- ベストアンサー
使用者責任(民法715条)と外形標準説
民法715条の使用者責任で,判例は,下記のとおり,取引的不法行為のみならず,事実的不法行為についても,外形標準説(:その行為の外形からみて被用者の職務の範囲内に属する行為か否か判断するという説)を採っています。 【質問】 外形への信頼が生じない事実的不法行為(交通事故,被用者の暴力行使等)について外形標準説を採ることの理由・メリットについて,皆様の考えをお聞かせください。 http://www.courts.go.jp/search/jhsp0030?action_id=dspDetail&hanreiSrchKbn=01&hanreiNo=28377&hanreiKbn=01 http://www.courts.go.jp/search/jhsp0030?action_id=dspDetail&hanreiSrchKbn=01&hanreiNo=29424&hanreiKbn=01 http://www.courts.go.jp/search/jhsp0030?action_id=dspDetail&hanreiSrchKbn=01&hanreiNo=27179&hanreiKbn=01 ※(使用者等の責任) 第715条 ある事業のために他人を使用する者は、被用者がその事業の執行について第三者に加えた損害を賠償する責任を負う。ただし、使用者が被用者の選任及びその事業の監督について相当の注意をしたとき、又は相当の注意をしても損害が生ずべきであったときは、この限りでない。 2 使用者に代わって事業を監督する者も、前項の責任を負う。 3 前2項の規定は、使用者又は監督者から被用者に対する求償権の行使を妨げない。
- みんなの回答 (2)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
- ベストアンサー
「考え」を聞きたいということなので通説的理論とかではなく私見を前面に押出して話をします。 一言で言えば、理由付けが仔細な説明しないで(悪く言えば)手抜きできることに尽きるでしょう。 これは冗談や皮肉などではありません。 内田先生の教科書でも触れていますけど、事実的不法行為における使用者責任を認める実質的な理由付けとして外形標準説は全く機能しません。 極端な言い方をすれば、その事例の特性に合せて使用者の責任を認めるのが妥当かどうかということを考えた上で、その理由付けを一言で言い表すいわばマジックワードとして「外形」という表現を使っているだけ。 実質的には外形を判断の基準としているのではなくて、外形がそれっぽく見えることはただの前提であり、その前提の上で、実質的に使用者に帰責させることが妥当かどうかという判断をしていると評価すべきです (そもそも外形すらないような事例ではさすがに使用者は当該不法行為とは無関係とすべきで、その意味で外形は最低限の縛りということもできます)。 であるならば、外形標準説を採る利点はせいぜいが説明の便宜でしかなく、最初に述べたとおり形式的な説明で手抜きができるという利点くらいしかなく、理論的実質としては何のメリットもないと言うべきです。 質問で示した判例の内、外形という表現を使っているのは一つだけですが、いずれにしても当該判例を読んでも実質的な理由は何も書いていないと言わざるを得ません(内一つは本当に何も書いていない典型的な上告棄却の判決ですが)。 原審を是認するだけの場合には、原審の理由付けを改めてくどくど言わないので本来ならば原審を読んだ上で検討すべきものではありますが。その点で、考察としては極めて不十分であるということは一応言い訳として付言しておきます。 なお、私個人としては、 事業執行と関係のない事実的不法行為において使用者責任を認めるにふさわしい事例では、使用者自身に固有の不法行為責任を認めることも可能な事例であり、共同不法行為としても処理することも考えうる事例である。 しかしながら、共同不法行為よりも使用者責任の方が被害者保護に厚い。 そこで、使用者責任をできるだけ認める方向で個別具体事例に即した実質的判断を行うが、これを統一的に説明する理論的根拠を構築するのは容易ではないあるいは不可能である。 そこで、比較的統一的な要素として見られる外形という点に注目して、実質的判断を一言で表現する便法として外形と述べているにすぎない。 実際の使用者責任の肯否は、当該事例について実質的な価値判断に依拠しているもので、そこから一定の理論的理由付けを導くのは、事例の集積から帰納的に行うことしかできず、今後の学問的考察の進展によるべきである。 と考えています。 もちろんこんなことを言っている文献は見たことがないので私が勝手に思っているだけですが、使用者責任の適用を事業執行と関係がない事実的不法行為の領域まで拡大してしまえばもはやそれは報償責任の原理からは逸脱しており、この場合の使用者責任は共同不法行為についての一種の特則として再構成すべきではないかというわけです(なお、起草段階における使用者責任はあくまで自己責任であり、代位責任ではない。運用上、自己責任→代位責任(報償責任、危険責任)と責任の性質が変遷しているのである。しかし、これはあくまでも典型的な事業執行に関係する場合あるいは取引的不法行為までは妥当するにしても、事業執行から離れた事実的不法行為においてまで同じと考えるのは無理がある)。共同不法行為の特則と捉え、本来の使用者責任とは異質と考えるならば、自ずから責任の本質を異にすることも当然であり、要件論についても外形理論に拘る必要もなく、独自の要件論の定立が可能になるしまたそうすべきであると考えているわけです。 こんな話は受験政策としては何の意味もありませんが。 試験でどういう表現をするかという受験政策的な話なら書きやすいようにすればいいと思います。 ただし、学者でない実務家であっても理論的な考察というのは必要であり(そこが法曹三者とそれ以外の法律系資格の最大の差だと思ってます。自称でも他称でも法曹三者以外の法律関係者というのは理論をあまりにも軽視しすぎる人が多いと感じていますが、理論抜きで裁判をやれば、人民裁判という名の前近代的な吊し上げになってしまいます)、受験政策とは別に法が社会政策の道具として有効に機能するための理論的考察というのはプロにとっては必要不可欠な話です。 これは釈迦に何とかかも知れません。ただの余事記載です。
その他の回答 (1)
- ok2007
- ベストアンサー率57% (1219/2120)
いま手元に資料がないので記憶頼みであり、申し訳ないところですが、裁判所は「事実的不法行為」か「取引的不法行為」かという区別をしていない、という評価が一般的だと思います。 そもそも、裁判所の規範は「広く被用者の行為の外形を捉えて客観的に観察したとき、使用者の事業の態様、規模等からしてそれが被用者の職務行為の範囲内に属するものと認められる場合で足りる」、あるいは「(使用者)の事業の執行行為を契機とし、これと密接な関連を有すると認められる行為をすることによつて生じた(損害であればよい)」というものですよね。ここには「事実的不法行為」の「じ」も、「取引的不法行為」の「と」も、出てきません。 つまり、「事実的不法行為」「取引的不法行為」という区別をしているのは学者側であって、弁護士が法廷でこれを主張するから裁判所も付き合っているけども、裁判所の規範はそこにはない、ということです。 したがって、「(判例が)事実的不法行為について外形標準説を採ることの理由」は、簡単には、「裁判所のよるべき規範がそこではないから」となります。 そして、上記規範とすることにより、被害者の救済をより厚くすることが出来ます。これがメリットとなりましょう。 なお、No.1のtaikon3さんご指摘の「便法に過ぎない」との評価は、的を射ていると思います。不法行為法の専門家も、判例の統一的類型的分類は困難と(確か)言っていましたし。 不法行為事案に関する裁判所の判断の基礎は被害者救済如何にあり、理由は後付けとする節があるような気がいたします。 学者や実務家の判例解説などをお読みになってみてもいいと思いますヨ。すでにお読みであれば、ごめんなさい。
お礼
丁寧なご解答ありがとうございます。 ・「規範とすることにより、被害者の救済をより厚くすることが出来ます。これがメリットとな」る。 ・No.1のtaikon3さんご指摘の「便法に過ぎない」との評価は、的を射ていると思います。不法行為法の専門家も、判例の統一的類型的分類は困難と(確か)言っていましたし。 ・不法行為事案に関する裁判所の判断の基礎は被害者救済如何にあり、理由は後付けとする節があるような気がいたします。 以上の点,そのとおりと思います。 余談ですが,今の司法試験は,新旧とも,学者のする議論(いわゆる「論証」)を厚く書くことではなく,具体的問題の解決を答案にあらわすことが重視される(つまり,点をくれる)ようになったと言われています。 判例の規範を前提としながら,被害者救済等の点に具体的に配慮することが,試験においても,実務においても必要でしょうね。
お礼
丁寧なご解答ありがとうございます。 「その事例の特性に合せて使用者の責任を認めるのが妥当かどうかということを考えた上で、その理由付けを一言で言い表すいわばマジックワードとして「外形」という表現を使っているだけ」というのは,そのとおりと思います。 裁判所は学者ではないので,具体的妥当な判決を通じて裁判への信頼,ひいては国家秩序の維持を図る必要があります。 被害者保護の必要性にかんがみれば,「共同不法行為よりも使用者責任の方が被害者保護に厚い」ことから,「使用者責任をできるだけ認める方向で個別具体事例に即した実質的判断を行うが、これを統一的に説明する理論的根拠を構築するのは容易ではないあるいは不可能である。そこで、比較的統一的な要素として見られる外形という点に注目して、実質的判断を一言で表現する便法として外形と述べているにすぎない。実際の使用者責任の肯否は、当該事例について実質的な価値判断に依拠しているもので、そこから一定の理論的理由付けを導くのは、事例の集積から帰納的に行うことしかできず、今後の学問的考察の進展によるべきである」と,最高裁も考えているのではないかと推測します。 試験対策としては,私はあくまで最高裁判例に従う立場なので(:なぜなら,それが実務に沿うからです),最高裁判例の立場を,ご指摘のような真の意図をも読み取りながら理解の上,規範として活用していきたいと思います。