#1・2です。
続けてすみません。そろそろおいとましますが・・・
仏教で経典・論書がたくさんあるいちばんの要因は、仏教が「無神教」だからということになるかと思っています。
お釈迦さまは「創造主」でも「神の子」でも「預言者」でもなく、世の中の真理・理法に「気がついた人」という感じになるだろうと思います。仏教の教えは、お釈迦さまが考えて作ったものでもなく、誰かからお釈迦さまに特別に授けられたものでもないわけです。
お釈迦さまは未踏峰の山に初めて登ったというような「偉大な先駆者」的な位置づけでしょうか。
仏教ではかなり初期から、このことははっきり認識されていて、お釈迦さまが悟った事柄は、お釈迦さまが悟ろうが悟るまいが元からあったもの(=この世の普遍の真理である)とされています。
そして、仏教ではその真理(法)を奉じるという信仰態度を求め、絶対的な超越者を説きませんでした。仏教内でのお釈迦さまの存在は絶大ではありますが、唯一絶対の神様という存在ではありません。
大乗仏教では超人的な如来や菩薩がたくさん登場しますが、理想的な修行完成者や修行者を少々オーバーに表現したモデルであったり、何事かを象徴させるために意識的に擬人化されたものであったりで、経典の文言そのままに「実在」するとは製作者側も考えていなかったと思います。
経典や論書は法を説くのと同時に法に近づいて行くための「手段」としての役割を負うため、いろいろな説き方が可能だ(手段は多い方が良いだろう)と考えられたということになるのだろうと思います。
お釈迦さまの教えをどう伝えるか、そして大乗仏教ではお釈迦さまの悟った真理の内容は何か、真理をどう捉えどう表現するかがさまざまに考えられ、経典がどんどん増えた・・・という感じかと。
さらに(とくに大乗仏教では)経典は人々を仏教に引き入れるための手段としての役割も担いました。(「功徳」が強調される傾向がある)
確かに尋常な量でないですから、学者さんやお寺さん、余程に興味でもない限り、数多くの経典を実際に読む必要はないと思います。(なによりも時間的にムリです。)
数多くの経典があっても、それは「全部読め」という意味ではないと思いますし。その人その人に合った教え、その人が仏道に向かうことができる教えが見つかれば、それがその人の「読むべき経典」だったということになるでしょう。
幸い日本は、おそらく(はっきり調べたわけではないですが、)「仏教に関する情報量」は世界一だと思います。
研究に進み具合とか細かいところでは欧米の方が進んでいる分野もあるかと思いますし、「情報量」が多いことがそのまま良いことなのかどうかは意見の分かれるところかと思いますが・・・全体の情報量ではダントツで多いだろうと思っています。
時間をムダにしないためには、いきなり経典を読むよりは、研究者の方の概説書を当たってみる方が早道かと。
何度もすみませんです。
お礼
有難う御座います。 仏教典が沢山ある原因は仏教が無神教だという ご見解、大変素晴らしいですね。 全然、気が付きませんでした。 そうすると、儒教と似たようなものなのでしょうか?