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「に対して」「にとって」の使い方
韓国からの留学生の友達が 「この本は私に対して大切です」 や 「先生は学生にとって厳しいです」 と言っています。 私としては 「この本は私にとって大切です」「先生は学生に対して厳しいです」 と言った方がしっくりきます。これは「に」という格助詞の使い方を混同してしまっているのでしょうか? 「に対して」「にとって」の違いについて、皆さんの意見を聞かせていただける嬉しいです。
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- Parismadam
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はじめまして。 ご質問1: <これは「に」という格助詞の使い方を混同してしまっているのでしょうか?> 違うと思います。 ここでは格助詞「に」は、どちらも、動作の「方向」を表す助詞として同じ用法で使われています。 従って、混同することはありません。 ご質問2: <「に対して」「にとって」の違いについて> 1.「AはBに対して~である」: (1)この時、文の重点は主体「A」に置かれています。 (2)「対して」は 「対する」の連用形「対し」+接続助詞「て」 の連語です (3)この連語は「動作の向かう方向」を表します。つまり、主体が対象に向かって動作を行う、といった積極的な意味を伴います。 (4)「対して」が使われていることで、Aの動作に主体性が生まれ、焦点があてられることになるのです。 2.「AはBにとって~である」: (1)この時、文の重点は対象「B」に置かれています。 (2)「とって」は「とりて」の促音便形で、 「とる」の連用形「とり」+接続助詞「て」 の連語です。 (3)この連語は「主体を対象の方にとりこむ」ことを表します。つまり、主体を対象に引き寄せるという、対象を中心とした語法になっています。 (4)「とって」が使われていることで、主語Aは「取り寄せられる」受動的な役割になり、対象Bが実質的な主役として、焦点があてられることになるのです。 3.両者の違い: 以下の2つの例文で比較します。 1.「彼は、私に対して、親切です」: (1)重点は「彼」にあります。 (2)対象である「私」は、「彼が親切である」という主要素を補う、単なる修飾語でしかありません。 (3)従って、「私に対して」がなくても、「彼は親切です」で文法的にも十分意味が通じます。 (4)構造的に見れば 「彼は親切です」という主幹に、「私に対して」という枝葉が対象となる修飾語として挿入・添加された形です。 2.「彼は、私にとって、大切です」: (1)重点は「私」にあります。 (2)ここでの主役は「私」で、「彼」は「対象」という脇役でしかありません。 (3)従って、「私にとって」がなければ、「彼は大切です」だけでは文意が通じないのです。 (4)構造的に見れば 「私にとって大切です」という主幹に、「彼は」という枝葉が対象となる修飾語として挿入・添加された形です。 ご質問3: <韓国からの留学生の友達が~と言っています。> この2つの文に違和感があるのは以下の理由からです。 1.「この本は私に対して大切です」: (1)上記の説明の通り、「対して」は対象に向う主体の積極的な動作を暗示します。 (2)この文の主語は「本」ですが、「本」は物なので主体的な動作はしません。 (3)それが、「対して」と使われることに違和感が生じる理由です。 2.「先生は学生にとって厳しいです」: (1)上記の説明の通り、重点は「学生」におかれています。 (2)学生が主体ですから、「学生にとって厳しい」というのは、学生が「先生は厳しい」と判断・評価していることになります。 (3)学生という「下」の者が、先生という「上」の者を評価する、という行為に違和感があるのです。 以上ご参考までに。
- shinya23so
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Aにとって と言うのは Aを中心として考えると という意味があります。 Aに対して の方は、 Aを対象として考えると という意味があります。 「この本は私に対して大切です」 「先生は学生にとって厳しいです」 入れ替えてみてください。 「この本は私を対象として考えると大切です」 「先生は学生を中心として考えると厳しいです」 私を中心として考えるのは簡単です。 しかし、私を対象として考えることはあまりしません。 なぜなら、結果的に自己中心的になってしまうからです。 だから変な感じがするのでしょう。 また、学生という複数の集合体(図形でいえば 面) を中心にするのはしっくりきません。 私と言う単体(図形でいえば 点) を中心にするのが、分かりやすいでしょう。 「この本は私を中心として考えると大切です」 「先生は学生を対象として考えると厳しいです」 正しいというよりも、分かりやすい表現です。