私は法律の素人で、雑駁な回答しかお目にかけることができない。しかし、どなたか専門家が登場するまでの「つなぎ」として、ご笑覧くだされば幸いである。結論からいうと、戦時国際法は罪刑法定主義を破る。
それにしても、日本は国際刑事裁判所(ICC)条約をすでに批准したから、ご質問内容は無効である。引用されている「一番優れた回答」とやらも、本当に引用文通りだとしたら、一顧だに値しない。
国際刑事裁判所 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E5%88%91%E4%BA%8B%E8%A3%81%E5%88%A4%E6%89%80
さて、グロチウス(1583-1645)は「国際法の父」とも呼ばれている。「戦争は法を破る」と言ったのは、彼だっただろうか。いずれにせよ、この箴言は次のような意味などを持っていると思う。
(a) 殺人も放火も器物損壊なども無罪、それが戦争である。
(b) 平時の法は破るが、「戦争だから何でもあり」では、当の戦争屋でさえ「やってられねえよ」というだろう。自分もどんな目に遭うか分からなくなるからである。戦時もそれなりの法は要ることが分かる。
ここでは、迂遠な法律論よりも、手っ取り早く歴史事実を振り返ってみることにする。他ならぬ日本が、米軍人を事後法で裁いて処刑した、「ドーリットル空襲裁判」についてである。
真珠湾攻撃から4カ月余りの1942年4月18日、日本が連戦連勝に沸いていたころ、米軍は早くも日本本土を空襲した。空母ホーネットから発進した16機のB-25は、東京その他を爆撃し、中国東部などに着陸した。しかし、着陸地点が日本の支配地域だったことなどから、多くの搭乗員が日本軍の捕虜となった。
この空襲は民間人にも被害が出て、国際法違反の疑いがあった。だが、それに対する罰則は国際法に定められていなかった。こういう場合、国際法の内容を受けて、各国がそれぞれ国内法を制定し、罰則を書き込んでおくのである。しかし、日本はそこまで用意してなかった。
つまり、日本はドーリットル隊の捕虜に報復したかったのだが、当時適用できる法律がなかった。また、後から法律を制定しても、遡っては適用できない。罪刑法定主義とは、「罪」も「刑」も事前に法で定めておくものだからだ。
そこで、日本はどうしたか。これを処罰する軍律を事後に制定して、軍律裁判で彼らを裁いたのである。
【軍律について】
軍事裁判には、軍法会議と軍律裁判がある。軍法会議は、軍法に基づいて裁く(自国の軍人も対象)。軍律裁判は、軍律に基づき被占領民などを裁く。また、軍律を制定する権限の根拠は、多分に慣習法的なものだが、成文法に根拠を求めるなら、次の条文などとされていた。
陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約附属書 陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則(いわゆる1907年ハーグ陸戦規則。以下、「1907年ハーグ」と略す)
http://homepage1.nifty.com/SENSHI/data/haug.htm
(引用開始。旧字を改めた)
第四二条
一地方ニシテ事実上敵軍ノ権力内ニ帰シタルトキハ、占領セラレタルモノトス。占領ハ右権力ヲ樹立シタル且之ヲ行使シ得ル地域ヲ以テ限トス。
第四三条
国ノ権力カ事実上占領者ノ手ニ移リタル上ハ、占領者ハ、絶対的ノ支障ナキ限、占領地ノ現行法律ヲ尊重シテ、成ルヘク公共ノ秩序及生活ヲ回復確保スル為施シ得ヘキ一切ノ手段ヲ尽スヘシ。
The authority of the legitimate power having in fact passed into the hands of the occupant, the latter shall take all the measures in his power to restore, and ensure, as far as possible, public order and safety, while respecting, unless absolutely prevented, the laws in force in the country.(引用終り)
素直に読めば、占領地の現行法を尊重しろと書いてある。しかし、unless absolutely prevented という留保などが曲者(くせもの)だ。「占領軍は秩序を確保する際、しばしば絶対的な支障を感じる。感じたなら、占領地の現行法を尊重しない。占領軍の権限で新たな法を発布し、被占領民を取り締まることがある。ただし、乱発すべきではない」と読むことになるだろう。実際、「軍律」と軍律で裁く「軍律裁判」は、国際慣習化されていた。日本軍も占領地で軍律を発布することがあった。
さて、上述のように、軍律・軍律裁判は主に占領軍の軍政下のものである。ところが、ドーリットル空襲時(1942年4月18日)の東京は占領地ではなかったし、戒厳令下でもなかったので、常法が生きていた。にもかかわらず、日本がドーリットル隊の捕虜を軍律裁判で裁いたのは異例であり、罪刑法定主義を回避するための奇策に他ならなかった。
繰り返すが、占領地で、占領後に軍律を発布して、(戦争中のいざこざなどを)軍律裁判で裁くのは異例ではなく、国際慣習化されていた。その際、事後法で裁くこともあった。しかし、日本は日本本土でその手を使ったので、異例というのである。
【まとめ】
国内法の刑法では罪刑法定主義が厳格に守られ、事後法は禁止であるが、戦時国際法では事後法で裁くこともできた。軍律は戦時国際法(慣習法を含む)に基づくものである。
「できた」というのは、上述の説明が主に第2次大戦時のことだからである。戦後、「戦時国際法」は必ずしも平時の法と別々のものではなくなり、より広い概念の「国際人道法」へと発展していく。前述の「1907年ハーグ」の、占領に関する条項(第42条~56条)の欠点も、1949年ジュネーブ第四(文民)条約などで、ようやく補われていった。
しかし、近年でも例えば「旧ユーゴスラビア国際刑事裁判所」を見ると、ミロシェビッチは厳密な罪刑法定主義で裁かれたといえるのだろうか(もっとも、途中で病死したが)。また、「旧ユーゴスラビア国際刑事裁判所規程」は事後法ではないのか。要するに、国内法と国際人道法とでは、罪刑法定主義の扱いが異なるのである。
その理由は少なくとも二つあると思う。一つは、「国際法の主体」は国家で、個人ではないとされることが多いため、国際法では犯罪者個人に対する罰則などを細かく定めていないこと。
もう一つは、国際法は国内法に比べ、「法の欠缺」が著しいことである。常設機関の国際司法裁判所(ICJ)でさえ、法源として「学者の学説」までも動員すると定めている(規程38条1項)。「補助手段として」という限定付きではあるが。それに対し、国内法においては、成文法・慣習法、さらに判例が法源となる国はあっても、学説まで法源になる国はほとんどないのでは?
旧ユーゴスラヴィア国際戦犯法廷 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A7%E3%83%A6%E3%83%BC%E3%82%B4%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%82%A2%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E6%88%A6%E7%8A%AF%E6%B3%95%E5%BB%B7
国際司法裁判所規程(国連広報センター)
http://www.unic.or.jp/know/court.htm
【付け足し】
ドーリットル空襲裁判は、戦後連合国に裁き返されて、ややこしい話になった。『軍律法廷―戦時下の知られざる「裁判」』(北博昭 著、朝日選書、朝日新聞社)に詳しい。
国際法は慣習法の割合が大きい。また、国際慣習法の成立根拠は、一般に「諸国の慣習」と「法的確信」の両方を要するとされる。しかし、両方は要らず、片方だけでも成立するという説がある。
東京裁判(極東国際軍事法廷)の直接の法的根拠は、最高司令官マッカーサーの権限で発布した裁判所条例だった。連合国側の理屈によると、その裁判所条例は事後法ではなく、当時すでに同内容の国際慣習法などがあったという。また、そんな慣習法があったとする根拠は、「法的確信」ということらしい。慣習無き慣習法ということだろうか。
東京裁判を軍律裁判の一種とする説がある。連合国側は「事後法で裁いたのではない」と主張しているが、その主張が崩れたとしても、そもそも軍律裁判ならば事後法で裁けるわけだ。連合国は、戦争中だけでなく戦後処理においても、したたかだった。やはり、日本が逆立ちしても勝てる相手ではなかったという感じがする。