきたり等の“その時代の常識”の苦しさを払拭し、もっと自由に人間らしく生きてもいいじゃないか!という反動的な運動である、と言っていいと思います。 >東洋にはそういう思想はなかったのでしょうか どこまで広げて“そういう思想”ととらえるか問題になると思います。 例えば、そういった運動の対象を宗教に限定するのか、そうでないのか。 支配的イデオロギーに対して起こった、人間性を感じさせる思想であればよいのか。 その後の発展を重視して知りたいのか、などなど…。 広げてとらえると、クラシック音楽に対する、ジャズやポピュラー音楽の発生だって“そういう思想”とみなすことだってできてしまう。 だからもちろん東洋にも色々“そういう思想”はあるでしょうね。 儒教に対しての老荘思想や、日本にまで狭めて本居宣長の思想を“そういう思想”という人だっているかもしれませんしね。 ヒューマニズムの“そういう”を自分で定義して質問すると、明確な回答が得られやすいかもしれません。

M2331110
質問者

お礼

ありがとうございました。ヒューマニズムは古いものから人間を解放する反動という形式…というようなことでしょうか。(おしゃっていることと違っていますか?)解放の内容はさまざまで、だから意味も多義にわたる。もし、理解に誤りがあれば、ご指摘願います。

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