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闘わないのは、武道ではない?

私は、学生のころに合気道をしておりました。 夫は、現在、空手の練習をしています。 私の合気道は、ほんの少し、遊び程度のものです。 夫は実践的で、街で危ない目に会った時に使ったこともあるらしいです。 夫は、私に、 「武道は実際に使えなければ意味がない。 そんな遊びみたいなことではなく、いざというときに相手の顔をめがけて手を伸ばすような練習をしておいた方がよほど良い。」 と言います。 私は、人と闘うことなど考えた事もなく、いざという時に人と闘う訓練などしたくもありません。 大体、合気道は試合もなく、闘うことを前提としていません。 夫は、 「武道をするのに、闘うつもりはないなど、まやかしものだ。 意味のないことだ。」 というのですが、果たして、武道をなさっている方は、この点についてどのようにお考えなのでしょうか。

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回答No.10

空手道・合気道・護身術を指導しているものです。 わたしは、これを生業としています。 朝は金土日以外は、近くの里山で自己修練し、午後からは昼ねをしたあと、道場にて毎日指導をしています。 わたしが、この道に入ったのは、かれこれ20年前です。 強くなりたい(これはケンかに負けない)という単純な理由でした。 当初は、まだまだ若く・・私も不純な理由で・・・そうでした。 ☆「武道は実際に使えなければ意味がない。 そんな遊びみたいなことではなく、いざというときに相手の顔をめがけて手を伸ばすような練習をしておいた方がよほど良い。」☆ のような考えを私ももっていました。この意見は一理ありますが、すべてではありません。といいますのも、武道修行は何歳になっても武の道 (武術のみならず人としての道を含む)を極め続ける旅だからです。 ちなみに、私が今の実力で理解している(捉えている)「武道」とは、人間の社会生活において、責任を持てる自分を確立する道だと。とらえて日々生きています。  自分に自信をもてる己を創ることが、武道の修行かと。 たとえは゛、「町で因縁をつけられても、謝れる自分がいる。」とかです。自信があれば、謝ったとしても、どおってことはありません。 わざわざ危険や荷物をしょいこむ必要はありません。 ただ、護身として使うという状況も一生に何度かはあります。 それが人によってはゼロもあり、好戦的な方では、頻繁にあります。 私の弟子のなかにも、おられますが、ケンか大好きという方です。 しかしその人は、弱いものには絶対手をだしませんし、自分からはケンかはしません。町でみつけた行儀の悪い「若者」に説教をしにいったときに、何人かは向かってくるそうで、それでまってましたと、ケンかをするらしいです。 その方は、合気技のこれは使える、これはダメなどと自分なりに分析しています。なるほどと私も感心することもありますが、相手によっては、ナイフや複数の仲間なんかがいるから、極力やめなさい。とは言いますが、これはその方にとって直しがたい「癖」であり、その方にとっては水戸黄門になったつもりなのか、生きがいとなっているため、ほおっておいています。ちなみにその方は65歳をこえていますが、 それはさておきまして、 自分に自信があれば、 会社内や特殊な職場なんかで、自分の正当性や主張をきちんと押し通せたり、主張できる自分がいることも・・・、武道で鍛えた精神力で可能なのです。 武力的につよい、よわい、という事は実は現象的なことであり、内実は、その人の精神が強いか、弱いのか、また両方が混在している中途半端な精神力なのかということでしょう。 ☆「武道をするのに、闘うつもりはないなど、まやかしものだ。 意味のないことだ。」☆ わたし個人としては、意味があると思います。私も闘うことはすきではありませんし、闘うつもりなど毛頭ありません。しかし不測の事態、突発的な事件などでは覚悟はいつもしていますが・・。性急に「まやかし」だと結論づけるのは少し短絡的だと思います。 武道って、世界に誇れる、日本文化ですよ。 外国の方にも弟子はいますが、どうして日本には武道文化があるのに、K1やプライド・・・・あれは武道ではないダメよ・・日本にちょっと失望した・・・。などとある方はいっていました。 たぶん日本は、武道の国というイメージ(人によって捉え方はいろいろですが)があるらしく、興行的なことには違和感が外国人にはあるのでしょうか。精神的なことを武道に求めて来日してくる人はたくさんいます。 もう少し付け加えますと、私は表千家茶道の地方講師をもっています。 心の道を究める(磨く)だけなら茶道はとてもいいです。戦国時代の武将も茶の湯をしましたしね。 とりとめのない意見になりましたが、ご参考になりますかどうかお許しを。

morino-kon
質問者

お礼

皆様、さまざまなご意見があり、どの方も大変参考になります。 違う内容でございましても、それぞれに一理あり、「なるほど」という点がございますので、同じようなお返事を差し上げております。 皆様のお言葉を有難く、今後の反省材料とさせていただきます。 ご回答ありがとうございます。 先生(ご回答者様)のお茶も、一度、味わってみたいです。

その他の回答 (13)

  • teloon
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回答No.3

闘うためというのは喧嘩するためということでしょうか。つまり武道を喧嘩の道具にしようという考えなのでしょうか。本当に武道を愛する人は、そういうことを言わないと思います。あなたのご主人は武道と格闘技を混同しているのではないでしょうか。武道は武術の道を極めるもので、闘うものではありません。闘いは避けるのが前提です。自分の身を守るためにやむを得ずというのならともかく、初めから闘うつもりでいるなんて、もってのほかです。ご主人の見解では現代、法で規制され街中で使用できない剣術や弓道も、武道ではないという考えなのでしょうか。武道を闘うのに利用する何ていう、たるんだ考えを改めるためにご主人、精神から鍛え直したほうがいいのではないでしょうか。

morino-kon
質問者

お礼

皆様、さまざまなご意見があり、どの方も大変参考になります。 違う内容でございましても、それぞれに一理あり、「なるほど」という点がございますので、同じようなお返事を差し上げております。 皆様のお言葉を有難く、今後の反省材料とさせていただきます。 ご回答ありがとうございます。

回答No.2

おお、男らしい。私も若干の相違はありますが、大筋では同感です。 ご主人の言いたいのはスポーツと武道の違いだと思います。 体を動かしてエクササイズぅって言うのはスポーツで、 大げさな言い方ですが、命のやり取り、真剣勝負が武道だと思います。 はずかしながら、私も合気道と空手をやっております。 合気道の方は2年で辞めましたけど、空手は10年以上やっております。 私がはじめたきっかけは不純ながらケンかに強くなりたいというものでした。 ですが、空手を始めた頃は街でも教わった技術を使いたいので喧嘩を 良くしたものですが、自分に自身が持てるようにってからは、自然と 喧嘩にもならず、そういう事態になっても自ら謝れるようになりました。 黒帯を許されてからは「こういう心構えができてこそ黒帯を許されたんだ」と感じれるようになりました。 話が反れてきましたが、武道をやっている者は戦いに対して、 いつも臨戦状態にしておくようにって意味じゃないですか? 真剣に武道をされている方の前で、 「私の合気道は、ほんの少し、遊び程度のものです。」 って言えば誰でもムカッとしますよ。 武道は現代の日本に残された「侍」の部分だと思います。 「腰の刀は飾りじゃない。」 ご主人はこう言いたいのではないでしょうか?

morino-kon
質問者

お礼

皆様、さまざまなご意見があり、どの方も大変参考になります。 違う内容でございましても、それぞれに一理あり、「なるほど」という点がございますので、同じようなお返事を差し上げております。 皆様のお言葉を有難く、今後の反省材料とさせていただきます。 ご回答ありがとうございます。 ちなみに夫は、筋肉質なのに、お腹がポコリとでており、練習姿は、まるでクマのプーさんが踊っているようです。 つい、夫の言葉を真剣に受け止められず、意義を申し立てたくなってしまいました。

  • atyaatya
  • ベストアンサー率17% (170/959)
回答No.1

闘うと、身を守るの履き違えのようですね。 私も、ほんの僅か、空手を行いますが、闘うためとは思っていません。 危険から、身を守るための防御が主で、攻撃は更に危険が増大すると判断されたとき、其の危険を阻止するための手段と考えています。 喧嘩と武道は別物で、喧嘩に強くなるために武道の修練は、いけないとは云いませんが、打ちのめされる対象となるでしょう。邪心と言います。あなたのご主人の考え方に賛成は出来ません。必ずそうした感情は表面に出て、敵を作り、エスカレートし、少しばかりの空手を過信して、つまらぬトラブルに自ら飛び込み、大怪我をするでしょう。 習練に励んでる道場の師範が、喧嘩空手を指導してくれてるのでしたら安心ですが、そんな指導は無いからです。

morino-kon
質問者

お礼

皆様、さまざまなご意見があり、どの方も大変参考になります。 違う内容でございましても、それぞれに一理あり、「なるほど」という点がございますので、同じようなお返事を差し上げております。 皆様のお言葉を有難く、今後の反省材料とさせていただきます。 ご回答ありがとうございます。

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