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考えに対して考えてしまう

こんにちは 以外と重大な悩みです。 質問タイトルがどういうことなのかといいますと 例えば 目の前で人が転んでしまったとします そのときどうするべきか考えます まず心配して「大丈夫ですか」と声をかける、という考えが浮かびます。 しかしこの考えに対して 自分は良い人と思われたくて、こんなことをしようとしている嫌な人間だ、 という考えがでてきて、最初に浮かんだ考えは自分にとって都合のいい解釈の仕方であると思ってしまいます。 それで結局行動ができないことが多いです。 どうすれば吹っ切って行動することができるのでしょうか

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noname#68030
noname#68030
回答No.4

わたしも同じような悩みがあります。 あれこれ考えてしまって、結局やらなかったりすること、よくあります。ネットに投稿する(ここの質問や回答なども)時も、次々に考えが浮かんできて、書いたり消したり、結局やめてしまったり。 質問者さんの例えに対しては、わたしは、よくこうします。 人がどう思うかというのは、気にしない。自分がいいと思ったことを思い切って、実行する。やった(言った)ことを後で後悔しない。 世の中には、いろんな人がいます。一つの行動でも、よく思う人と悪く思う人がいますが、自分が思うほど他人はそのことを気にしてないです。 考えがたくさん浮かぶということは、その中から正しい選択もできるということ。選択したその答えは間違いではないと思いますよ。自分に自信をもって行動してはいかがですか。 プラスに考えましょう。 参考になりましたでしょうか。

kannon00
質問者

お礼

ありがとうございます 自分を信じて行動できるよう心がけてみます 参考になりました

その他の回答 (5)

noname#132831
noname#132831
回答No.6

 「関心を持ってもらいたい」「必要とされたい」「重要人物と見られたい」。そんな感覚は、意識するしないに関わらず誰でも少なからず持っているものです。自分のことを「価値ある存在」だと思いたい…このような【自己重要感に対する欲求】は、社会的な存在である人間として、ごく自然な感情だと私は思います。例えば、手のかかる子どもという存在は、親にとっては自分を「価値ある存在」と思わせてくれる存在であるに違いありません。この無意識な欲求があるからこそ、人は子育てをする気になるのでしょうね。また、人に親切にしたくなるのも、この無意識な欲求が多分に貢献しているのでしょう。そういう意味でも、この【自己重要感に対する欲求】自体が邪悪なものとは思えないのです。「名誉欲」と表現すると嫌悪される方も多いでしょうが、「自分の人生には意味があって欲しい」と表現すれば、もろ手を挙げて賛成する方がほとんどでしょう。  「子育て」「親切」の他にも、「ひとに説教する」「Q&Aの回答者になる」のも、同じ欲求が根底にあるのでしょう。「影響力欲求」「賞賛獲得欲求」「重要人物たらんとする欲求」などとも言いますね。子育て、親切では、<感謝の気持ちが足りないVS恩着せがましい>という構図を描くことがあります。役に立ったのなら「恩着せがましい」という評価は不当ですし、役に立たなかったのなら「感謝の気持ちが足りない」という指摘は的外れです。(道徳として感謝の気持ちを表すかどうかは、ここでは別問題とします。感謝の気持ちとは、『助かったなぁ』とか『もらってうれしいなぁ』という素直な実感に他ならないからです。実感を伴わない感謝の言葉は、ただの礼儀作法です。)同様に、説教や回答の場合は<その人の為VS偉そうにしたいだけ>という構図です。誰が公正に評価するのかという点は、難しい問題ですけどね。  私の考え方としては、、「その人の為にしてるんだ」という<偽善的>な響きは、一塊(ひとかたまり)になった心の動きの表面的な部分(意識に上った部分)に付けられた、一般的な名称だという捉え方です。そして、水面下の部分(無意識の領域)にあるのが【自己重要感に対する欲求】だという捉え方です。これは、釣りで使う≪浮き≫になぞらえることができるでしょう。水面下の【自己重要感に対する欲求】(無意識)の浮力によって、「その人の為にしたい」という気持ちが沸き起こる、という理解の仕方です。「その人の為にする」側は上の部分しか見えていないし(真上から見ているので、意識が邪魔して無意識の存在が見えない)、される側には下の部分がよく見える(斜め上から見ているので、無意識の存在が見える)のです。だから≪偽善者≫論争が起こるのだと思います。  上記の表現は「心理学的表現方法」ですが、報酬系・ドーパミンなどの用語を使った「生理学的表現」も考えられるでしょうし、あるいは「詩的表現」も、やろうと思えば出来るでしょう(私は出来ませんけど)。  とても理屈っぽくなりましたが、だから「偽善者かどうかは気にしなくても良い」という結論です。  しか~し、本当の回答は、「考える」のではなく「感じる」ことを優先すること…という気がします。 http://www.ykren02.com/chap-b_07.html ゲシュタルト療法  まあ、いわゆる自意識過剰の是正です。何が善くて何が悪いのかの根拠は、畢竟「好き」とか「嫌い」とかの“感情”に辿り着くのではないでしょうか。名誉毀損も殺人も詐欺も、人間に“感情”があるからこそ、あ~それは善くないねって納得できるのです。そうじゃないですか。もっとご自分の感情を大切にしましょうよ!

kannon00
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 自然なことと聞いて気持ちが楽になりました。 感じることは大事ですよね。

noname#254711
noname#254711
回答No.5

考え過ぎるってことですね? 例えば「ジャンケン」をするとします。 負けるつもりでやる人は居ないでしょう。 相手が出すであろうと予想して、自分の手を考えますが その裏をかかれる場合もありますから、さらにその裏を考える・・・ キリがありませんね。 結局、何も考えないで出した手と、無意識に出した手の違いはなかったりしもします。 「良い人に思われたい」かどうかは別にしても 人が「自分に都合の良い」ように言動するのは自然な事です。 自分の気持ちのまま(自然な心)で言動する事が 一番楽で、スッキリとしますよ。 評価を下すのは他人であって、その他人も千差万別でありますから 評価も色々と出てきますよ。多数の人の評価が気になるかも知れませんが それらも、時代や所、種族などの違いによって変わります。 瞬間(咄嗟)の言動こそが「自分に正直」だと考えるのが妥当ですね。

kannon00
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 あまり意識しないようにしてようと思います。

  • hondafit
  • ベストアンサー率22% (20/87)
回答No.3

自分は偽善者だと思い込む。 別に悪いことしているわけでは無いのですから、他の人がどう思おうと自分が満足すればそれで良いのではないのでしょうか。

kannon00
質問者

お礼

そうですね 悪いことはしていませんから他人から文句言われることもないですもんね ありがとうございました

  • tomban
  • ベストアンサー率26% (2616/9771)
回答No.2

私は「論理性」で考えます。 まず「自分がどう思われるか?」ということは、最初から「排除」してしまいますね。 これがあると、考えが前に進まないから。 次に「手を出すべきか否か?」を考えます。 不必要と思われるパターンならば、かけない。 そうやって「選択」をしながら、行動を決めます。 人間の行動は、結構シンプルで良いのではないのでしょうか?。 人間どうしの「あや」っていうのは、恐らく考えれば考えるだけ、深みに嵌るものだと思いますよ。

kannon00
質問者

お礼

考えすぎるのもよくないですね ありがとうございました

noname#59124
noname#59124
回答No.1

何も考えない事ですね 自分に正直であるべきでは無いですか 何もしないで後悔するより 行動した方がスッキリしませんか? 私はそう思う

kannon00
質問者

お礼

そうですね やらないより、やった方がいいというのはよく言います ありがとうございました。

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