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国文法(文節と文の成分)
国文法の質問です。 象は 鼻が 長い。 私は 平泳ぎが 得意だ。 私は 国語が 好きだ。 私は 水が 飲みたい。 私は フランス語が できる。 のような文で、学校文法は(1)文節の働き、(2)文の成分をどのように教えていますか?
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教科書本体では、この問題に完璧には答えてはいません。以下、現行教科書本体(全五社)、及び教科書会社が出している文法の現行副教材(二社・訳あって以下a・bとします。)、古い指導書(光村)に基づいて述べます。 凡例 光村=光村図書、教=教育出版、三省堂=三省堂、東書=東京書籍、学図=学校図書。 学図では、文節の働きを「主語」のように「~語」と、成分を「主部」のように「~部」とする。それ以外は単独の文節からなるものを「主語」のように「~語」と、いわゆる連文節を「主部」のように「~部」と表している。便宜上、ここでは主流の四社の表記に従う。 A象は 鼻が 長い。 B私は 平泳ぎが 得意だ。 C私は 国語が 好きだ。 D私は 水が 飲みたい。 E私は フランス語が できる。 以下、ポイントごとに箇条書的に述べます。 (1)冒頭の「象は」及びすべての「私は」について 「象は」及びすべての「私は」は、すべて、文節の働き・成分ともに「主語」としています(全社とも)。ただ、教出では、「主題を示す」という表現をとっており、また、その副助詞「は」の説明に関連して「題目(語)」と述べています。ただ、教出でも成分は「主語」です。 副教材でも、上記を超えることは書いていません。 ただ、文節相互の関係で、単独の文節(ありうるのはもちろん述語)と関係を持つとしたものはなく、いずれも後半の連文節(いずれも述部)との関係についてしか書いていません。 (2)「鼻が」以下、二つ目の文節について Aの「鼻が」が、部分の主語として「長い」という述語に係っていること(換言すれば、文節どうしが主語・述語の関係にあること)、そして、「連文節(成分は述部)」として、主語の「象は」を承けていることは、全社同じです。 B以降の「~が」については、文節の働きを明記した教科書は一冊もありません。東書、学図では格助詞「が」の説明のところで、この手の「~が」は<主語>ではなく<対象>を示している、と説明しています。しかし、文節の働きに関して、これらを修飾語としたものはありません(主語としたものもありません)。教出に至っては、「ぼくは からい カレーが 食べたい。」という例文を挙げ、成分を考えてみようという課題を出しておきながら、その「カレーが」にあたる文節の働きを明示していません。これは問題だと思います。 なお、副教材aでは、B~Eの「~が」と直後の文節との関係を、「主語・述語の関係」としています。副教材bでは、次のように述べています。 >(「水が飲みたい。」の文は)「水が」を「水を」と言い換えられる。この場合「水」は「飲む」という述語の主体でなく、対象を表していることから、この「水が」を対象語などと呼ぶことがある。このような「が」のつく対象語については、ここでは主語に分類しているが、連用修飾語に分類する考え方もある。 以下は、古い光村の指導書(昭和62年 よって、現在の光村の見解といえるかどうかは断定できません。)から引用したもの(省略、要約した部分があります。)です。孫引きの部分(>>以下)もあるのでご注意ください。なお、第一文節についての記述もあります。 > A 象は、鼻が長い。 B 彼は、力がある。 C(わたしは、)映画が好きだ。 D(わたしは、)水が飲みたい。 E(わたしは、)数学が難しい。 Aの「長い」状況にある主体、Bの「ある」という存在の主体を表す、「鼻が」「力が」は何か。両者は主語(部分の主語)である。両者は~(述語)といっしょになって、主題や題目についての説明の一部を分担していると考えるのである。 C~Eの「映画が」「水が」「数学が」は、動作の主体でも、状態や性質の主体でもない。感覚や感情を引き起こすきっかけとなり、対象となったものを表現しているわけである。時枝文法ではこれを「対象語」と名づける。C・Dや「歯が痛い。」など述語の内容が感覚や感情を表す場合、このようなとらえ方は確かに合理的だといえる。ただし、「数学が難しい。」という場合、「数学が」は対象語か主格語かを区別しにくい点もある。 なお、この教科書(昭和62年ごろの教科書)では、対象語を主語の中に含めているが、別に「わたしは」などの主語があり(想定でき)、述語との論理関係からいっても、主語とするのは不適当だとする考え方もある。その場合、連用修飾語の一種と見なすのである。 「言語事項の学習指導」(昭和55 文部省 東洋館出版社)には次のようにある。 >>「が」が付いても、次のような場合は、主語でない。これらは、格助詞を用いるならば「を」を用いることになる場合である。 (私は)水が飲みたい。 文の中には、時に、一つの述語に対して二つの主語が認められる場合がある。 象は鼻が長い。 このような場合、「鼻が」を主語、「象は」を総主語とか、主題・題目などと言って、二つを区別している人もいる。 << < なお、かつては「鼻が」を修飾語としていた教科書もあったと記憶していますが、今は時間がなくて調べることができません。 (3)三つめの文節について 以下、繰り返しになりますが、文節の働き(文節相互の関係)としては直前の文節と「主語・述語」あるいは「対象語・述語」の関係にある、とされます。成分としては直前の文節と連文節となって、主語に対する述部になっていると考えます。 あまりお役に立てなかったかもしれません。
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- kyouzaiya-k
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#1です。補足いただいたご質問にお答えします。 >~と学校文法では教えられていると考えればいいのですね。 そのとおりです。 >~それを理解するのは、とても難しいと思います。 全く同感です。対処法としては、次の二つしかないでしょう。 ●できる子(理解力に優れた子)には、正直、その矛盾点を話してしまって、文法にも限界があること(すべてをうまく完璧に説明できるわけではないということ)をわからせてもいいと考えます。つまり、「水が」は主語とも連用修飾語ともとれるし、意味的には連用修飾語と考えた方がつじつまが合う(「~を」と言い換えられるわけだから)のだが、”お約束”として学校では「主語」と教えている、と説明するわけです。 前回、副教材bからの引用という形で挙げた次のような内容を教えるわけです。(実は、この教材のこの部分は数年前、私が執筆しました。よって、それをさも正しい説明の代表のようにここに書くのは恥ずかしいのですが、数年前に書いたときの私の考え(文法的事実に関する考えと、教え方に関する考え)は今も変わっていないので、あえて僭越不遜のそしりを受ける覚悟で改めて書かせていただきました。) >(「水が飲みたい。」の文は)「水が」を「水を」と言い換えられる。この場合「水」は「飲む」という述語の主体でなく、対象を表していることから、この「水が」を対象語などと呼ぶことがある。このような「が」のつく対象語については、ここでは主語に分類しているが、連用修飾語に分類する考え方もある。 ●普通以下の子には、「主語」には、動作・状態・存在の主体を表すものと、対象を表すもの(「水が」など)があるのだ、とだけ教えるしか方法はないでしょう。理屈を語っても混乱させるだけなので、あえて難しいところはブラックボックスに入れてしまうわけです。 >主語は行為を受ける主体でもあるのだ、といっています。この説明は、ちょっと無理があるでしょうか? 無理があると思います。「行為を受ける主体」という言葉の定義があいまいです(特に「受ける」の意味)。また、「対象(語)」が「主体」であるというのは、語義からいって矛盾しています。正確には、前回私が引用した指導書に書かれていた「(主体=主語=総主語に)感覚や感情を引き起こすきっかけとなり、対象となったものを表現している」と定義すべきです。上に書いたように、できる子(理解できる子)には正直に話し、そうでない子にはある部分をブラックボックスに入れてポイントだけを説明すべきだと考えます。それが最善かつ理想的な方法だとはとてもいえませんが。 >成分分析はこんなんですか? (一つ訂正を。#1では述語を「食べたい。」と書きましたが、正しくは「食べたいんだ。」です。) それでいいと思います。教出の教科書でも、「ぼくは」という成分と、「からい カレーが 食べたいんだ。」という成分に分けられるというヒントだけはだしていましたから。 ただ、この課題については、あまり深く掘り下げない方がいいと考えます。「カレーが」は「カレーを」の意味であり、言い換えられるということを強調しすぎると、「を」は連用格であり、「からいカレーを」というのは修飾部ではないか、という疑問を抱かせてしまいます。修飾部(独立した最終成分になるのは連用修飾語(部)だけです。連体修飾語(部)は必ず連文節となり他の成分の一部となります。)は、述語の前なら自由に位置を代えられると教えますよね。そこで試みに、「からいカレーを(が)ぼくは食べたいんだ。」と語順を入れ換えると、なんと意味が通じてしまう。ということは、「からいカレーが(を)食べたいんだ。」を連文節(一つの成分)とする根拠が崩れてしまいます。「ぼくは(主語)からいカレーが(修飾部)食べたいんだ(述語)。」という成分分析で何が悪いんだ、ということになってしまいます。それを生徒に指摘された場合、軌道修正して納得させるのは容易ではありません。上記のように、文法には限界があるということ、またその限界が那辺にあるのかを理解している子ばかりなら、その難局をきっかけにかえって考察を深めることができるでしょうが、そんな理想的、予定調和的な授業・教室なんて実際にはありえませんよね。 私が考えるに、そのときは、せいぜい、 「そこが「~を」と「~が」の違いなんだよ。意味・用法が似ているとはいっても、「を」と「が」ではやはり違いがある。違いがあるからこそ、二つの言い方があるということなんだ。もし全く同じなら二つの言い方が存在する理由はないからね。そもそも、伝統的な日本語では、「~が」を使い、「~を」という表現は使って来なかった。それはつまり、このような「~が」という形が表す文法的意味を、「~を」という修飾語と考えるのではなく、それ以外(以上)の何らかの意味を表すものと考えていたからだ。その”意味”こそが、主語と考える根拠なんだよ。」 などと言ってごまかすしかありません。上の説明の前三分の二は正しいと(自画自賛?)思いますが、結論部分にはごまかしがあります。”主語と考える根拠”となるべき「が」が持つ固有の文法的意味・価値とは何かを、私はうまく説明できない(生徒に対してというのではなくて)からです。 以上、とりとめのない内容になってしまいましたが、少しでもご参考になれば幸いです。
お礼
懇切丁寧な回答ありがとうございました。 1 主語は、動作、状態、存在の主体と対象を表す役割がある。 2 対象語は、「(主体=主語=総主語に)感覚や感情を引き起こすきっかけとなり、対象となったものを表現している」ものである。 3 対象語については、主語とする説と連用修飾語とする説がある。 4 すべての言語現象を学校文法で説明するのは、ちょっと無理がある 5 「カレーが食べたい」と「カレーを食べたい」における「が」、 「を」の違いは、うまく説明がつかない。 5に関しては、本当に難しいと思いました。なぜ、「たい」、「ほしい」、「できる」、「れる・られる」のようなとき、「が」格と共起することが多いのか。「が」格の主語の文法的な意味とは何か。 とても参考になりました。ありがとうございました。まだまだ質問したいこと、知りたいことが山のようにあります。見かけたら、またお助けください。
お礼
懇切丁寧な回答ありがとうございます。 私は 水が 飲みたい。 文節 主語 主語 述語 成分 主語 述部 と学校文法では教えられていると考えればいいのですね。 中学生に文法を教えるときに、主語の説明と「私は水が飲みたい」における「水が」の説明の折り合いが難しいと思っています。つまり、主語といえば、行為者、存在するものなどという感じがあるのに、「水が」の場合は主語といっておきながら、対象を表している。言ってみれば、全く違った素性を「主語」の中に認めることになる。それを理解するのは、とても難しいと思います。 そういう場合、「私は彼に殴られた」のように、主語は行為を受ける主体でもあるのだ、といっています。この説明は、ちょっと無理があるでしょうか? あと、教育出版で「ぼくは からい カレーが 食べたい」という文の分析を示しておきながら、ほったらかしというのには怒り半分、笑い半分という感じです。成分分析はこんなんですか? ぼくは からい カレーが 食べたい。 文節 主語 修飾語 主語 述語 連文節 主語 主部 述語 成分 主語 述部