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なんみょうかなんまんかアッラーか??
最初はごく当然なふわっとした疑問でした。 他家での焼香などの際にその家の宗旨と自分の宗旨が異なる場合、「念仏」「題目」などにつきどちらで発声すべきなのだろう?という疑問でした。 これにつきある所で聞いたところ 「それは、個人の信仰と、自分とは異なる異文化に対する礼儀との間で、どうふるまうかの問題」 との答えがありました。 ありゃっ・・・、あらら・・・いつのまにか、自分に似合わぬ壮大なるスケールの話となっちまったわけです。 考えてみればたしかにそうで、仏教間各宗派のみでなくキリスト教イスラム教などの礼拝に立ち入らざるえない局面などでも同じ事はいえますよね。 まあ、仏教内異宗派であれば、イージーに考えれば 「声には出さず心の中で自分の宗旨で唱え事をしておく」 くらいが無難だろう、とは思いますが、いろいろな局面というのが有りいつもそうして済ませるとも限らないだろうし、この手の事をもう少し深刻に考えた時にはどうなるものでしょうか? あっ、ちなみに当方はけして「何かの宗教の真面目な信徒」などでは実はありません。 こんな事で悩んでもいません。 不謹慎な奴と言われそうですが「面白い」と興味をもったにすぎません。 皆様ならどうするでしょうか?
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- henmiguei
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お礼文を拝見しました 貴殿のご質問の趣旨を誤解していたようで 的外れな回答してしまったことをお詫びいたします 普遍性のある方法と言えば一概には言えないだろうが 1、自己の宗教で押し通す 2、深々と礼をするだけで済ます この二つに付いては 以前キリスト教の葬儀に 仏教のお坊様が参列された時の事でした お坊様は普段仏事でと同じ僧衣で参列され ご霊前では数珠を手に取り 白い花をキリスト教の決まり通りにささげられて 数珠を両手で合わせて深々と一礼をされて下がられました 僧衣の方がご霊前に進まれたときは参列者全員から 「おっ」と驚きのような声がそこここで上げっていましたが お参りを済まし下がられるときには 「お~」と言った声が方々で上がっていました 先の「おっ」は”なんだこの坊主キリスト教なのに” と言った声だったと思います 後の{お~」は”立派な立ち居振る舞いだった” ”さすが僧籍にいる人だたいしたもんだ と言う賞賛の「お~」だったのではなかったでしょうか これを踏まえて考えると 自己の宗教を押し通すか 無宗なら相手にあわすのが やや普遍的な対応と言えるのではないでしょうか。
- henmiguei
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当然、相手方の宗旨に会わすべきでしょう 単純に考えて キリスト教徒が仏前に御参りして 焼香すること自体が 相手方にあわせていることになります 仏教の葬儀に参列して ご仏前で突然に十字をきれば不釣合いでしょう それでもわが道を行くとばかり 仏教信者が神徒のご葬儀で 数珠を取り出して拝めば その場のヒンシュクを買うことは必定 したがって「お念仏、お題目」も 相手方に合わせるのが 礼儀と言う物ではありませんか。
お礼
ご意見有難うございます。 たしかに何の信仰も持たない人の場合はそれで済むのですが、例えばイスラム教徒に相手に合わせ賛美歌を歌えというのも酷な話ですよねえ。 ですからまず最低、他の宗教での礼拝の場面で自分の宗旨をおおげさに表現する、というのは良くない事としたら、 簡単に考えれば「沈黙」が有効ですが、それ以外普遍性のあるどんな手があるだろうか、といった意味の問のつもりでした。
- comon-suki
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葬儀の際は、 安らかにお休みください~ 生前はお世話になりました。 いろいろとありがとう。 さようならなどなど、 言葉を思い浮かべて、黙とうさせて頂いています。 題目や念仏などは、賛美歌など 僧侶や牧師さんのプロにお任せしています。 時に印刷されたものを渡されて 御唱和を促される事も有りますが、 声を出す事はないです。 私も取りたてて信者ではありませんが、 自宅の仏様は、 御本尊様にあっている、家の仏教の宗派の 南無~~~を唱えます。 毎日お参り出来る事を感謝します。 と伝えていますね。
お礼
おだやかでおやさしいお気持ちが伝わりほのぼのとできました。 そうですよねえ。 それでいいはずですよねえ。 現実の日本では自分の考えた疑問はやや空想的で、その辺は実は配慮されてるんじゃないかな、とは思いました。 考えるとすれば他国的宗教の場合だけですかねえ・・ どうも有難うございました。
お礼
理解願えて有難いです。 情景がはっきり目に浮かぶ様な具体例、有難うございます。 たしかにそのお坊さんの振る舞いは私個人は立派に思うし多くの参列者もそう思ったみたいですね。 でも「自己の宗教を押し通した」でもないのじゃないでしょうか? 僧衣や数珠はそのとおりですが、礼ですましお経の片鱗らしきものはあえて唱えなかったわけで、そこにやはり「他宗教への礼儀」なるものが充分配慮されてるじゃないですか? これは僧侶という「専門家」の場合の一例として参考になりました。 再々どうもかたじけないです。有難うございました。