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旧約聖書と新約聖書

(質問1)旧約聖書と新約聖書がありますが、なぜ聖書が2つあるのですか? (質問2)どちらも神はキリストただ一人でしょうか? (質問3)サタンかルシファーかバフォメットかアヌバスは新旧どちらに登場しますか? (質問4)旧約聖書と新約聖書は何か違いがあるのですか? (質問5)旧約聖書と新約聖書はどこの国の人が創ったのですか?

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回答No.17

 No.16です。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~   >天使が神と同等だということはありません。  それは神々の有する力がという意味でですか?  つまり、天使の力が神より強いことは絶対ないとお考えですか?なぜですか?  これが一番気になります。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ そうですね。聖書から引きましょうか。  △ (へブル書 1:13~14) ~~~~~~~~~~~   http://www.bible.or.jp/read/titlechapter.html  13: 神は、かつて天使のだれに向かって、    「わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまで、     わたしの右に座っていなさい」(詩編110:1)   と言われたことがあるでしょうか。  14: 天使たちは皆、奉仕する霊であって、救いを受け継ぐことになっている人々に仕えるために、遣わされたのではなかったですか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ☆ 《人間にも仕える》と書いてあります。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~   >サタンは たしかに ひとつの顔として《神のごとくいかなる者の下にも立つまいと堅く決意した者》であり もっと具体的に言えばけっきょく《支配欲に支配された心であり 相手を・すなわちすべてのものを支配下においてその意志を踏みにじるために動いている者》です。もっと早く言えば すべてを否定する精神です。さらに ひと言では 死です。死の制作者です。 このようなサタンは 要りません。わたしは 死にカカハリを持ちません。  わかっているけど、要らないという意味なんですね。ほぼ同意します。  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これは ありがたい感じです。    ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~   >預言ないし予言が当たったということは 神ではないですよ。起きる確率の低いけれども一般的な経験事象に属します。  人にできない預言は神或いは天使などの言葉ではありませんか?  この方神主だから神に聞いたと言っていますが。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 神業に近いのかも知れませんが この人間の世界における出来事であるとは思っています。  ★ 神の力の源である栄養とはなんですか? / 聖書に書いてなかったですかね。。  ☆ それは 信仰です。  △ (パウロ:ローマ書) ~~~~~~~~~~  http://www.bible.or.jp/read/titletext.html  1:17    福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」(ハバクク書2:4)と書いてあるとおりです。  3:27   では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました。どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです。  3:28   なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

bekraf
質問者

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回答ありがとうございます。 >☆ 《人間にも仕える》と書いてあります。 本当ですね。書いてありますね。 では、心配いらないのですね。 >★ 神の力の源である栄養とはなんですか? / 聖書に書いてなかったですかね。。  ☆ それは 信仰です。 意味がわかりました!ありがとうございました!

その他の回答 (16)

回答No.16

 No.15です。  ★ 保護係りが捜しても捜しても見つからないから、その方にお告げを聞いてもらい、お告げ通りの時間と場所で捕獲用具を持ち待機していたら、逃げ出した動物が現れ、保護係りが捕獲できたのですから、本人や周りの人だけでなく認めざるを得ないと思いますが。。  ☆ そうですか。そこまで実現性の低い確率のことが現実に成ったとしますと なかなかのものだと思います。  それ以上は 何とも分からないとも思います。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~   >その神とのカカハリは あくまで主観内にとどまります。よね。  神とその方の関わりは主観でありますが、実際逃げ出した動物がお告げ通りにその日その時間、その場所に現れ無事捕獲できたのです。どこに疑いの余地があるのですか? 普通の人間は当てられません。あなたもできないはずです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ なかなかのものだと思います。  そして もしそのお告げが神のものなのだとか・だから信じなさいとか言わない場合なら ころっと信じてしまうかと思います。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  聖書に書かれた神とサタンの存在の内、神の存在は書いてある通りに認め、サタンの存在は天使であり神の仕いだと置き換えたり、概念だと独自に曲解している。  一方は書いてある通り。一方は書いていない独自の発想であり、「書いてある通りに受け入れるものと、そうでないもの」に分かれている。  そしてその理由があの説明ではわからない。  サタンは主に仕えているようには書かれていない。。  なので、貴方がなぜ神の仕いと言い張るのかわかりません。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ヨブ記では サタンは神の許可を得てやっと ヨブにわるさをすることになります。神に仕えています。  神の存在は書いてあるとおりに認めているのではありません。  《非経験の場 = 非知なるナゾ ⇒ これを受け容れる(信じる)とわが心に非思考の庭が成る(これが 信仰の動態)》という想定のもとに 神を――哲学として言えば――みとめ 聖書なら聖書の記事をどう受け取るか・またどう扱うかをつねに考えています。  天使が 神と同等だということはありません。  サタンは たしかに ひとつの顔として《神のごとくいかなる者の下にも立つまいと堅く決意した者》であり もっと具体的に言えばけっきょく《支配欲に支配された心であり 相手を・すなわちすべてのものを支配下においてその意志を踏みにじるために動いている者》です。もっと早く言えば すべてを否定する精神です。さらに ひと言では 死です。死の制作者です。  このようなサタンは 要りません。わたしは 死にカカハリを持ちません。どうでもよく 屁の河童です。神にお任せしてだいじょうぶです。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~  神を見たは主観内で、その検証はしえないけれども、  普通の人間には決してできない日、時間、場所の指定という確かな預言とその事実は確定しています。  しかしあなたは(人々も)信じない。  ですので、否定する人は否定できない根拠(ここでいう普通の人間にはできない日、時間、場所の指定)を示しても否定する。ここが、難しいのでしょうね。 一部を除いて考えるから、堂々巡りしてしまう。と私は言うのです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 預言ないし予言が当たったということは 神ではないですよ。起きる確率の低いけれども一般的な経験事象に属します。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   >後者の一文に対応するようにして 潜在性としての健康を打ち出してもよいと考えました。  精神的或いは肉体的に後遺症的な疾患もありますし、潜在性としての健康はもはや自覚できない場合が多々あることになりますが。。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ かなしいことに本人が自覚できない場合にさえ疾患は成り得ますが 一般的には 潜在性としての健康をいちおうかかげると思います。

bekraf
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 >それ以上は 何とも分からないとも思います。 他のお告げは誰かの日常の問題でしたので、それはその方と依頼者にしかわかり得ないので覚えてないです。 >サタンは神の許可を得てやっと ヨブにわるさをすることになります。 なるほど、貴方がどうしてサタンを仕いだというのか、やっと分かりました。 許可を得たと見ているからなんですね。 私はサタンは神にうまく物申したように思えます。 しかも、最初は蛇に取り付くしかなかったのに、今度は、歩き回っておりました、って、霊であれば歩くなんて書きませんよね。。人に乗り移ってるってことですよね、これ。 >天使が神と同等だということはありません。 それは神々の有する力がという意味でですか? つまり、天使の力が神より強いことは絶対ないとお考えですか?なぜですか? これが一番気になります。 >サタンは たしかに ひとつの顔として《神のごとくいかなる者の下にも立つまいと堅く決意した者》であり もっと具体的に言えばけっきょく《支配欲に支配された心であり 相手を・すなわちすべてのものを支配下においてその意志を踏みにじるために動いている者》です。もっと早く言えば すべてを否定する精神です。さらに ひと言では 死です。死の制作者です。 このようなサタンは 要りません。わたしは 死にカカハリを持ちません。 わかっているけど、要らないという意味なんですね。ほぼ同意します。 >預言ないし予言が当たったということは 神ではないですよ。起きる確率の低いけれども一般的な経験事象に属します。 人にできない預言は神或いは天使などの言葉ではありませんか? この方神主だから神に聞いたと言っていますが。 神の力の源である栄養とはなんですか? 聖書に書いてなかったですかね。。

回答No.15

 No.14です。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~   >( a ) 神を見た人はいるか? 神と話をした人はいるか?  います。日本でもいます。お告げ通りの時間と場所に逃げ出した動物が現れ、捕まえる事ができた例があります。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ というふうに本人も思ったし 周りの人たちも共感したりそう認めたりした。ということだと思います。  本人が神を見たというそのことを貶したり否定したりするためではなく しかもその神とのカカハリは あくまで主観内にとどまります。よね。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  >《悪魔の儀式》は この《コミュニケーションの鎖国》を言うのではないだろうか?  >( g ) コミュニケーションの鎖国でなくても・つまり意思疎通はおこない続けていても 話を堂々巡りのかたちで 同じことの繰り返しに終始させるという場合 この場合はすでに実質的に鎖国政策だと見なし得るのではないか?  これは、悪魔の存在だけを頑なに否定するのは鎖国ではないとお考えですか?  神は聖書に書いてあるように存在し、悪魔は聖書に書いてあるが概念でしかないというのが、なぜそう思われるのかが判りませんが。。  しかしそれは同時に神のちからを全ては受け入れてない事になり得るのでは?  悪魔も最初は神が創ったのでしょうから。。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ (i) 非経験の場=非知としての神に対して 天使や悪魔は その神に従属しているか または(ii) そのように神に仕えるというかたちで 人間のあたまの中で作られたか だと思います。  (ii)の場合は 観念であるとなります。  (i)の場合は それでも 神のことを言っていれば あとはその使いなのですから 言っても言わなくてもよい。と考えられます。  よって 鎖国ではないと思います。天使は神にみな含まれていると言っているからには。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~   >普遍神は 無根拠を根拠としています。   神が存在する根拠を残しても人がその根拠をも信じないだけではないでしょうか。  目を背けていると言いますか、都合の良い部分だけ信じると言いますか。。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ その可能性があります。そして 人間が確実に言えることは そこまでだと思います。  最初の《神を見た》体験の場合と同じような性質の問題ではないでしょうか。検証しえない領域だと思います。  ★ 人は容易に疑うが、否定できない事実を受け入れるのは難しいようです。  ☆ もし《事実》であるのならば それは 経験事象です。ですから 神のシルシに成り得ますが その検証がむつかしいという問題にやはり行き着きます。  ★ イエスが一部の人に否定されたように、否定する人は否定できない根拠を示しても否定する。ここが、難しいのでしょうね。 / 一部を除いて考えるから、堂々巡りしてしまう。  ☆ いや それは 《否定できない根拠》は神については 示し得ません。《無根拠を根拠としているナゾ》だからです。理性で理解し納得しうる根拠でしたら それはただの科学の問題です。  ★ あと、神と話した人はいるのかという問いですが、イエスも実在しなかったとお考えでしょうか? 私はいたと思いますよ、イエスは実際この世に存在していたと。  ☆ いまとなっては 歴史的事実かどうかをしらべる道もあるにはあるのでしょうが イエスの指し示した神ないしその信仰を なお人びとに共通の理解が得られるようにと問い求める道をすすむことも 重要なこととしてあり得ると考えます。  実在しなかったとしても そのメッセージのとうとさに変わりはない。と見る立ち場です。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~   >その善が善であることのシルシは 身について健康であることであり 心について人と話し合いができるということではないか?  うーん、これでは・・・生まれつき病気の人はどうなるのでしょうか?  善とは神の意向に添う、と考えればすんなり心に入ってきますが。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 後者の一文に対応するようにして 潜在性としての健康を打ち出してもよいと考えました。

bekraf
質問者

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回答ありがとうございます。 >というふうに本人も思ったし 周りの人たちも共感したりそう認めたりした。ということだと思います。 保護係りが捜しても捜しても見つからないから、その方にお告げを聞いてもらい、お告げ通りの時間と場所で捕獲用具を持ち待機していたら、逃げ出した動物が現れ、保護係りが捕獲できたのですから、本人や周りの人だけでなく認めざるを得ないと思いますが。。 >その神とのカカハリは あくまで主観内にとどまります。よね。 神とその方の関わりは主観でありますが、実際逃げ出した動物がお告げ通りにその日その時間、その場所に現れ無事捕獲できたのです。どこに疑いの余地があるのですか?普通の人間は当てられません。あなたもできないはずです。 >(ii)の場合は 観念であるとなります。(i)の場合は それでも 神のことを言っていれば あとはその使いなのですから 言っても言わなくてもよい。と考えられます。 聖書に書かれた神とサタンの存在の内、神の存在は書いてある通りに認め、サタンの存在は天使であり神の仕いだと置き換えたり、概念だと独自に曲解している。 一方は書いてある通り。一方は書いていない独自の発想であり、「書いてある通りに受け入れるものと、そうでないもの」に分かれている。 そしてその理由があの説明ではわからない。 サタンは主に仕えているようには書かれていない。。 なので、貴方がなぜ神の仕いと言い張るのかわかりません。 >その可能性があります。そして 人間が確実に言えることは そこまでだと思います。 最初の《神を見た》体験の場合と同じような性質の問題ではないでしょうか。検証しえない領域だと思います。 神を見たは主観内で、その検証はしえないけれども、 普通の人間には決してできない日、時間、場所の指定という確かな預言とその事実は確定しています。 しかしあなたは(人々も)信じない。 ですので、否定する人は否定できない根拠(ここでいう普通の人間にはできない日、時間、場所の指定)を示しても否定する。ここが、難しいのでしょうね。 一部を除いて考えるから、堂々巡りしてしまう。と私は言うのです。 >後者の一文に対応するようにして 潜在性としての健康を打ち出してもよいと考えました。 精神的或いは肉体的に後遺症的な疾患もありますし、潜在性としての健康はもはや自覚できない場合が多々あることになりますが。。

回答No.14

 No.13です。  全体としてまとめて応答できればよいと思って次の議論をかかげます。  【Q:悪は存在しない。その名の現象があるのみ。】 ~~~~~~  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8904634.html  ( a ) 神を見た人はいるか? 神と話をした人はいるか?  ( b ) いないと答え得るならば むしろ人間どうしのあいだで 善悪の定義をせざるを得ない。あるいはつまり善と悪との互いの区別について考え合い 或る程度は決め合うことができるのではないか?  ( c ) すなわち 善悪観をわれわれは共有しうるのではないか?  ( d ) 善とは このように話し合ったりして共生するところの存在を言い この存在つまり人間存在を〔色をつければ よく〕保ち守ることを言うのではないか?  ( e ) その善が善であることのシルシは 身について健康であることであり 心について人と話し合いができるということではないか?  ( f ) 以上のかぎりで 悪とは この善を傷つけることであり 善が傷ついたその部分のことをも言う。特には コミュニケーションを閉ざし壊す行為を言うのではないか?  ☆ 《悪魔の儀式》は この《コミュニケーションの鎖国》を言うのではないだろうか?  ( g ) コミュニケーションの鎖国でなくても・つまり意思疎通はおこない続けていても 話を堂々巡りのかたちで 同じことの繰り返しに終始させるという場合 この場合はすでに実質的に鎖国政策だと見なし得るのではないか?  ( h ) 対話の中で張られた鎖国政策に対処するときに この質疑応答の場でブロックすることは そのブロックする者も 対話を閉鎖していると言わなければならないか?  ( i ) この場合も 人は難儀するが もっと難儀する場合というのは おそらく《我れは神を見た。神と話をした》と言って その大前提たる主義主張に固執して話をすすめる場合ではないか?  ☆ 《神を見た。神の霊と一体となった》の代わりに 《悪魔の声を聞いた》という場合も問題ではないだろうか? そのような場合には――精神分析における《無意識》なる切り札の発明と同じように―― 対話や議論が堂々巡りに落ち入ってしまう。永遠に結着の着かない悪無限に落ち入ってしまう。  あるいはつまり そのような時には 声の大きいほうが勝つというような情況になりかねません。  ( j ) ちなみに人は 神を見ることがあるのだろうか?   ・・・・(さらに説明をつけています)・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  普遍神は 無根拠を根拠としています。  義無きを以って義としています。  善悪を超えています。

bekraf
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 >( a ) 神を見た人はいるか? 神と話をした人はいるか? います。日本でもいます。お告げ通りの時間と場所に逃げ出した動物が現れ、捕まえる事ができた例があります。 >( c ) すなわち 善悪観をわれわれは共有しうるのではないか? 教育や法、道徳などである程度共有しています。 >《悪魔の儀式》は この《コミュニケーションの鎖国》を言うのではないだろうか? >( g ) コミュニケーションの鎖国でなくても・つまり意思疎通はおこない続けていても 話を堂々巡りのかたちで 同じことの繰り返しに終始させるという場合 この場合はすでに実質的に鎖国政策だと見なし得るのではないか? これは、悪魔の存在だけを頑なに否定するのは鎖国ではないとお考えですか? 神は聖書に書いてあるように存在し、悪魔は聖書に書いてあるが概念でしかないというのが、なぜそう思われるのかが判りませんが。。 しかしそれは同時に神のちからを全ては受け入れてない事になり得るのでは? 悪魔も最初は神が創ったのでしょうから。。 >普遍神は 無根拠を根拠としています。  神が存在する根拠を残しても人がその根拠をも信じないだけではないでしょうか。 目を背けていると言いますか、都合の良い部分だけ信じると言いますか。。 人は容易に疑うが、否定できない事実を受け入れるのは難しいようです。 イエスが一部の人に否定されたように、否定する人は否定できない根拠を示しても否定する。ここが、難しいのでしょうね。 一部を除いて考えるから、堂々巡りしてしまう。 あと、神と話した人はいるのかという問いですが、イエスも実在しなかったとお考えでしょうか?私はいたと思いますよ、イエスは実際この世に存在していたと。 >その善が善であることのシルシは 身について健康であることであり 心について人と話し合いができるということではないか? うーん、これでは・・・生まれつき病気の人はどうなるのでしょうか? 善とは神の意向に添う、と考えればすんなり心に入ってきますが。

回答No.13

 No.12です。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  オウムもですが、その結果テロにまで至りました。私が言った宗教はもっと大きな組織で誰も逆えないから被害は測りしれません。  つまり悪魔が観念だとしても、それを崇拝する人達が起こすだろう現実世界の被害が心配です。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《悪魔》に関連づけていますが そのことをすべて人間が考え出しているという意味です。  悪魔は 関係しません。すべて 人間のしわざであると まづは誰もがしっかりと捉えることが大事だという意味になります。  ★ そして何より、悪魔を観念だとすれば神もまた観念であるはずで神の存在が怪しくなる。。  ☆ シュウキョウとしては そうなのでしょう。信仰という蝉の抜け殻ですから。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~  >フロイト主義者:いえいえ。そういふうに否定するところが 無意識なるチカラがはたらいている証拠です。   >万能のカードに成り得ます。こちらが お相手しているかぎり  ・・・面白いですね。そんなことまで無意識と言い出したら無限ですよね。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ フロイトいう男はうまいこと考えたものだと思います。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  運転中発作で意識が無かったのに、ちゃんと家まで運転してたという話しがあります。解説では人間は日常の慣れたことであれば意識なくてもできるようです。  しかし、病で昏睡状態にあった人が面会に来た人達と服装を覚えていたそうで、後日的確に当てるので話題になっていました。これが説明できない。医者は起きていられるはずがないと言います。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ そうなんですか。だとしたら やはり人格の全体として人間は生きており意識するしないにかかわらず 身と心とがはたらいている――ように思いました。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~  >無根拠を根拠として成り立っている。義無きを以って義としている。  >神の霊なるチカラである。つまり ナゾである。  では、逆もありますよね? 悪魔の霊なる力・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ というふうに《理論づけたなら》 あるかも分かりません。  でも 《絶対》が 善神と悪神とに分かれるということは あり得ません。善と悪とは相い容れないチカラだとすれば。相い対立する二者がそれぞれ絶対であるということは 矛盾です。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~  >平和という義ないし理念からさえも自由な場でありチカラです。 悪魔は われわれ人間の頭の中に想像されるに過ぎません。 神は 善悪の彼岸です。  貴方は、悪魔は観念であり、神は存在すると考えているのですか?  神が存在するなら、天使も悪魔もいるのでは??  しかし神が遠く彼岸にいることはそうだと思います。遠く離れすぎて力が及ばないか、無関心?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《悪魔が観念である》というのは 人間が自分の頭の中でいろいろ想像しこしらえているという意味です。  神は――あるいは《絶対》は―― 人間の能力や努力を超えています。  神は 存在するとも存在しないともいづれとしても証明されていません。証明され得ません。  人間は 《絶対》のことが分かり得ません。分かるか分からないかが 分かりません。  天使や悪魔がいるとすれば 絶対なる神に仕えているという意味でしかないと考えます。  たとえば:  ▲ (ヨブ記 1:1-12) ~~~~~~~~~~  http://www.bible.or.jp/read/titlechapter.html  1: ウツの地にヨブという人がいた。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きていた。  ・・・  6: ある日、主の前に神の使いたちが集まり、サタンも来た。  7: 主はサタンに言われた。  「お前はどこから来た。」  「地上を巡回しておりました。ほうぼうを歩きまわっていました」  とサタンは答えた。  8: 主はサタンに言われた。  「お前はわたしの僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている。」  9: サタンは答えた。  「ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか。  10: あなたは彼とその一族、全財産を守っておられるではありませんか。彼の手の業をすべて祝福なさいます。お陰で、彼の家畜はその地に溢れるほどです。  11: ひとつこの辺で、御手を伸ばして彼の財産に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪うにちがいありません。」  12: 主はサタンに言われた。  「それでは、彼のものを一切、お前のいいようにしてみるがよい。ただし彼には、手を出すな。」  サタンは主のもとから出て行った。 ・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

bekraf
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 >《悪魔》に関連づけていますが そのことをすべて人間が考え出しているという意味 >悪魔は 関係しません。すべて 人間のしわざである これがですね。。悪魔を召喚して知識や悪巧みを聞き出して実行しているようなんです。その見返りとかの為に生け贄なんだそうです。 >やはり人格の全体として人間は生きており意識するしないにかかわらず 身と心とがはたらいている はい。そうともとれるのですが、別の視点として、(1)寝ている時、人は霊に近くなると言われています。だから合わせ鏡に寝姿写すな。と言います。合わせ鏡とは、邪が写り込みやすい(迷い込みやすい)から昔から惑わされないように忌み嫌われます。 (2)人間は第三の瞳が実はある。これは、今ある目ではなくても、その第三の目でも見ることができる。という意味です。 私はこれが霊的な?瞳だと思っています。 もう一つ例をあげますと、入院患者達が臨死体験を語るのを煩わしく思っていた脳外医が自分が病に倒れ、難しい手術後意識が戻るまでに臨死体験をしました。 回復後、当時の脳波を改めて見ても、これでは考えられる訳も想像できるはずもないんだそうで、認めるしかなくなったそうです。 学問の中で脳の分野は比較的若い分野であるからかもしれませんが。 >《絶対》が 善神と悪神とに分かれるということは あり得ません。善と悪とは相い容れないチカラだとすれば。相い対立する二者がそれぞれ絶対であるということは 矛盾です。 今までは曲がりなりにも善優勢だったんだとして。善と悪がバランスを崩したらどうなります?その崩壊が絶対だと思い込んでいた世界をひっくり返したとしたら。 >《悪魔が観念である》というのは 人間が自分の頭の中でいろいろ想像しこしらえているという意味です。 >神は――あるいは《絶対》は―― 人間の能力や努力を超えています。 ・・・なぜ悪魔だけが人間の想像なのでしょうか? >神は 存在するとも存在しないともいづれとしても証明されていません。証明され得ません。 悪魔がいるなら神もいるか、いた。ということになります。 >天使や悪魔がいるとすれば 絶対なる神に仕えているという意味でしかないと考えます。 神に仕えているから天使、仕えずに神の座を狙うから悪魔というのでは? >7 主はサタンに言われた。 しかも聖書にちゃんと人と蛇以外のサタンが記載されています。。

回答No.12

 No.11です。  ★ しかし、その普遍神に自分が成り変わろうとしているのが悪魔ですから、悪魔崇拝は表現云々の違いだけではなさそうですが。。  ☆ 観念の世界で・つまり人間の思考や想像の世界においては 悪魔は大いに暴れまわるでしょうね。それに対する《崇拝》もそれ相応に にぎやかなのでしょうね。  ですから オウム真理教のように大変なワルに成り得ますが 悪魔としては 屁の河童です。観念ですから。  つまり 悪魔の問題として見る必要は さらさらない。その意味で 屁の河童です。  人間の問題として〔のみ〕扱うという意味です。  ★ その普遍神に自分が成り変わろうとしているのが悪魔ですから  ☆ というところを イエスによる悪魔の征服――物語ですが――のあとは ただ人間がそう想像するだけだと見るということです。あたまというコップの中の嵐であると。    ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   > ・・・ムイシキなるカードが ジョーカーのごとくはたらくことになります。  思っても考えてもいないから無意識の行動だと言うことでしょうか。  それとも無意識に否定したと言いたいのですかね?  無意識の行動か本能からの行動かわかりませんよね。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ たとえば:   フロイト主義者:あなたは エディプス・コンプレックスですよ。       つまり マザコンですね。   わたし:そんなことはありません。思ってもいないし そういう       振る舞いなどはしていません。   フロイト主義者:いえいえ。そういふうに否定するところが        無意識なるチカラがはたらいている証拠です。  という会話にしか成りません。《無意識》は 万能のカードに成り得ます。こちらが お相手しているかぎり そうなります。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~  例えば、多重人格障害などは最初は防衛本能です。  ダイエット中の人が夜中睡眠中に無意識に冷蔵庫をあさり、食べているとかもありますね。これは、欲するがままに、ということですかね。  仰る上の例の人がとる問題行動が何か知りませんが。。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 酒に酔った人が どうやってその飲んでいた店から家へ帰って来たか分からないけれど ちゃんと帰って来ているとよく聞きます。おまけに意識はなく覚えていないのに ちゃんと服を脱いでベッドに寝ていたとも言います。  問題は 精神分析のように 無意識を脳内において独立した部位としてはたらく機能だと見るかどうかだと考えます。独立性を持つ器官はないと見られます。  潜在意識として 身と心との存在ないし人格の全体の中に位置づけておけばよいのではないでしょうか。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~   >基本的に 人間の書いたものは その記者の自己表現ですから 人間の主観としての限界があると見たほうがよいと考えます。聖書も 同じくです。  難しいですね。  信じなさいとは言われても、ふと、恐竜は?と考えると途端に、やはり作り話だよね・・・となりますし。  とはいえ、ダビデの子孫がいるとなれば、あれ、人物は本当なのか?とも思いますし。  聖書を解読するとコード(あの様に斜めに読めば、たまたま言葉が出てきただけのような気もするが)が記されていて、それが大きな地震などを言い当てたとなると、そうなのかな?たまたまかな・・・?とも思いますし。。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ たいていは 後付けだと思います。  それに もし神の言葉である預言であり歴史的に予言をしているとしたとしても そういう可能性があったという問題だとも見られます。  相対立する勢力があったなら たいていは 勝ちと負けとに分かれると予測できます。  運よく勝つ場合もあれば 負けたから むしろそのあと よい結果が得られるようになったうんぬんといういきさつは いろんな風にあり得ますから。  表現の問題について一つの例を挙げます。  《わたしは ねたむ神である》という記事を 表現の問題として捉えるなら。  たとえば 雪の降る夜はたのしいペチカとか 狭いながらもたのしい我が家とか言いますが これらは ペチカや我が家がたのしいのでは必ずしもなくて そのペチカを囲む人びと・我が家の家族それぞれが たのしいわけです。  だとすれば 妬む神というとき 神が妬むのではなく 神のもとにある人びとが 妬みを持ちこれを思うようにはコントロールできていないということを表現している。のかも分かりません。      ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   >《非思考の庭》なる動態から得られるヒラメキは それが言葉に表わされると 相対的なやはり主観の表現になるとは言え インスピレーションとか啓示とかという見方も出され得るとすれば 人間と世界についての真実を示してくれる部分があるかも分かりません。  《非思考の庭》なる動態からのヒラメキですか、何だかジワジワ平和から遠のいていってる感じがします。。  しかし、悪魔があるとして、最初は神の仕いだったのですから、神が負けるなんてことはありませんよね?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《非思考の庭》ですから 《考える》ことから自由です。  たとえば正義を思ったとしても・あるいは悪魔のしわざを考え出したとしても この庭なる動態としての信仰には 何の関係もない。と言えると思います。  信仰というのは 無根拠を根拠として成り立っている。義無きを以って義としている。だから つよい。絶対である。神の霊なるチカラである。つまり ナゾである。――となります。  平和という義ないし理念からさえも自由な場でありチカラです。  悪魔は われわれ人間の頭の中に想像されるに過ぎません。  神は 善悪の彼岸です。どうでしょう。

bekraf
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 >大変なワルに成り得ますが 悪魔としては 屁の河童です。観念ですから。 つまり 悪魔の問題として見る必要は さらさらない。その意味で 屁の河童です。人間の問題として〔のみ〕扱うという意味です。 オウムもですが、その結果テロにまで至りました。私が言った宗教はもっと大きな組織で誰も逆えないから被害は測りしれません。 つまり悪魔が観念だとしても、それを崇拝する人達が起こすだろう現実世界の被害が心配です。 そして何より、悪魔を観念だとすれば神もまた観念であるはずで神の存在が怪しくなる。。 >フロイト主義者:いえいえ。そういふうに否定するところが 無意識なるチカラがはたらいている証拠です。  >万能のカードに成り得ます。こちらが お相手しているかぎり ・・・面白いですね。そんなことまで無意識と言い出したら無限ですよね。 >酔っ払いがちゃんと帰って来ているとよく聞きます。おまけに意識はなく覚えていないのに ちゃんと服を脱いでベッドに寝ていた >精神分析のように 無意識を脳内において独立した部位としてはたらく機能だと見るかどうかだと考えます。 独立性を持つ器官はないと見られます。  潜在意識として 身と心との存在ないし人格の全体の中に位置づけておけばよい 運転中発作で意識が無かったのに、ちゃんと家まで運転してたという話しがあります。解説では人間は日常の慣れたことであれば意識なくてもできるようです。 しかし、病で昏睡状態にあった人が面会に来た人達と服装を覚えていたそうで、後日的確に当てるので話題になっていました。これが説明できない。医者は起きていられるはずがないと言います。 >たいていは 後付けだと思います。 そうですよね。地震が後付けのような気もしますが。。 >無根拠を根拠として成り立っている。義無きを以って義としている。 >神の霊なるチカラである。つまり ナゾである。 では、逆もありますよね?悪魔の霊なる力・・・ >平和という義ないし理念からさえも自由な場でありチカラです。 悪魔は われわれ人間の頭の中に想像されるに過ぎません。 神は 善悪の彼岸です。 貴方は、悪魔は観念であり、神は存在すると考えているのですか? 神が存在するなら、天使も悪魔もいるのでは?? しかし神が遠く彼岸にいることはそうだと思います。遠く離れすぎて力が及ばないか、無関心?

回答No.11

 No.10です。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~   > ユダヤやムスリムのアラブは 《心の明け》に気づいていない。やがて気づくものと思います。百年二百年の単位で捉えて。  気づけども、もはや受け入れられないほど歪められています。。  百年二百年の間に、殺し合いさせられてしまいます。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ そうかも知れません。残念ながら。    ★ ~~~~~~~~~~~~~~~   >どの名の神であっても まったく同じです。と見ざるを得ないはずです。  全く同じではなく、全く逆な宗教があるのです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ シュウキョウは 基本的に――人間の自己表現が入っているからには――それぞれ互いに異なると見られます。  オウム真理教を除けば 《なんぢ ころすなかれ》なる倫理規範は共通であるようですが ほかは細かいところになると必ずしも同じではない。  神とその信仰は 人間であるかぎり まったく同じであるしかないと考えます。  ○ 神は 非経験の場を想定したナゾの存在 ~~~~~~     認識の対象として区分すると:    経験事象      可知        既知        未知      不可知 (知り得ないと証明されたものごと)        非経験の場 (有無を超え因果関係から自由な場ないしチカラ を想定)      非知 (知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ)  ○ この《非知なる非経験の場》を心に受け容れると《非思考の庭》が成る。このことが その後 動態としてつづく信仰である。    信じる:非思考の庭:ヒラメキ直観    -------------------    考える:思考の緑野:コギト    感じる:感性の原野:直感  ☆ この《非知なる非経験の場》としての神が 普遍神です。それとわれとの関係は 非思考の庭としてすべての人間に共通です。その説明表現が違うだけです。神の名も違っていますが。《梵我一如》の類型になります。        ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  蛇ですが、フロイトを信じないで解釈せねば見誤るそうです。  フロイトの書籍はそのおかしな宗教信者達によって歪められたそうです。  フロイトだけではありませんが、いろいろ真実を歪められてるみたいです。  だから誰も聖書の真髄に気づけないらしいです。  この間のと類似する事件を深く調べていくと、ある団体がそうしたと自白めいて書いてありました。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ そうですね。次のフロイト批判は わたしも同じ意見です。  ▲ (ヰキぺ:ジークムント・フロイト) ~~~~~~~~~~~~  https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%83%A0%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%AD%E3%82%A4%E3%83%88  § 3 評価と業績  フロイトがこだわった点、彼の精神分析理論の科学性については疑問の余地がある。  カール・ポパーは実験やデータなどの反例による理論修復の機会を拒否する精神分析論の独善的な姿勢を批判している。フロイトの精神分析は、「無意識の仮説」によって解明されるべき問題行為が、推理的方法を用いる、一人の”客観的証人(分析者)”にとってのみ意味を持ち、”本人”にとって意味を持たないという、正義と才能の確実な保証の無い分析者による「独裁」が行われる危険性を産み出した  ・ 嗜好性の強い独特の性的一元論に代表される、およそ通常の現代人の感覚にそぐわない違和感のある内容  ▲ (ヰキぺ:無意識) ~~~~~~~~~~~~~   https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E6%84%8F%E8%AD%98  § 5 広義の無意識  フロイトやユングの理論における「無意識」は、彼らが理論的に想定した構造の存在は、結果的に実証されないものであることが判明した   ☆ (ぶらじゅろんぬ註) これは 出典が示されていないとは言え 無意識なる独立した脳の部位の存在が証明されているとも言えない。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 早い話が 精神分析では 次のようなやり取りになります。  《あなたのその行動に ムイシキないしリビドーのちからがはたらいている形跡があります》と言われて 《いえいえ。けっしてわたしはそんなふうには思っていませんし考えてもいません》と答えると 《いえいえ その無意識の状態こそが 証拠なのです》と。  ムイシキなるカードが ジョーカーのごとくはたらくことになります。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ところで気になって仕方ないのですが、恐竜が出てこないのですが、その事実が記載されてないなら、登場人物達も全てただの作り話なのですか?  作り話にしては、随分手間暇かけて創った書物です。  そして、ダビデの血統にあたる人物が存在しています。  登場人物は本当なのでしょうか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 基本的に 人間の書いたものは その記者の自己表現ですから 人間の主観としての限界があると見たほうがよいと考えます。聖書も 同じくです。  と同時に 《非思考の庭》なる動態から得られるヒラメキは それが言葉に表わされると 相対的なやはり主観の表現になるとは言え インスピレーションとか啓示とかという見方も出され得るとすれば 人間と世界についての真実を示してくれる部分があるかも分かりません。  《恐竜》は残念ながらよくは知りません。  また聖書記事にかんして 史実の比定によりは 人間真実を見つける旅に出たほうがよいとは思います。

bekraf
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 >この《非知なる非経験の場》としての神が 普遍神です。それとわれとの関係は 非思考の庭としてすべての人間に共通です。その説明表現が違うだけです。神の名も違っていますが。 しかし、その普遍神に自分が成り変わろうとしているのが悪魔ですから、悪魔崇拝は表現云々の違いだけではなさそうですが。。 >《あなたのその行動に ムイシキないしリビドーのちからがはたらいている形跡があります》と言われて 《いえいえ。けっしてわたしはそんなふうには思っていませんし考えてもいません》と答えると 《いえいえ その無意識の状態こそが 証拠なのです》と。 ムイシキなるカードが ジョーカーのごとくはたらくことになります。 思っても考えてもいないから無意識の行動だと言うことでしょうか。 それとも無意識に否定したと言いたいのですかね? 無意識の行動か本能からの行動かわかりませんよね。 例えば、多重人格障害などは最初は防衛本能です。 ダイエット中の人が夜中睡眠中に無意識に冷蔵庫をあさり、食べているとかもありますね。これは、欲するがままに、ということですかね。 仰る上の例の人がとる問題行動が何か知りませんが。。 >基本的に 人間の書いたものは その記者の自己表現ですから 人間の主観としての限界があると見たほうがよいと考えます。聖書も 同じくです。 難しいですね。 信じなさいとは言われても、ふと、恐竜は?と考えると途端に、やはり作り話だよね・・・となりますし。 とはいえ、ダビデの子孫がいるとなれば、あれ、人物は本当なのか?とも思いますし。 聖書を解読するとコード(あの様に斜めに読めば、たまたま言葉が出てきただけのような気もするが)が記されていて、それが大きな地震などを言い当てたとなると、そうなのかな?たまたまかな・・・?とも思いますし。。 >《非思考の庭》なる動態から得られるヒラメキは それが言葉に表わされると 相対的なやはり主観の表現になるとは言え インスピレーションとか啓示とかという見方も出され得るとすれば 人間と世界についての真実を示してくれる部分があるかも分かりません。 《非思考の庭》なる動態からのヒラメキですか、何だかジワジワ平和から遠のいていってる感じがします。。 しかし、悪魔があるとして、最初は神の仕いだったのですから、神が負けるなんてことはありませんよね?

回答No.10

 No.9です。  ★ なぜイエスがユダヤの神の子であったら冒涜なのでしょう?  ☆ たしかに。  ここは 主だったユダヤ人がそう言っているから そうなのだとわたしが受け取ったという意味までです。  神と人間との間に絶対のへだたりがあるという認識であったとは思われます。  たとえば特には ヨブ記において 義人と呼ばれたヨブのうったえを神がしりぞける最後の理由は 《わたし(=神)が天と地を造ったとき お前はどこにいたか?》というような問いの意味するところであったゆえです。  つまり 人間が神とひとしい存在であるとは考えられないという意味においてです。  ★ どうして生命、知恵、悪魔を無視してエロスだけを象徴として結論づけたのですか・・・?  ☆ これはですね。たとえばフロイトですけれど その精神分析で ヘビとエロスとを結びつけます。この事実から逆推してわたしがそのように捉えたものです。  ★ 理性も感性も考察の補助的位置と考えると、正しい使い方をすれば正しい結論、間違った使い方をすれば間違った結論になるだけでは?  ☆ これは 両者のあいだに違いがあると考えます。  最終の価値判断をするのは 意志ですが その判断の材料やあるいはすでに判断のための選択肢を用意するのは 理性(知解能力)です。  つまり 感性は 《補助的位置を占める》はずですが 理性は 主役の位置に深くかかわっていると考えられます。  ★ 正しくない結論に至っても、その過程で誤らなければ、まぁそう強く責められないのではないですか。  ☆ ここで理性を批判したのは そういう場合とは違って 理性が その《すでに自己がじつはおのれの心に逆らっていると知っているところの 正しくない結論》を 意志に採用せよと迫る場合です。  たとえば 感性はすでに この恋は よこしまであると感じているところを 〔感性におけるいまひとつ別の欲望としてある動きではありますがその〕欲望を捨てきれずあくまで満たしたいと思って いやいや じつにこの場合は たとえ相手が人妻であるからと言って その夫からはすでに酷い仕打ちを受けている 夫婦ではないも同然である よってこの恋を成就させるのは 人の道に悖っていないというような理由づけをするのは 理性です。  このような場合 正しい・正しくない あるいは 善か悪かを決めるのは むしろ基本的にはその本人の主観であると見た上での議論です。倫理規範に照らしてといった意味はあまりありません。(ふつうは 倫理規範と主観とは 良し悪しの問題で一致するとは思いますが)。  ★ イエスの死によって晴れたのは原罪(知恵の実食べた)で、その後の罪はどうなるのでしょうね?  ☆ その後は オシへに何が何でも則って裁くという行き方から自由になるという意味で ふつう一般の罪は 人間が 自己の自治として・そして互いの共同の自治として 取り扱って行くものと思います。  ★ やはりキリスト教の聖書にも旧約聖書の全文が書かれているのですか? / 旧約聖書省くと意味わからないですから省くに省けないですよね?  ☆ 基本的に言って そうだと思います。  ただし 信仰が いちばんの問題だと考えます。イエスが 普遍神を指し示したというその神とわれとの関係です。  そして その場合には 泉の水の湧くごとく元気が出るというめぐみがついて来ますよというおまけが伝えられています。  そのツテで ブディズムにおいてブッダター(仏性)がひとにやどるといった捉え方をしているのだと受け留められると思います。  神および信仰は 想定にもとづくお話ですが。  ★ ユダヤとキリスト教の対立は、全体的解釈の違いが原因なのかなと。  ☆ その焦点は いくつかのこととして捉えられます。  アブラハムには モーセの律法はなかったのですから。つまり 信仰のみでした。  エレミヤ書31:31以降の《あたらしい契約》をどう解釈するかで 分かれると思われます。  ★ イエスは他の宗教を信仰しても許すと言いましたか? そう解釈した人もいるというだけの事でしょうか?  ☆ 普遍神というのは わたしの解釈であり仮説です。  ただし けっきょく信仰は 《梵我一如》の類型としてどの名の神であっても まったく同じです。と見ざるを得ないはずです。  思考の緑野において いかにオシへを持ちどう考えるにしても 信仰は 《非思考の庭》としての動態です。思考や感性に捉えられるのは――思考や感性とつながる接点は―― ヒラメキにおいてです。直観あるいはインスピレーションとして。  言いかえるなら オシへは あくまで考えるものであって 人の考えるところは 人によって違いが出て来ます。つまり 宗教が それぞれ互いに違って来ている。というだけのことだと見ます。  イエスは そういう見方を得させてくれるように普遍神とその信仰を指し示したと見ます。  アブラハムの神が その内容を初めから志向していた〔という言い方は 人間の側から勝手に推測した変なものですが〕と受け取られます。  このように普遍神として みづからを〔その一民族の〕外にも開いた神ないしブッダは ほかにいないのではないでしょうか。  そうして このキリスト・イエスの観点に立てば ほかの神もブッダもブラフマンも ひとしく人間にとっての一つとしての信仰のもとに捉えることが出来る。普遍神なら あたりまえのことですが。  ユダヤやムスリムのアラブは 《心の明け》に気づいていない。やがて気づくものと思います。百年二百年の単位で捉えて。

bekraf
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 >つまり 人間が神とひとしい存在であるとは考えられないという意味においてです。 ですよね。やはり、人の子が神の横に座るというフレーズに激怒したのではないでしょうか。 > ユダヤやムスリムのアラブは 《心の明け》に気づいていない。やがて気づくものと思います。百年二百年の単位で捉えて。 気づけども、もはや受け入れられないほど歪められています。。 百年二百年の間に、殺し合いさせられてしまいます。 >どの名の神であっても まったく同じです。と見ざるを得ないはずです。 全く同じではなく、全く逆な宗教があるのです。 蛇ですが、フロイトを信じないで解釈せねば見誤るそうです。 フロイトの書籍はそのおかしな宗教信者達によって歪められたそうです。 フロイトだけではありませんが、いろいろ真実を歪められてるみたいです。 だから誰も聖書の真髄に気づけないらしいです。 この間のと類似する事件を深く調べていくと、ある団体がそうしたと自白めいて書いてありました。 ところで気になって仕方ないのですが、恐竜が出てこないのですが、その事実が記載されてないなら、登場人物達も全てただの作り話なのですか? 作り話にしては、随分手間暇かけて創った書物です。 そして、ダビデの血統にあたる人物が存在しています。 登場人物は本当なのでしょうか。

回答No.9

 No.8です。  ユダヤの大祭司らがイエスを死刑にしようとしたのは 神の冒涜ゆえだと言います。イエスが ユダヤの神は わが父だと言ったことがその中身だと思われます。つまり 自身が神の子であり神であると言ったそのことです。  悪魔ないし天使の問題は 次のように考えたことがあります。  ◆ 《へび》の問題  § 1 世界の民俗に見る《へび》の生活文化的・社会的な意味  次の文献によって わたしなりの分類をします。   ▲ 蛇(serpent)=『女性のための神話および秘義の百科事典』の一項目 Barbara G. Walker : The Woman's Encyclopedia of Myths and Secrets (Harper & Row, 1983)   http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/antiGM/serpent.html    ○ (ヘビの民俗・その意味するものの分類) ~~~     (α) 水の神⇒ 生活・生命を象徴:知恵そして善なる神::直毘魂     (β) 水の神⇒ 河ならびに嵐として人間の治水防風雨の努力をしのぐ            あらぶる者:悪魔::荒魂     (γ) 脱皮して再生する習性⇒不老不死を象徴。     (δ) 前項より 子孫繁栄のための生殖力を象徴。     (ε) ゆえに エロスを象徴。     ~~~~~~~~~~~~~~      § 2 (ε)の《へび=エロス》なる民俗は 《要らない》。  併せて (β)の――自然現象の部分を問わないかたちでの・つまりは抽象概念となったところの・心理作用としてのごとくの――《へび=悪魔》説 これも要らない。または 信仰なる主観としては キリスト・イエスの十字架上の死とその復活によって克服された。ゆえに要らないと見ます。  この偏見で議論をとおしますので お見知りおきのほどをお願いします。  § 3 エロスが 人の生きることにともなうことと それをヘビに見立てることとは別だと見ます。その比喩からの通念は 要らないということ。  言いかえると 民俗の一説としてはそんなもんだと受け止めればよいのですが その心のうわべに心理作用および集団的な共同心理として咲いたあだ花が ついに 十九世紀・二十世紀になっても今度は《無意識》なる概念として・そしてさらには医学として科学であろうと見なされてオモテ舞台に登場してしまった。  こういう見方を持ちます。  § 4 この場合のムイシキは      (ζ) エロスをめぐるイド=エス(《あれ・それ》)        =リビドー(《欲しいまま・我がまま》):ムイシキ  のことです。  § 5 ムイシキの逆襲(?)  リビドーを抑圧すると――つまりは 自分はそんなヘビなどのことは知らないと決めて自分自身に対して隠してしまうと―― 人はそのムイシキの逆襲に遭うことになるそうだ。  その得たいの知れないムイシキの作用〔だと見立てているもの〕に抗しきれなくて振るった暴力(いじめ・虐待等)にほかの人が遭う。その被害をこうむる。そのとき受けた心的外傷は すなわちトラウマとなって 永遠に消えることはなく そこから人は完治することはないと説く。  すなわち その意味や次元にまで還元されたと言いますか そう見ることにおいて人間としての料簡が狭められてしまった。と考えます。  § 6 ムイシキとは 亡霊なり。  ムイシキなる仮説の登場はひとえに ヘビは エロスをめぐる性衝動の部分をつかさどる悪魔であり・人間の抗しがたい力としての悪霊であるという俗説から来ていると見ました。  その迷信が 現代においても猛威を振るっているようだと見るものです。すなわち エワとアダムのその昔からの亡霊であると。  § 7 聖書におけるヘビの克服物語  イエス・キリストが 第二のアダムとして 敵対していたヘビに勝利をもたらしたという物語が あります。つまり 虚構です。虚構ですが もともと ヘビは悪魔なりという見方が 虚構です。  いちおう理屈をつければ こうです。  悪魔は 死の制作者であって 自分みづからは すでに死んでいるので 死は怖くない。朽ちるべき身体を持つ人間にとっては 《へび=生命。善なる神》という俗説にしたがって その死が死ぬという・つまりは永遠に生きるという〔気休めとしてでも〕希望を持ち得るけれども 悪魔なるヘビは この死が死ななくなったという完全なる死の状態にある。そして その冥界へと人びとをさそう。  イエスなる人間をもさそった。仲間に入れと。ところが ついにこの人間は 死地に就くところまでヘビを嫌った。ほかのナゾの何ものかに従順であった。ヘビなる悪魔などは 屁の河童であると。  ますます怒った悪魔は ついに実際に〔それまでに部下に持った人間たちをして〕イエスを死地に追いやり見世物にまでして磔を実行せしめた。  ところが 死は怖くないアクマも けっきょくその死の世界にまでイエスという人間が自分の仲間となってくれたことに・そのことの思いに一瞬でも心を移してしまうと その身も死なる魂も すでに溶けてしまった。  § 8 聖書の関係個所を引きます。  ▲(創世記3:14-15) ~~~~  主なる神は、蛇に向かって言われた。   「このようなことをしたお前は   あらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で   呪われるものとなった。   お前は、生涯這いまわり、塵を食らう。   お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に   わたしは敵意を置く。   彼はお前の頭を砕き   お前は彼のかかとを砕く。」  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この部分すなわち   ▲ ~~~~~~~~~~   彼(=エワの子孫)はお前(=ヘビ)の頭を砕き   お前は彼のかかとを砕く。」   ~~~~~~~~~~~~~  という箇所が のちのイエス(エワの子孫として)とヘビの闘いだと言われます。  § 9 つづき――モーセにおける蛇との闘いの事例――  ▲ (民数記21:6-9・・・《青銅の蛇》) ~~~~  〔* 民がせっかく奴隷状態にあったエジプトから脱出してきたというのに そのことを荒れ野をさ迷うあいだに悔い始めたので〕主は炎の蛇を民に向かって送られた。蛇は民をかみ、イスラエルの民の中から多くの死者が出た。  民はモーセのもとに来て言った。   「わたしたちは主とあなたを非難して、罪を犯しました。主に祈って、   わたしたちから蛇を取り除いてください。」  モーセは民のために主に祈った。  主はモーセに言われた。   「あなたは炎の蛇を造り、旗竿の先に掲げよ。蛇にかまれた者がそれ   を見上げれば、命を得る。」  モーセは青銅で一つの蛇を造り、旗竿の先に掲げた。蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぐと、命を得た。  ~~~~~~~~~~~~~  § 10 つづき――イエスは 《青銅のヘビ》か――  ▲ (ヨハネによる福音3:14-16) ~~~~  そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子(=イエス)も上げられねばならない。  それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。  神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。  独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。  ~~~~~~~~~~~~~~~~  § 11 いかなる事態であるか?  もし性欲も大自然への畏れも ヒラメキをも含めて感性だとすれば この感性とそして理性との あらそい なのであろうか?  感性は 間違い得るし あやまちを侵す。ただし そのこと自体にウソ・イツワリがない。  理性は あやまち得ないと言い張る。ウソをもほんとうのことだと――つまりおのれの心をもだまし得て――丸め込む。  ただし このような問い求めをおこない説明をあたえるのは 理性でありそれを用いる志向性としての意志である。

bekraf
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 >ユダヤの神は わが父だと言ったことがその中身だと思われます。つまり 自身が神の子であり神であると言ったそのことです。 なぜイエスがユダヤの神の子であったら冒涜なのでしょう? >    (α) 水の神⇒ 生活・生命を象徴:知恵そして善なる神::直毘魂     (β) 水の神⇒ 河ならびに嵐として人間の治水防風雨の努力をしのぐ            あらぶる者:悪魔::荒魂     (γ) 脱皮して再生する習性⇒不老不死を象徴。     (δ) 前項より 子孫繁栄のための生殖力を象徴。 ここまでは理解できますが >    (ε) ゆえに エロスを象徴。 どうして生命、知恵、悪魔を無視してエロスだけを象徴として結論づけたのですか・・・? 単に良い意味では生命、知恵、子孫繁栄を象徴し、悪い意味では悪魔を象徴する。でいいのでは? >もし性欲も大自然への畏れも ヒラメキをも含めて感性だとすれば この感性とそして理性との あらそい なのであろうか? 感性は 間違い得るし あやまちを侵す。ただし そのこと自体にウソ・イツワリがない。 理性は あやまち得ないと言い張る。ウソをもほんとうのことだと――つまりおのれの心をもだまし得て――丸め込む。 理性も感性も考察の補助的位置と考えると、正しい使い方をすれば正しい結論、間違った使い方をすれば間違った結論になるだけでは? 正しくない結論に至っても、その過程で誤らなければ、まぁそう強く責められないのではないですか。 まぁですが・・・ >理性は あやまち得ないと言い張る。ウソをもほんとうのことだと――つまりおのれの心をもだまし得て――丸め込む。 嘘を嘘だと気づいたまま本当だと言い張るのなら、それは理性が明らかにたりてない証拠ですよね。 イエスの死によって晴れたのは原罪(知恵の実食べた)で、その後の罪はどうなるのでしょうね? やはりキリスト教の聖書にも旧約聖書の全文が書かれているのですか? 旧約聖書省くと意味わからないですから省くに省けないですよね? ユダヤとキリスト教の対立は、全体的解釈の違いが原因なのかなと。 イエスは他の宗教を信仰しても許すと言いましたか?そう解釈した人もいるというだけの事でしょうか?

回答No.8

 ★(No.7お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~   > 63: イエスは黙り続けておられた。大祭司は言った。「生ける神に誓って我々に答えよ。お前は神の子、メシアなのか。」   > 64: イエスは言われた。「それは、あなたが言ったことです。しかし、わたしは言っておく。あなたたちはやがて、/人の子が全能の神の右に座り、/天の雲に乗って来るのを見る。」  ・・・イエスは神に誓って自分がメシアだと言い切れないから、「それはあなたが言ったことです」と言ったのでは。。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この場合は イエスは権力によって捉えられ大祭司や高等法院の議員らから言わば裁判にかけられている場面です。  《お前は メシアか?》と尋ねられて 《そうです。》と答える手もあったでしょうし ただしここでは そのような答え方をすることによって 《さあ 死刑にしてみろ。さあ殺せ》というような啖呵を切る態度に成り得るとすれば それは採らなかった。  ということだと考えます。  それに あとは その時にはまだ《メシア》の意味がはっきりとはしていなかった。漠然とユダヤ民族を独立へみちびく指導者といった意味合いだったと考えられます。なので それは違うということからも 言ってみれば距離を置いた答え方をしたのだと思われます。  ★ つまりイエスは自分がメシアだと言えなかった(もしメシアでなかったら嘘になるから)のでは・・・??? / 言い切れないか、違うからメシアだと言わなかったのでは?  ▼ (ヨハネによる福音4:25-26) ~~~~~~  〔* サマリアの〕女が言った。   「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。   その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」  イエスは言われた。   「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この場合は メシア=キリストという言葉に 必ずしも政治的な解放者というニュアンスが強くないかも知れません。  ▼ (マタイによる福音 16:20) それから、イエスは、御自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた。  ★ それに、イエスの子孫を私は知りませんが、そんなに有名なのですか?  ☆ イエスは 結婚したとは書いてありません。子孫はいないと思われます。いるのに隠しているのではなく。  ★ イエスが救世主かどうかは、提示された文面からは判断できませんが、多分、全部読まないと判らないですが(全部読んでも明確に救世主だと神が言ったと書いてなさそうですが。。)、  ☆ 《救世主》と言っても 民族の同胞を政治的な独立へとみちびく指導者=解放者ではなかったことは はっきりしています。  けっきょく人間にとっての普遍神を指し示したことが イエスのおこなったことです。  そこに信仰のことをつけ添えるなら その普遍神を受け容れた者には 汲めども尽きない泉の水のごとく元気が湧くというよき知らせをもあたえました。神のめぐみのことです。そして これは 宗教やそのオシへやまた教会組織とは何の関係もありません。個人の内面の問題に限られます。  ★ そもそも皆の前に神が姿(霊でいいから)を現し、イエスが救世主だから従えと言っていたら(仮に救世主だったとして)、誰もが納得できたし争わなかったのでは。。  ☆ それは 信仰についての救世主としては ちがいます。  十字架上にはりつけになったとき ローマ兵士からは もしおまえが神の子ならそこから降りて来てみろとからかわれましたが イエスはそうはしませんでした。  なぜなら もし神の子としてのキリスト(救世主)のチカラを発揮して降りて行っていたなら それは あくまで神のチカラを使った奇蹟であるに過ぎない だからおれたち人間には お呼びでないんだなアと言って おしまいとなります。  けれども もし人間イエスが神の子であると言っていなかったなら それは ちょっと人一倍頑張り屋さんのイエスという男が はりつけに成って生涯を閉じたで やはりおしまいと成っていた。  神の子である人間イエスが 磔に成ったしその木の上で去って行ったというからこそ この話は永遠にチカラを持つことになるものと思います。  泉の水のごとく 神のチカラがわれわれの内に湧き上がり湧き続けることになります。  そうでないと ただ頭で分かったという理解でおしまいになるでしょう。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   >社会的事件ないし現象としておもしろそうですが―― いまのところ哲学の理論の分野には入って来ないように思います。  哲学とは政治や思想や経済、犯罪心理・パターン統計分析などとは無縁なのでしょうか?  宗教は哲学の理論の分野に入るのですか?宗教問題は哲学に変わったと聞いたものですから、質問してしまいました。  哲学ってなんですか・・・?  私は哲学は総合的に考えると聞いたのですが違うのですか??  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ (あ) 悪魔関係は 天使であるとすれば それは 神に仕える使いである。これで 理論は出来上がりだと思います。  (い) 事件は知りません。勉強してみるかも分かりません。

bekraf
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 >さあ 死刑にしてみろ。さあ殺せ》というような啖呵を切る態度に成り得るとすれば それは採らなかった。 なぜ救世主だと言うと死刑になるのですか? 救世主がくることは預言してあったから、本当にイエスの言う通り、救世主であれば余計殺すわけにもいかないじゃないですか。 >それに あとは その時にはまだ《メシア》の意味がはっきりとはしていなかった。漠然とユダヤ民族を独立へみちびく指導者といった意味合いだったと考えられます。 救世主ってどこまでを救う人のことか預言に書いてないからそうだったと思います。 > 神の子である人間イエスが 磔に成ったしその木の上で去って行ったというからこそ この話は永遠にチカラを持つことになるものと思います。 うーん・・・私は余り好きではないです、この手の話し。。イエスみたいに正しく生きたら馬鹿を見るというイメージが強い。。 >人間にとっての普遍神を指し示したことが イエスのおこなったことです。 そこに信仰のことをつけ添えるなら その普遍神を受け容れた者には 汲めども尽きない泉の水のごとく元気が湧くというよき知らせをもあたえました。神のめぐみのことです。 イエスは神は主ただ一人と言ったことになりますよね。 しかし、他の宗教も信仰の自由はあるよと。 >イエスは 結婚したとは書いてありません。子孫はいないと思われます。いるのに隠しているのではなく。 うーん。。本当にいないのでしょうかね?いそうですけど・・・ >(あ) 悪魔関係は 天使であるとすれば それは 神に仕える使いである。これで 理論は出来上がりだと思います。 アダムに実を食べさせた蛇は堕天した元天使の悪魔の霊で、神に仕えたくないから堕天したのでしょう? >(い) 事件は知りません。勉強してみるかも分かりません。 エリザベスやヨハネパウロ?が悪魔崇拝儀式?するためにカナダの施設?の子供を股裂きなどの虐待したあと食べたらしく、施設からは数百?数千?の遺骨が出てきた的な事件で国際裁判所で実刑になってるのにまだ王女です。ヨハネは退位したみたいですが。。 こんな事件が多いので、日本の未成年行方不明者で見つかってない子供は大丈夫なのかなと。。

回答No.7

 ★(No.6お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~   >エレミヤ書の預言がまだ成就していないという立ち場です。〔ユダヤ人は〕イエスが成就したとはみとめません。  なぜイエスが成就したと認めないのですか?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ▲ (マタイによる福音書/ 26章 57節~66節) ~~~~~~~~~   http://www.bible.or.jp/read/titlechapter.html  57: 人々はイエスを捕らえると、大祭司カイアファのところへ連れて行った。そこには、律法学者たちや長老たちが集まっていた。  58:   59: さて、祭司長たちと最高法院の全員は、死刑にしようとしてイエスにとって不利な偽証を求めた。  60: 偽証人は何人も現れたが、証拠は得られなかった。最後に二人の者が来て  61:  「この男は、『神の神殿を打ち倒し、三日あれば建てることができる』と言いました」と告げた。  62: そこで、大祭司は立ち上がり、イエスに言った。「何も答えないのか、この者たちがお前に不利な証言をしているが、どうなのか。」  63: イエスは黙り続けておられた。大祭司は言った。「生ける神に誓って我々に答えよ。お前は神の子、メシアなのか。」  64: イエスは言われた。「それは、あなたが言ったことです。しかし、わたしは言っておく。あなたたちはやがて、/人の子が全能の神の右に座り、/天の雲に乗って来るのを見る。」  65: そこで、大祭司は服を引き裂きながら言った。「神を冒涜した。これでもまだ証人が必要だろうか。諸君は今、冒涜の言葉を聞いた。  66: どう思うか。」人々は、「死刑にすべきだ」と答えた。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ つまり大祭司や最高法院の議員たちといった国の主だったユダヤ人たちは エレミヤの預言を成就するような人物だとは見ていません。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~   >サタンなどにつきましては どうでもよいと考えていますので   しかし、日本人がどうでも良いと言ってられるのは今のうちだけかもしれませんし、そのうち、どうでも良いなんて悠長なことは言ってられない事態になりそうですし、そうなれば取り返しがつきませんが。。  人は死んでしまうと元に戻りませんし、身近な人が亡くなれば人々は悲しみにくれますし、しかもそれが普通の死に方でないなら、尚更残された人々の心が壊れます。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ おもしろそうですが――社会的事件ないし現象としておもしろそうですが―― いまのところ哲学の理論の分野には入って来ないように思います。

bekraf
質問者

お礼

詳しく回答ありがとうございます。 > 63: イエスは黙り続けておられた。大祭司は言った。「生ける神に誓って我々に答えよ。お前は神の子、メシアなのか。」 > 64: イエスは言われた。「それは、あなたが言ったことです。しかし、わたしは言っておく。あなたたちはやがて、/人の子が全能の神の右に座り、/天の雲に乗って来るのを見る。」 ・・・イエスは神に誓って自分がメシアだと言い切れないから、「それはあなたが言ったことです」と言ったのでは。。 つまりイエスは自分がメシアだと言えなかった(もしメシアでなかったら嘘になるから)のでは・・・??? 言い切れないか、違うからメシアだと言わなかったのでは? それに、イエスの子孫を私は知りませんが、そんなに有名なのですか? イエスが救世主かどうかは、提示された文面からは判断できませんが、多分、全部読まないと判らないですが(全部読んでも明確に救世主だと神が言ったと書いてなさそうですが。。)、 そもそも皆の前に神が姿(霊でいいから)を現し、イエスが救世主だから従えと言っていたら(仮に救世主だったとして)、誰もが納得できたし争わなかったのでは。。 >社会的事件ないし現象としておもしろそうですが―― いまのところ哲学の理論の分野には入って来ないように思います。 哲学とは政治や思想や経済、犯罪心理・パターン統計分析などとは無縁なのでしょうか? 宗教は哲学の理論の分野に入るのですか?宗教問題は哲学に変わったと聞いたものですから、質問してしまいました。 哲学ってなんですか・・・? 私は哲学は総合的に考えると聞いたのですが違うのですか??