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こんな考えを払拭できない
おはようございます。20代の女性です。 長い引きこもりで平均よりかなり遅れをとっています。それで今から頑張ってもいつか死ぬから、もしかすると半年後には死んでいるかも知れないから勉強しても何をしても無意味だと考えてしまいます。人はいつでもやり直せると言う人がいますけど、やり直しなんて不可能です。何かが出来るとしたら、得たいものを定めてきっと必ず得られるんだと自分で自分を信じないと再起出来ません。一番お聞きしたいことは、50になっても何歳でも勉強している人がいますよね。その人たちは死んだら知識も何もかも無になるのに何故頑張れるのでしょうか? いつか死ぬから頑張って何かに成っても無意味。または頑張っていても何かに成る前に死ぬかも知れないのに何故頑張れるのか? 何かに成る=目的達成です。 ごちゃごちゃのまとまりのない下手な文でごめんなさい。 アドバイス・ご意見下さい。
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頑張る=苦しいと思っていませんか? 苦しい事なんてほとんどの人が長続きしないんじゃないかなぁ。 そこには大なり小なり全部喜びがあると思うんです。 さて生涯学習じゃ~と言って勉強しているご老人。(というのは失礼かもしれない) 何かに活かす為というよりも自分に惚れたい、自惚れたい、うっとりしたいのではないでしょうか。 頭の良い自分、色んな事知っている自分、凄いと言われていそうな自分。 そうやって勉強している自分にもうっとりしているのかもしれません。 あと色んな事を知りたいという欲求もあるんでしょうね。 ところで、質問者様が本当に一番知りたいのは「どうすれば頑張れるか?」ではないのでしょうか?? 気分を害されるかもしれませんが死んだら無延々は、 無意識の内に気力が湧かず動けない自分に対して整合性を保つための都合の良い言い訳にしているだけかな?と思ったりします。 私もちょこちょこ引きこもったりします。 半年~1年半位を2,3回引きこもったりしてました。 引きこもってると余計な事色々考えるんですよね。 そして疲れる。全てが無駄に思える。楽しくない事が増える。 そういう事を経験して今思うのは「考える事が無駄」 いっつも考えても思い通りにいかないから行動してから考える事にしました。 幸いな事に今の所いい感じです。 布団とか敷きっぱなしだったのを毎回押し入れにしまうようにしました。 たまにさぼったりもするけど続ける事が大事と毎日でなくてもやる気になった時にするようにしてます。 するとやるじゃん!俺!と思います。 布団をしまう頻度は順調に増えていってます。 これも無意味っぽいけど気持ちがよいからやってます。 とりあえず価値を求めたり頑張るという事を止めて、 したい事、気になる事、した方が良いと思う事をやってみてはいかがでしょうか? その後、行動してみた後の結果や心情を考えてみては。 結果が出ない事を色々考えているよりスッキリしますよ。
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- aki0208
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20代男です。 自分は自分であって、他人は他人です。 やりたくないならしないでいいんじゃないですか? 私は私で自分が必要だと思うことはしますが、不必要と思うことはしません。 私も「いつか死ぬ」ということはよく考えました。 それなら死ぬまでにしたいことはなんだろう?ということですね。 私は死ぬまでにやりたいことが沢山あるので特に止まる理由はないので止まってませんが、止まるということも悪いこととは思いません。 得たいもの、目的ですよね。目的をハッキリ持って、それを得るために必要な行動をしていく、でもその行動をしたからといっても、得たいものが得られる約束はない。いつ死ぬのかわからないのと同じですね。 目の前の簡単なものから手に入れていけばいいんじゃないですか? 長い引きこもりとのことですが、今得られているものは、親があってのものと勝手に推測しますが、親が亡くなったり、追い出されることがあれば今得られるものも貴方には得ることができませんよね。 食事をすることもお金が無ければできませんし、生活していくこと全般は無理になりますよね。 まあそれでも、仮に生活保護なり受けれるようになれば、生活を維持するために必要な行動も消えますから、何もしたくないなら何もしないでいいと思いますよ? 貴方は貴方で他人は他人ですから、他人の意見に流されることも無く貫き通せばいいです。後悔するようなことも無いはずです。 問題は、何もしていないのに維持できることで必要性を感じないことではないでしょうか? 私のした無駄な行動を言うと、過去偽装請負という社会悪の被害者になりました。そのときの私の行動は、労基署やら相談センターやら片っ端から使えるものを使って解決するために行動しました。駅前で市議会議員の方が活動しているところに割って話しかけてみたり、その結果弁護士の方を紹介してもらったり、その弁護士の方から労働組合を紹介して頂いたり、労働組合の方からもっと行動力のある組合があると紹介して頂いたり、NHK社会事業部の取材を紹介して頂いたり、沢山いろんな無駄なことをして戦いました。 何故無駄かと言えば、私が相手にした偽装請負の会社は社会が許さず淘汰されましたが、現実にはまだまだそういった違法企業なりは沢山あるからです。 それに私が得たものは、加害者側の企業が淘汰されただけです。 別に慰謝料とかお金が欲しかったわけじゃないので、私は問題の改善のみを要求しました。無駄な時間と労力とコストを実費で支払っただけですね。 自分を実例にして何故こんな利益もないものに頑張れたんだろう?って思えば、わかりません。なんでだろう(笑) 強いて言うなら、自分の大切だと思う人に味合わせたくないってことくらいですかね。姪がいるんですけど、これがまた可愛くて。 姪が社会に出て働く頃にこういった企業が1つでも減れば、被害に合う確立も全く0じゃないのかな?とかそんなもんです。 いつか死ぬと割り切るのなら、それこそ何も恐れないで自分の感じるままに好きなようにすればいいと思います。
- IceCocoa31
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おはようございます。 「遅れ」ってなんのでしょうか。 遅れているようで遅れていないもんです。 「遅れ」という判断基準を決めたものは、今の競争社会から来る概念に過ぎなかったりするものではないでしょうか。 「ある人より効率化の技術を会得していれば他人より送れていない」だとか、「ある人より先に就職に就けていれば遅れていない」とか、そういった判断基準は、本当のところは一体どこから来てしまっているのでしょうか。 >人はいつでもやり直せると言う人がいますけど、やり直しなんて不可能です。 それはきっと、心持ちを、ということなのだと思います。 「人生をやり直す」ことは「今までの記憶や辿ってきた岐路を変更する」ということで無理です。ですけれども「自分の今の気持ちを変えていくこと」はできるからこそ、人はいつでも「心持をやり直せる」ということなのだと思います。 結婚したり、お金持ちになったり、沢山の人に認められたり、人によって、沢山沢山の価値があるのかもしれませんが、その価値は自分自身で決めることができるものです。 こういった何気ない会話のやり取りにだって「あのドリームジャンボの3億円より価値を見出せる人」だって中にはいるからです。 中には「ただの会話に3億円以上の価値がある訳ないだろう、馬鹿が」なんて思われる人がいるかもしれませんが、価値の決め方というはそういものですから。 私はいまここで質問者さんとお話できることに「3億円以上の価値があると思います」。 だってそれは、お互いで触れ合って、悩みを解決しようと一緒に考えたりすることで「今を生きること」ができるからです。 「生きてない!」なんて言われてしまうかもしれません。 ですけれど、色々な会話、色々な生活、色々な人生の中で「何かを感じていくことができる」。 本当に何を求めているのかはわからないかもしれない。 だけれども「逆にそれが何なのか一生わからない」なんてことも言えないでしょう? どちらも「わからない」のであれば 「何か分るかもしれない」という方向に賭けてみるというのはどうでしょうか? >いつか死ぬから頑張って何かに成っても無意味。 >または頑張っていても何かに成る前に死ぬかも知れないのに何故頑張れるのか? この質問をされている時点で、 「質問者さんは既にそこに何かがあるのである」ということを言われているのと似たことを言われていることになっているということにお気づきでしょうか。 本当に何も無いのであれば「そもそもこういう質問は無いもの」なのだと思いますから。 私もどうしてなのかはわかりません ですけれども人が疑念を抱くときというのは、その疑念の先に「何かしらの答えがある」ことを知っているからではないでしょうか。 >一番お聞きしたいことは、50になっても何歳でも勉強している人がいますよね。その人たちは死んだら知識も何もかも無になるのに何故頑張れるのでしょうか? 答えはわかりません。 ただ、人生を終えるまでには、或いは、そこを考えていくことで、人生の終わりの最後には、それを発見できるのではないかなと思っています。(それこそ、死ぬ間際の瞬間かもしれませんが) ですので、哲学的な仮定ですけれども、 良く神話伝説などでもある話ですが「人が何か使命を持ってして、この地に産まれたのであれば」。 もしかしたら「何歳になっても疑問を持つ、興味を持つ、興味を失わない」ということがあるのだとしたら、それはまだ「自分の使命を見つけられていないから」なのかもしれません。 使命とは、命を何に使うのか、という話なのかもしれませんね。 花に使う人も居れば、ゲームに使う人も居れば、社会貢献に使う人もいれば、瞑想に使う人もいれば、本当に沢山あるかもしれません。 ただ、沢山のジャンルの中から自分に合ったものがあると思うんです。 例えば、質問者さんでも「好き嫌い」があると思います、それは言い換えてみれば「自分に合った、合わない」の話にもなると思います。 ではそこで「自分に合った」ものの最終的なものはなんなのだろうかということです。それは「花」という植物なのかもしれない。それは「人(恋人)」なのかもしれない。それは「家族」という輪なのかもしれない。それは「学者」という地位?なのかもしれない。 答えはわかりませんが。 人には「合った合わない」があるということはわかっています。 またその中に「何%あったものがあるのか?」というものが入っているということもわかります。 もしかしたら「100%合うものを探しているのかもしれない」し、そうでないのかもしれない。或いは「100%」合わないものを探しているのかもしれません。 ただ、ここでまた一つ言えるということは 例えば「50%」合うものを見つけたとしましょう。 そしてそこで「50%」を見つけた時点で、もう私に合うものはないやと思った時点で「その人に合うものは“50%”」ですよね。 ですけれどもそこから 「50%」以上のものをみつけようと行動すると・・・ 60%、70%、80%、90%、100%となるのではないだろうか、というあくまでの仮説です。 そういう論点を踏まえた上で 人は何歳になっても興味を失わずに何かを求めていけるのではないだろうか、と私は思います。 動かないと50%のままですが 動くと50%から何かが変わっていくということだけは、何故かわかっているところなのだと思います。 そしてきっと、その延長線上に“何か”があるのでしょうね。 時間は掛かるのかもしれません。ですけれども、私はそういうものを良ければ私自身も、そして質問者さんにも見つけていって欲しいと思っています。 そして何か発見があれば、それを周りの人達にも教えていって欲しいとおもいます。
補足
おはようございます。 すみません。お礼は必ず書きます。なぜか書けなくなってしまいます。 洗濯しなければ、お風呂に入らないといけない、としなければいけないと分かっているのに、考えると出来なくなります。言い訳をごめんなさい。 何度も読ませて頂きました。大変分かりやすく丁寧で色々と助かりました。ありがとうございました。
こんばんは。アラフォーの主婦です。 50歳になっても勉強している人達は、何かになる事が目的ではないのではないでしょうか? 何かを目指して一日一日輝いて生きる事が大事なのではないでしょうか? 死んだら確かに何もかもなくなるでしょう。 でも生きている間は、自分は楽しく、輝いて生きる事ができる、これは素晴らしい事だと私は思うのですが、どうでしょうか? 生まれたら死ぬ。生まれおちた時から人間は死に向かっています。 でもどうせ死ぬのであれば、できるだけ毎日楽しく生活できた方がよいので、そのために私も頑張っています。 どうせ死ぬ、だから何もしない。それもひとつの考え方だと思います。 死ぬ間ずっとつまらない日々を過ごすのは、私的にはあり得ないので。 あくまでふつーのおばちゃんの経験上の私見ですが、参考になれば
お礼
早い回答をありがとうございます。参考になります。 guguku2さんの書いて下さった事も頭では理解できるのですが、だから変われるということも今までありませんでした。 >どうせ死ぬ、だから何もしない。それもひとつの考え方だと思います。 この考えが根っこにある限り何一つ成し遂げられない人間のままで終わりそうです。大病でも患い死期を待つ間になってやっと「私は間違っていたんだ」と気がついて後悔後悔涙涙。という感じが私なんだと思います。このような想像をしてみても分かってはいるんです。このままでは駄目だ、自分自身と与えられた人生を粗末にしていて、いつか本当に自分を責める時が来そうだと感じます。 全てがグダグダです。すみませんでした。 ありがとうございました。
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お礼
姪が可愛いなんて良い叔父さんですね^^ 姪っ子さんが社会人になられる頃にはもっと良い社会になっているといいですね。 偶然だしたまたまだと言い聞かせたんですが・・すみませんが書かせて頂く事にしました。 「aki0208」というハンドルネームが気になって、気になって。。^^; 御自身のお名前や生年月日とは無関係ですよね? すごく気になってしまいました。 アドバイスありがとうございました。