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聖書。救い。
聖書に関わる質問や質問への答えを読んで、救われたと思われる方を見つけることが出来ませんでした。もし、救われた方がいらっしゃるならば、いつ、とこで、どのようにして救われたかを教えて下さい。そして、律法と恩恵との関係を説明出来るならば、説明してください。よろしくお願いします。
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私は聖書に基づいて神を知り、またその方に祈りを通して接することにより、「心の穴」を埋め合わせ、「心の傷」を癒すことができたと実感しています。 詳しくは、http://okwave.jp/qa/q7469348.htmlのNo.11で私yangmaskが回答している内容を是非ご覧ください。
- ttt1214
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たいがいの人達は聖書の書いてある文字で救われると思っていますね。 聖書の救いは聖書の綺麗事を並べた文字ではないです。 聖書を通して、ありありと今も活きているキリストが働いてくれるから救われるのです。 神(主)やイエスの救いは半端な物ではない、人生そのものを一変してしまうような救いです。 社会的道徳観などでは証明出来ない生き方を自分自身しています。 役3年前に全てを失って、車上生活をしていました、お金もつき、最後だと思いました。 とある一冊の小冊子を手に取り最後まで読みました。 その時なぜかわからないが助かりると確信しました。 先生に全てのいきさつを話し、車を返して、ほんとになにもかもなくなったのです。その後3年たって今は借家ですが一軒家に住んでいます。 田舎なので車が無いと不便な場所なのですが、引越ししてきた時は車はなく、しかしながら不思議な感覚にとらわれ、車が入ってくると感じました。 ものの見事に2台の車が入ってきました。 ちなみに、2台とも中古車で買った訳ではなく、また、自分の信仰している人達からでもなく、まるっきり知らないに等しい一度だけあった方に名義変更費用だけを払い譲ってもらったものです。 聖書は読み方があります。 ただ読むだけでは聖書はそこそこは解るかも知れないが、何も教えてくれません。 今はキリスト教ではなく、聖書の神(主)とイエスキリストを信じて勉強しています。 不思議な事に聖書に記載してある事が今は自分自身の身に感じます。 ちなみに、3年前から現在まで仕事らしい仕事をしてませんが食べる物に困らす生活費に困らす、毎日が嬉しく、神(主)やイエスキリストからなにがあっても大丈夫だと言う絶対的な安心感を与えられています。 ここでは、僕に真の信仰を教えて下さった集まりは名前を出しませんが、聖書を本気で学ぶ人達の集まりです。
- EnoshimaNoNeko
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私にとっての救いの根拠は過ぎ越しの子羊としてのイエス・キリストの十字架の贖いです。マタイの福音書26章19節に、「過越の食事の用意をした。」と書かれているように、最後の晩餐は、過ぎ越しの食事であったことがわかります。マタイの福音書26章26-28節には、「イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取って食べなさい。これは私のからだです。」また、杯を取り、感謝をささげて後、こう言って彼らにお与えになった。「みな、この杯から飲みなさい。これは、私の契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。」とあります。つまり、イエス・キリストは、ご自身が過ぎ越しの子羊であることを語られています。 さて、過ぎ越しについては、出エジプト記12章をお読みいただきたいと思いますが、たとえば、22節ー24節には以下のように書かれています。「ヒソプの一束を取って、鉢の中の血に浸し、その鉢の中の血をかもいと2本の門柱につけなさい。朝まで、だれも家の戸口から外に出てはならない。主がエジプトを打つために行き巡られ、かもいと2本の門柱にある血をご覧になれば、主はその戸口を過ぎこされ、滅ぼす者があなたがたの家にはいって、打つことがないようにされる。あたながたはこのことを、あなたとあなたの子孫のためのおきてとして、永遠に守りなさい。」 神の禍から逃れるための必要条件は、ただかもいと2本の門柱に子羊の血を塗ることだけでした。ほかには何の行動も求められはしませんでした。つまり、過ぎ越しの子羊としての、イエス・キリストの十字架の血にあずかることにより、神からの救いを受けることが出来るというのが、私の救いの確信です。出エジプト記を読むと、人間の思いや行動を超えて、神様がイスラエル民族を導かれたことが読み取れます。ですから、救いの必要条件は、イエス・キリストを信じることだけです(一方的な恩恵)。 次に行いに関してですが、私は、信仰によって救われて、行いによって祝福されると考えております。律法を守ることによって、神様が大いなる祝福を与えてくださるということです。ですから、イエス・キリストを信じていて救われていても、律法を無視して歩むならば、実生活において神様からの祝福が得られない(あるいは少ない)ということになるのではないかと思います。 「信仰」と「行い」に関して、私もずいぶんしっくりしない期間が長くありましたが、過ぎ越しの子羊としてのイエス・キリストの十字架の事実を知った時、自分の行いと無関係に、神様からの救いが与えられるのだという確信が与えられました。
- ishiid1
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私はエホバの証人ですが、お答えします。 私が救われた経験はたくさんありますが、 例えばもっとも対処が難しい問題として、死と宗教についてです。 聖書の最後にはこうあります。 「神は彼らの目からすべての涙を拭い去ってくださり、 もはや死はなく、嘆きも叫びも苦痛ももはやない。以前のものは 過ぎ去ったのである。」啓示21:4 神の王国が実現し、人間と神との関係が回復するとき 楽園が来て、今の悲惨な人生は過去のものとなります。 このような永久的な解決策を知るとき、何物にも代えがたい希望を 得られています。 また、イエスはこういわれました。 「あなた方は真理を知り、真理はあなた方を自由にするでしょう。」 このように間違いも偽りもまったくない神の言葉は 人を偽りの宗教や教義から自由にします。 むなしい偽りの教理や、あざむきによってむなしい思いをする必要 はもうありません。 神の言葉である聖書を常に読むならば、慰めを得られるのです。 パウロは霊感によってこう書きました。 「以前に書かれた事柄は皆、私たちの益のために書かれたのであり それによって、慰めと希望を得るためです。」 ただ、やはり個人で聖書を理解するのは難しいので、 手引書と手引きをしてくれる人が必要です。
- ko735
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>いつ 16歳のとき >どこで 教会で >どのように 中高生会の聖書の学びで、牧師先生から神の救いについての説明を受け、「信じますか?」と聞かれて「はい」と答え、キリストを受け入れるお祈りをして。
- katyan1234
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神様十字架の愛を信じない人々は、相変らず、地獄に行くようになってあります。もし、神様が愛のみならば、私達は神様の十字架の愛を述べ伝える必要も無いし、福音を伝える必要も無いでしょう。 神様の愛というのは知っている人に教えるのではなく知らない人に聖霊の働きによって教えられるの ただ恵みだけです。 コリントの人はまだ幼い教会です。 もう一度山上の祈りを見てごらん。 それぞれの教会にあった言葉を選んでいるのです。 だからローマの教会もコリントも同じ罪を犯している教会です 姦淫するなと言って、自らは姦淫するのか。偶像を忌みきらいながら、自らは宮の物をかすめるのか。 あなたたちのせいで、神の名は異邦人の中で汚されている」と書いてあるとおりです。 信仰というのは人を裁くための道具ではありません。それぞれの中にあり、その中から忍耐強く待っておられるのです。 よくかんがえてごらん。神様は無から有にするんですよね。 蛇にそそのかされて罪を犯して神様から見た理想社会を創れなくなったらどうしますか?僕が神なら最初からやり直します。 あなたならどうしますか? 書道をして間違ったら?字を間違って書いたら?お皿が割れたら? 使えなくなった時点で捨ててしまうよね。僕たちも同じですよ。 それを見逃してくれている。これほど大きな愛はないと思うのだが >信じない人は相変わらず、地獄に行く事を知らせることです さて正しい福音が日本に届いてますか?教会に行く事がクリスチャンの主な指名でしょうか?ある教会では喧嘩状態の教会もあるし、つまずきの石もありますよ。 あなたは罪を犯してないと言えますか? 自分の愛するように隣の人を愛しなさい 常に祈り賛美してますか? よく読んでください コリントの人はまだ信じたばかりの人たちですね。 後人を裁いてはいけないよ。僕たちが祈り主の使いにならないと 律法からは従えません。自らの意思で従う人が本当の信仰者です。 それぞれの教会もまた罪びとの集まりですよ。ただイエスの哀れみと 聖霊の愛、イエスの愛によって生きていますね。 自分に当てはめて読んでごらん。 まだ生まれたての教会の人たちならありうることですね。それでもつぶれず成長していけたのも恵みですよ。 愛が伝えれるように、受け入れる事が出来るように祈りましょうね 私たちの使命は「全世界に行って、すべての造られたものに福音を述べ伝えなさい」(マルコ16・15) これをせずにせずにどうして理解理解出来るのでしょうか出来るのでしょうか?
お礼
ヤコブ3:6「舌は火であり、罪悪の世の中です。ですから、舌は私達の体の中にありながら、体全体を汚し、また一生を燃やしてしまうが、即ち地獄の火で燃やすのです。」
補足
震源6:27「敬虔で無い人は、悪を目論む。彼の唇には猛烈な火のようなものがある。
- katyan1234
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>神様は愛のみだと思うのですか? 神の愛でしょうね。もう一度第一コリントだけを見てください。 その方その方で読む場所は変わって来ますから 誰が誰にあてた手紙なのか?を考えて読むと理解できると思います。 4キリストは律法の終わりであり、こうして、信仰を働かせる者はみな義を得るのです。(ローマ10:4) 23しかしわたしたちは、信仰が到来する前には律法のもとに警護されており、共に拘束されたまま、やかて表し示されることになっていた信仰を望み見いていました。24したがって、律法は、わたしたちをキリストに導く養育係となったのであり、それは、わたしたちが信仰によって義と宣せられるためでした。25しかし信仰が到来した今、わたしたちはもはや養育係のもとにはいません。(ガラテア3:23-25) 教育係=律法ですね。 基本は裁くのではなく許す。これが愛です。 恩恵 父が引き寄せてくださらなければ、誰も私のもとに来ることはできない」(『ヨハネ』、6章、44)とはイエス様の言葉です。または「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行なわせておられるのは神です」(『フィリピ』、2章、13 参照 http://biblestyle.com/help/nt36.html
お礼
教会は救われた人々の集まりです。ですから、コリント書は、コリントにいる教会の人々に送られた御言葉です。コリント教会は、新約教会の中で一番 堕落した教会です。ですから、コリント書は全てが否定的な内容です。教会の中に派閥があり1:12、嫉みと争いと分裂があり3:3、はたはたしくは近親相姦する人もあり5:1、教会の人に裁判をかける人もあり6:7、。。。救われて無い人々は、既に地獄に行くように決まってある人々です。ですから、罪を犯しても神様とは関係無しです。反面、救われた人々は、この世の罪から救われて、楽園に行くように決まってある人々です。ですから、救われた人々は罪を犯すと神様から裁かれます。実際に、コリントの人々は罪を犯すことによって、多くの人々が病になったり死んだりしました「11:30」。救われた人が罪を犯すと神様から罰を受けます。私がよく知っている人は、見知らぬ人と話す時、元気だと言われることが多いです。それにもかかわらず、彼が罪を犯した時、入院したこともあります。それは、彼が神様の息子である証拠です。「全ての人々が参与する懲らしめを貴方達が受けないならば、貴方達は私生児であり、本当の息子ではありません。ヘブライ12:8」。<貴方がコリント書から見つかったという神様の愛は、神様の愛に合っていない感じがします。>
補足
神様は愛のみではありません。初めの人であるアダムが、罪を犯すことによって、神様の形を失ってから、全ての人々は神様の楽園に行く事が出来ず、地獄にいくようになりました。なぜなら、神様がいらっしゃる所には罪が存在出来ないからです。だから、旧約の人々は自分の罪の身代わりとして、主に羊の血を捧げました。新約では、このような人々を救う為に、神様は子羊としてこの世の中に来られ「ヨハネ1:29」、世の中の全ての人の罪の身代わりになられ、十字架に掛けられ、全ての人々を救われました。しかし、それにもかかわらず、神様十字架の愛を信じない人々は、相変らず、地獄に行くようになってあります。もし、神様が愛のみならば、私達は神様の十字架の愛を述べ伝える必要も無いし、福音を伝える必要も無いでしょう。福音というのは、神様が自ら十字架に掛けられ、全ての人々の罪を赦して下さったけれでも、それにも関わらず、信じない人は相変わらず、地獄に行く事を知らせることです。神様は愛のみだと教えて地獄を隠すのは、反福音にないます。
- sumininjin
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個々人で違っていいと思うのですよ。 自分と考えが違うからといって、 間違っているとか裁いてしまうことに問題があるかと思います。 自分は自分。 自分と神との関係。 それを自分が理解できないものを、 拒否したり否定することは、 神の愛に反している気がします。 究極的に、自分と違う人の救われ方とか、 聖書解釈とかはどうでもいいんです。 あくまでも、「私は」どうなのかということ。 他者を裁いたり排斥するために信仰はあるのではないです。 プロテスタント系の方に、排他性が良く見受けられるのですが、 なんでもいいのですよ。 お互いに愛し合いましょうって。 あなたは愛されているって、 とっても単純なことだと思います。 キリスト教の信仰って。
お礼
私も長い間、神様を探して彷徨ったことがありました。カトリック教会も行ったことがあります。17歳の時、山に登り、竹のような雨と雷の中で、もし神様がいるなら私を殺せと、神様を呪ったこともあります。しかし、神様の御言葉によって救われてからは、一回も神様を疑ったこともないし、いつも喜びに包まれております。今週は、私のように、神様の御言葉によって救われた人を見つける事が出来ました。<聖書から人生を考えよう「信仰と救いについて」>という題目で書かれた字です。ウェブから探して、ぜひともお読みになって下さい。よろしくお願いします。
補足
「私が彼らについて証拠するが、彼らには神様についての熱情はあるけれども、知識に従ってなったものではない。ロマ10:2」 「神様は、全ての人が救いを受け、真理の知識に到るように、望んでおられます。テモテ前2:4」 「いつも習うけれども、真理の知識には決して到ることが出来ない。テモテ後3:17」 「それは、彼らが知識を嫌がり、主を恐れることを願わなかったからである。箴言1:29」「しかし、偽善者である書記官達とバリサイ人達よ、貴方達には災いがある!それは、貴方達が人々に天国を占めてしまい、貴方達自身も入って行こうとせず、入って行こうとする人々も入れないようにするからである。マタイ23:13」 神様は愛のみだと思うのですか?
- katyan1234
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no4です。このあたりの質問は難しいですね。ただ「ここにいます。お話ください」という信仰が必要かと思います。 No5さんのそれぞれ派によって解釈は異なるし、 結局、人間がそれぞれで勝手に言ってるだけじゃないのかなって。 ここが重要だと思う。歩く道が違えば信仰も変わってくるし賜物が変われば聖書の捕らえ方も変わってくるし。その方の信仰によっても 要は自分と神様の関係、ここの契約によって変わってくる。と言うこと 信仰は自分から叩き待つことかな? 癒しと言うのは主に近づけるもので意味はない。 ただ救いというのは信じるものは救われる。つまり信じているものは救われている。と言うこと。後は聖書をどのように捉えるか?それぞれ個人的な主との関係です。 (難しいかな?) 結論的には自分で聖書を読んで探す事。求めなさいそうすれば与えるだろう。信じなさいそうすれば救われます。という回答になります
- sumininjin
- ベストアンサー率20% (1/5)
古い約束って要るでしょうか? 多分、頭で理解しようとしすぎていませんか? 私は聖書から入りました。 5,6歳の時です。 初めて教会に行ったのは17歳で、プロテスタントでした。 でもそこで洗礼を断られました。 そこから13年教会をさまよい歩きましたし、 他の宗教や、哲学的な方向にも行きました。 でも、ちっとも気持ちが楽にならないし、 生きていることそのものが空しいのです。 そんななか、 本当にイエス様がいるなら出て来い!って、 心から思って祈ったら、 1週間後に洗礼を受ける機会に恵まれました。 それは奇跡的な出来事だったのですが、 そこでも神の愛には、救いには達することできず、 そんな中、初めてカトリックの教会に行く機会がありました。 そこでミサに出て、 その時、涙が止まらないくらいの歓喜と、 許された感じ、なにか言葉にならない感動に打たれました。 そっからは、もう聖書にこだわるのはやめました。 なにはともあれ、 絶対的に神の愛に触れてしまったら、 言葉という不完全な道具で書かれたものに、 疑問を感じてしまったからです。 それぞれ派によって解釈は異なるし、 結局、人間がそれぞれで勝手に言ってるだけじゃないのかなって。 だから、私は実際に私が感じたことを信じることにしたのです。 クリスチャンと言うには、 私が信じているのはなんだろ? って思うこともありますが、 それでも神の愛に目が覚めたので、 それから読む聖書は、 それまでとは全然違う、 魂に響くメッセージとなるのでした(^^)。
お礼
もし、私が私の頭で考えて書いているなら、貴方は私が書く字を読む必要はありません。私の考えで御言葉を解釈するならば、私は偽り者であり、神様から呪われる者になるからです。「しかし、私達だけではなく、空から来た天使だとしても、私達が貴方達に伝えたことの外に、或る外の福音を伝えるならば、彼は呪われる「ガラテヤ1:9」。 使徒言行録1:14で、イエスキリストの母親が一生懸命にイエスキリストに祈っています。これは何を意味するんでしょうか? 「ですから、信心は聞くことから出るのであり、聞くことは神様の御言葉によるのである。ロマ10:17」。このように、聞くのが御言葉では無いと、聞く人の信心は無用であります。間違いの信心になります。
補足
昔、昔、二人の人が道を歩きながら、悲しみに沈んでいました。何故なら、彼らの尊敬する方が罪も無いのに、処刑されたからです。その時、ある方が来られて、一緒に歩きながら、モーセと全ての予言者から始めて、イエスキリストについて聖書に書かれてあることを説明なさいました。聞いている間に彼らの心がだんだん熱くなりました。話を聞かせて下さった方は、復活されたイエスキリストでした「ルカ24:13~」。旧約も新約も、イエスキリストについて書かれてあります。そして、聖書は聖書が説明なさって下さいます。何故なら、御言葉は必ず、その御言葉を説明する片方があるからです。「~一つも自分の片方が欠いているのは無い。~イザヤ34:16」
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補足
神様の御言葉を用いて申し分無いくらい的確に説明させて下さりありがとうございます。 なのに、後半部の信心と行いに関しては、聖経を用いる事無く、自分の考えを述べたのが理解し難いです。 出エジプト記を用いて説明が出来るならば、信心と行いに関する箇所も聖経から探し出せるはずなのに?!。