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家紋、剣付き九枚笹
お尋ねします。 OKWaveご利用の皆様家紋について知りたいです。 皆様方の家紋で「剣付き九枚笹」の家紋をご使用の方いらっしいますでしょうか?この家紋は通常の九枚笹の外側に剣というか六角形で囲んだ形のものです。使用されている方、これまでに見たことがある方がいらっしゃいましたら地域を教えて下さい。逸話などあればお話くだされば楽しめます。
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こんにちは。 笹・竹紋に関しては結構色々なものを見て参りましたが、残念ながら「剣」付きというのは見たことがありません。 仰っているかたちからひょっとしてこちらの「竹亀甲に九枚笹」ではないかと思ったのですが如何でしょうか↓ http://www.alte-studio.com/inkan/kamon_target.php?kamon_id=1414 竹・笹紋(学問的にも一般的も区別されません)は種類も多く沢山の家で用いられており、笹の葉をモチーフにしたものは三枚・六枚・七枚・九枚・十五枚などがあります。 このうち九枚笹は九州の大名秋月氏の紋としても知られていますが、竹亀甲に囲われているものに関しての世に知られた逸話などは残念ながらあまり伝わっていないようです。 また家紋は地縁というより血縁によって受け継がれていくものなので「どの地域のものか」ということを断定することは少々無理があるかと存じます。 参考になるかわかりませんが、九枚笹について色々書いてあるのを見かけましたので引いてみます↓ http://d.hatena.ne.jp/yudukijou/20060614/p1 そもそもの家紋が間違っていましたらお詫び申し上げます。
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- mapato
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#1です。 >これらの裏づけになる情報があればと思い投稿したわけです。 なるほど、そのようなことでしたか。 具体的には何もお役に立つお話も出来ず誠に申し訳ありません。 お話を伺う限りご先祖が藩士であった可能性は比較的高いように思われるのですが、実際はどの程度まで家系を遡ることが可能なのでしょうか。 こういう時やはり頼りになるのは江戸時代の住民課とも言うべき土地のお寺さんでしょう。 過去帖を見せて頂いたり墓地の家紋を逐一調べていくようなことで何か手がかりが掴めるようなことは結構あるものです。 また地元の図書館や役所などに資料がある可能性もあるでしょう。 城下町であったようなところはそういうものを大切にしていたりするものですから、存外津山などはその手のことを独自に調べておられる郷土史家の方なども幾人もおられたりするのではないかと思います。 そのような方々にお話を伺うのも助けになるのではないでしょうか。 勝手ながら歴史ロマン溢れるお話にとてもわくわくさせて頂きました。 今後何か良い手がかりが見つかりますことを心よりお祈り申し上げております。
- mapato
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#1です。 >肝心なことを忘れていました。「竹亀甲に九枚笹」ではないのです。 外枠が竹でなくて、ただの線で囲まれているのです。 そうでしたか。 その点に触れられていなかったのでてっきりご提示申し上げたもので合っていたものと思ってしまいました。失礼致しました。 そうしますと「亀甲に九枚笹」ということでしょうか。 「竹亀甲」より珍しいかもしれませんが、その分家などという可能性もあるかと思います。 福井から津山へということは越前松平家の本家ですね。 石高が低くなってしまった為に実質幕末に福井藩であったほうが本家扱いされることも多いのですが、血筋的には津山が嫡流でそのプライドと現実の壁とに苛まれた藩だったと聞いています。 ご先祖は元々あの藩の藩士だったということなのですね。 それならばある程度の教養や家紋に説明が付くというものでしょう。 そのお話を伺ってからですと歌の奥行きが違ってきますね。 藩の石高が移封に従って減らされてしまったのでやむなく帰農したのかもしれません。 津山藩士の中から九枚笹紋の者を探せば本家筋など何らかの関係を持つ可能性があるかと思います。 う~ん、中々ドラマチックなご先祖様をお持ちで羨ましいですね。 調べ甲斐もあるというものでしょう。
お礼
ご回答有難うです。先に紋が違うと言えば良かったのですが、すみません。 実は、まだはっきりと福井藩士であることは分かっていないのです。ただ、「福言鳥」を勝手に福井と読んでいるに過ぎません。仮の話としてです。津山に至る越前松平家はご指摘どうりです。 藩祖、結城秀康も変遷した人生でした。彼は双子で兄と合判を作ることになり、育てられた本田某の忠義を忘れまいと本の字を大と十にわけ、剣と槍の鞘に見立てたようです。剣大が嫡流に受け継がれ、現代津山市の市章になっているようです。この話を知っていた祖先は九枚笹に「亀甲」をつけて「剣付き」と呼び、暗に福井藩士であることを匂わせていたのではないでしょうか?これもあくまで推測ですが、、? これらの裏づけになる情報があればと思い投稿したわけです。現代は便利ですね。それにしましても歴史にお詳しいですね。楽しめます。
- mapato
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#1です。 >福言鳥とは福井鳥で福井に思いをはせての詠み歌ではと思うのですが ?何か感想でも聞かせてもらえませんか? 歌心がないので良し悪しはわからないのですが、一介の農民が作ったとは思えない立派なものであるように思います。 ご先祖は元々(家系として)高い身分だったというようなことはないでしょうか。 江戸期には苗字を名乗ることが制限されていた為に逆に家紋というものが重視されたというような一面もあるようです。 もし高貴な血筋であったりすれば殊更家紋を大事にされていたに違いありません。 家紋というものは分家する際などにバリエーションが生み出されるものですから決して「一から勝手につくった」とばかりは言えず、本家との差異を生む為の工夫であったかもしれません。 「竹亀甲に九枚笹」は確かにそこら中で見かけるようなものではありまえせんが、家紋を収集したものには載っていますのである程度は使用例があるということでしょう。 辿っていくことが出来れば何かわかるかもしれませんね。
お礼
有難うございます。 肝心なことを忘れていました。「竹亀甲に九枚笹」ではないのです。 外枠が竹でなくて、ただの線で囲まれているのです。まぁ高貴とはかけ離れていると思います。少し、僕が調べた話聞いてくれますか? 福井藩は数奇な運命を辿っています。福井から越後高田、津山藩と除封、移封を重ねていますね。まるで福井の渡り鳥みたいでしょ。国替えの時何らかの身分で随伴していたのではないかと考えています。農民として生きる理由は何か?を考えてみたりしていますが、もっと資料がないと分かりません。 現代、その資料集めの段階です。「墓の家紋は基は..なんだよ」と語りかけているのかも知れませんね。意見聞かせていただき有難うです。
補足
早速のご回答有難うです。 勝手に私の先祖が使用していたのかもしれません。文化3年、嘉永2年に死亡したとある墓に、紋が刻まれていました。 現代に至って使用しています。 農民であったようですが、嘉永の墓には勢いのある文字で、歌が詠まれています。墓は、いづれも現代風で御影石で建立されています。 農民に家紋が必要であったとは思われませんが、庄屋とかは持っていたようですね。文字が書けていたことも驚きでした。 「国替亭 夢時忍バ無 福言鳥」 福言鳥とは福井鳥で福井に思いをはせての詠み歌ではと思うのですが ?何か感想でも聞かせてもらえませんか?