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経済に家計の原則は当てはまるか?

とある記事にこのような事が書かれていました。 「経済を個々の企業と同じ方法で分析することはできない、ということだ。個々の企業にとって、コストを削減することは理にかなう。世界が同じことをしようとすれば、単に需要を縮小させるだけだ。個人は自分の所得を全部使わないかもしれないが、世界は全部使わなければならないのだ。」 記事に書かれているように、需要を収縮させてはいけない、極論すれば無駄遣いをして浪費することを求めることはおかしくないでしょうか? 家計で考えれば、その家でいくら買い物をしたかの数値は「豊かさの指標」としては当てはまるかもしれませんが、健全な家計を表す指標とは言えませんよね。 家計が健全か否かは預貯金や資産の量や収入の量、そして収入に見合った支出に抑えられているかが指標になると思うのです。 今回のサブプライム問題は収入に見合った支出に抑えられなかった事が原因だと思います。 そして、この問題に気付くのが遅れた理由として、浪費すればするほど豊かであるとする経済システムが、問題に気付くのを遅らせたのではないでしょうか。 例えばGDPと言う経済指標が重視されていますが、GDPこそはまさに浪費ばかりを追求する現在の経済システムの象徴的な指標だと思うのです。 GDPと言う経済指標には今回のサブプライム問題などの問題を防止する機能や目的はないと思いますが、GDPを経済指標に据えずに、家計の健全性を表す指標のようなものを経済指標に据える事は、はたして可能でしょうか?

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noname#97610
noname#97610
回答No.1

>需要を収縮させてはいけない、極論すれば無駄遣いをして浪費することを求めることはおかしくないでしょうか? 求めること自体はおかしいことではありません。消費をするしないは個人の裁量ですし家計に消費してもらいたくて企業は経営努力をしています。 >家計で考えれば、その家でいくら買い物をしたかの数値は「豊かさの指標」としては当てはまるかもしれませんが、健全な家計を表す指標とは言えませんよね。 >家計が健全か否かは預貯金や資産の量や収入の量、そして収入に見合った支出に抑えられているかが指標になると思うのです。 まず何をもってして“健全”と決めるかが問題です。例えば企業では会計上の経常利益や自己資本比率などがありますが、これらの指標は経営体質の判断材料にはなっても、それらの数字だけでは健全か不健全かを決めることが出来ないからです。 例えば、一般的にたくさん借金をしている個人は不健全と判断されるかもしれません。しかし、電力会社なども実は負債比率は断トツで高く、資本のほとんどが借金です。では、電力会社は不健全でしょうか?答えはNOです。電力会社は収益性が高く確実な利益が見込める産業だからこそ、負債比率が高くても経営を継続することが出来ているのです。 ちなみに、これはお金がどれだけ出入りするかというフローの概念とどれだけのお金を持っているかというストックの概念との違いからくる矛盾です。 >浪費すればするほど豊かであるとする経済システム 例を出してまで伝えたかったことは、経済システムというのは消費だけでなく「消費に伴った所得が配分される」ことが前提となって初めて成り立つということです。言い換えるならば、所得が消費を増大させ且つ「消費が所得を増大」させて初めて成立するということです。 お金が出入りするということはただ単にお金とモノの移動があるということだけでなく、そこに付加価値が生まれます。そしてその付加価値の合計がGDPです。 GDPの上昇がお金の移動(消費や所得)と関連しているかどうかは一概には言えませんが、お金の移動によって付加価値は一般的には大きくできるとされています。 たくさん消費をし、所得が増えれば増えるほどいいというわけではありません。これが過剰になるとインフレーションになります。逆にまったくお金やモノの移動が無ければデフレーションになります。なので、適度に景気が上がったり下がったりするのが一番いいです。 >GDPを経済指標に据えずに、家計の健全性を表す指標のようなものを経済指標に据える事は、はたして可能でしょうか? 繰り返しになりますが、家計が健全であるという判断は一概には出来ません。しかし、家計を表す指標を経済指標の一部に据えることは可能です。例えば、消費性向(所得のうちどれだけを消費にまわすかを示した割合)やジニ係数(所得格差を示した指標)といったものが使われています。

penguin1979
質問者

お礼

お礼が遅くなってしまいました。 結局自分の知識が足りずに答えが出ないままです。 少し考えた結果思い付いたことは 資本主義は金を持っていない経営者が金持ちの資本を引き出す為に生まれた経済システムで、その経済システムが成熟し、金持ちのみならず市民の資本までも引き出す方向に至ったのではないかと。 GDPが注目されるのは、投資をする側に必要な指標であり、つまり投資をする市場として成長性があるのかを知るために必要なんじゃないか? だとしても成長を追い続けなければいけない経済システムはいつか破綻するのではないか? いろいろ思いつきましたが、今回はこれでいったん締め切らせていただきます。ありがとうございました。

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その他の回答 (1)

noname#76629
noname#76629
回答No.2

 こんにちは。  件の記事は、マクロ経済学でいう「合成の誤謬」を意識しているように思います。もっともどこまで正確に理解しているのかは怪しい気もしますが。  経済学の教科書としてよく引き合いに出されるサミュエルソンの教科書では、「合成の誤謬」の例として、「物価が安くなれば、もっと多くのものが買える。だから全ての価格を半額にすればよい」というような考え方が挙げられているそうです。全ての財やサービスの価格が半分になる以上、労働者の賃金(労働の価格)も半分になり、どれだけ生産され、どれだけ消費されるかは何も変わらない。名目GDPは半分になるでしょうが、実質GDPは同じです。  記事の筆者が「世界が同じことをしようとすれば、単に需要を縮小させるだけだ」という言明において何を言おうとしているのか正確なところはわかりません。世界中の全ての経済主体が、何よりも出費を削減することにのみ注力するとすれば、生産と消費が均衡するところまで経済規模は縮小するでしょうが、個々の経済主体の判断の帰結ですから、現状よりも貧しくなるからといって一概に否定しうるものではない、というのが標準的な経済学の考え方ではないかと思います。もっともその過程がひどく悲惨なものになりやすいことは、確かだと思いますが。  個々の企業がコスト削減に取り組むのは、より少なく生産することが目的ではなく、現在と同じ生産量を得るのに、より少ない労働、より少ない資本、より少ない原材料や中間財の投入で済まそうということが目的だろうと思います。もしも現在の生産量を得るために必要な投入が現状の半分でよいということが実現したらどうなるでしょう。これまで一日8時間働いていた労働者は、4時間だけ働けばよいことになります。賃金率が同じであれば収入は半減ですが、世界には以前と同じ量の生産物があります。物価も半分になるというのが一つのありうる均衡です。名目GDPは半分、実質GDPは変わらず。しかし「合成の誤謬」で挙げた例とは、内実はまったく異なり、増産のための余力が存在します。従来通りの投入量で、二倍の生産量を得ることも十分に選択可能な状況です。    企業が家計とはかなり性格の異なる経済主体であることは、他の方が回答していらっしゃるので繰り返しません。一国全体としての経済が収入の範囲内の支出をしているかどうかは、経常収支を見ればわかります。経常収支が赤字であるとは、国内の消費や投資を国内の生産による収入だけではまかないきれず、海外からの資金調達に頼っていることを意味しますが、「不健全」かどうかの判断の基準にはならないようです。相当の長期に亙って経常収支が赤字であっても順調に発展した国は多い、という研究があります(例えば19世紀のアメリカ合衆国)。要は外部調達した資金の元利償還を越える水準の利益を挙げているか、富を蓄積できているか、ということのようです。  結論を申し上げると、家計とは性格の異なる企業や、さまざまな経済主体からなる一国の経済を家計の原則や論理で判断することは必ずしも適当ではないと思うが、質問者が取り上げた記事の内容には問題がある、と考えております。

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