行政作用が自動的に行われるのは許されないと言う意見がでるなんて、びっくりしました。 行政作用が、法律に基づいて「自動的」に粛々と行われることは当然の共通認識だと思っていたからです。
行政作用が自動的に行われないと言うことは、官吏の個人的判断を認めると言うことです。
「あいつは気にくわないから、この申請は却下」等という不合理な恣意はもちろん困ります。
でも、「合理的な判断」もやっぱり困るのです。「この訴訟は、急がないと思うから後回し」とか、「この人はお金持ちだから、年金の支給を半年遅らせても良い」なんて判断が、吏員の判断で勝手になされたら困りませんか?我々が健康保険で医者に診てもらえるのも、健康保険で定型的に医療費が払われるとの期待が保障されているからです。
もっとも、「自動的」にといっても、そんな便利な機械は存在しませんから、必ず法律を執行する人的システムが必要になります。人も用意しなければならないし、予算も取らないといけないし、マニュアルも用意しなくてはならない。単純に法律を作れば、自然に実現する訳ではありません。例えば、東京都世田谷区には千代田区と同様に、路上喫煙を禁ずる罰則付きの条例があります。しかし、千代田区と異なり路上喫煙は全く減りません。何故なら、千代田区はその執行のために取締員を用意し、手続きマニュアルを揃え、実行しているのに対し、世田谷区ではそのような人的装置が存在しないからです。このように、法律は決して勝手に実施されるのではありません。必ず、それを実施するための人的装置を用意しなければならないのです。
また、全ての行政作用に行政の長(誰を指すのかも判然としません。極限まで突き詰めると、全ての行政行為の判断は全て総理大臣が行うべしと言うことになります。)の判断を求めると、回らなくなります。そこで、判断権限を階層的に下位に委譲していく訳ですよね。これも法律(細則は、政令・省令・通達・条例などで行われますが、「法治国家」ではその範囲も全て法律で事前に規定されています)で定めておくわけですね。
行政作用が法律に基づき「自動的に」、すなわち官吏の恣意が介入しないように実施されることを求めるのが「法治主義」です。この共通認識が壊れてしまうと、議論になりません。
さて、質問者のご指摘通り、死刑執行が恣意的に停止されているのではないかと思われる事例はあります。私の思いつくのは、連合赤軍事件の永田洋子死刑囚です。勿論、本人が健康体でないことも、再審請求が出ているということもありますが、それが全ての執行可能期間を充足しているわけではないと思われます。思うに、彼女への死刑執行は報復テロを招きかねないので、実質的に「終身禁固」として「飼い殺し」にするとの政治的判断が存在するものと考えます。
鳩山発言は決して不合理なものではないと思います。死刑以外の刑の執行は法務大臣が決済している訳ではないです。無期懲役は、実際「終身刑」であり、そのように運用されています。この刑ですら法律に基づき「自動的」に執行されているのです。つまり、判決が確定すれば、判決文は「自動的」に法務省に回付され、法律の規定に基づき拘引され、刑に服す訳でしょう。死刑だけが恣意的に運用されて良いとは思えません。鳩山発言は、私レベルに翻訳すれば、「死刑の執行も、他の刑同様に政治的判断を排除して執行するようにして良いのではないか」と言うことでしょう。
ただ、鳩山法相の中に、法務大臣のポストを政治家のステップのひとつと考え、死刑執行の署名が、自身の肩書きに傷をつけるので避けたいという、日本の政治家特有の考え方(穢れ思想と言うのでしょうか)が入っているようにも思えます。しかし、この考え自体不合理とも思えないと考えます。
お礼
やはりなかなか一筋縄ではいかないですね。この問題。 幾らひどい罪を犯したからと言っても、人をひとり殺す訳ですから。 回答、ありがとうございました。