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国を信用していますか?
そもそも国とはなんなのでしょう? 以前ここで、「国歌斉唱の強制について」質問したところ、 「国歌を愛するのは当然だ。」というご意見を多数いただきました。 私は、そんなに簡単に国を信用していいのかと思います。 国が強制力を使う時、時の権力者の策謀が裏にあると思うのです。 今、まさに「国民投票制度」が可決への道を進みつつあります。 そこで、国民の過半数とれれば、憲法改正できるのですよね? でも、それは国民の本当の意思と言えるのでしょうか? 国家というとき、それは国民ですか?それとも、政治権力ですか? 国とは、いったいなんでしょう?
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いい加減なものですが、こうまとめてみるとどうでしょう。 ・国家とは存在するものか? 英語の「ネイション」には、「国家」と「国民」の両方の意味があります。 近代国民国家(ネイションステート)というのは凡そ16世紀~19世紀当たりに人工的に形成されたものと考えられます。国旗・国歌というのが作られたのもこの辺りです。 この形成過程で、国家権力とナショナリズムが「国民」そのものを創ったという視点で捉えられます。これより前の庶民は、領主や宗教の支配下に存在する、国籍を意識しない存在に過ぎませんでした。 このあたり、意見の分かれる部分も多いです。古典的名著はベネディクト・アンダーソン『想像の共同体』など。国民概念の虚構性についてはエリック・ホブズボームの議論が詳しいです。 また国家の正当性を「伝統」ではなく「憲法」に求めようという主張(憲法パトリオティズム)はユルゲン・ハーバーマスを参照。 ・多くの伝統は捏造なのか? 何々は「日本古来の伝統」といった政治的主張は、度々学問的に誤りで、実際には明治洋風建築か大正レトロ建築程度の歴史しかないことも多いです。しかし、現代の人々に「伝統」を好む心が存在することは確かです。近代に作られた伝統でも、現在を生きる人々の生まれる以前からあった「伝統」であり、トヨタやソニーよりは古い存在です。こういった場合に、国家は「想像の共同体」に過ぎないとかいったことを主張しても、あまり意味がありません。 ・ナショナリズムとは左翼的概念だった? ナショナリズムというのは、18~19世紀市民革命の時代においては革命的な左翼概念であり、貴族などの特権階級に対する庶民の平等性を主張する包摂的な思想でした。こういった意味から、ナショナリズムにはコスモポリタニズム(世界市民主義)に繋がる平等・博愛的な部分があるとも見れます。一方で、次第に外集団(エスニックマイノリティと外国)への差別・排除を伴う内集団の優越欲求、権威主義と暴力のイデオロギーに繋がることが問題視されるようになりました。 ・国家権力とはどこに存在するか? 国家権力というのは、暴力によるものであれ、マスメディアへの影響力、非決定を誘引するもの、教育・試験から生じる規律訓練、家族による再生産であれ、色んな所に触手を伸ばすものです。 近代国民国家の担う権力は、旧来領主・教会(寺)・家族・市場の担っていたものを吸収して巨大な存在となっており、これが「暴走しうる」ものだということは、国名に関わらず成り立ちます。 ただし、全ての権力が政治的権力者に仕業だというわけでもありません。経済的権力、国際機関による権力、知的エリート的権力、コーポラティズム的権力、宗教的権力など他のものとも合わせて考える必要があるかと。悲観的に見るならば、私達は皆、言説空間に支配されている・振り回されているという意味で、一種のマインドコントロールを受けているともいえます。 ・現代「民主主義」の限界とは? 民主的に投票された結果が、本当の民衆の願いなのかというと、実際には難しいものです。どうも自分で自分の首を絞めるような結果になってしまうことも多いです。人間の情報源とその処理能力は限られています。「私は正しい」と思っていても、実は「正しくない」かもしれません。「国民の意思」というものが単一のものとして存在するわけではありません。政治は万人に平等という訳にはいかない場合もあります。 しかしながら、近代欧米で成立した民主主義的理念を掲げる政体というのは、国家権力の暴走を防ごうとして成立した機構です。こういった「正しさの限界」があるからには、自分とは異なる主張の存在を排除しない必要があります。民主主義の無力を攻撃する人間は、度々「偉大な指導者」を求め、自分達以外の主張を排除しようとします。実際には「偉大な指導者」は、それが民族主義者であれ知的エリートであれ、万能ではなく、度々暴走する存在です。 現代の「民主主義」形態は、従来の権威主義形態・全体主義形態と比べると多元的な意思が介在できる、ある程度権力を抑制でいるという意味で評価されます。この当たりの議論は例えばロバート・ダールのポリアーキー論を参照。 ・直接民主制の是非 現在よりももっと優れた民主主義の形態を目指そう、民主政治の質を高めようという議論が盛んになされています。直接民主的な制度の取り入れを主張する人も多いです。そういう意味では「国民投票制度」というのは肯定的に捉えられる面があると思います。ただ、合理的な判断を仰ぐという意味で、早期の導入が効率的でないという批判があります。こうした事に対する妥協から、末端の地方自治体から漸進的に直接民主的な試みを導入してはどうかということが言われます。
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- potepoten
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国家斉唱に関しては、 国を愛するとかいう臭い文句は関係なく、 みんなが歌っているのに数人だけ起立せず歌うのを拒否という、 学校の規律を乱すことが問題だと思いますが。 割れ窓理論というものをご存知だと思いますが、 一人が規律を乱すことによって、 それがどんどん波及して行くのです。 それは起立するしないだけには留まらず、 嫌なら全部拒否していいんだ。という概念が子供の中に埋め込まれます。 純粋な日本人でも君が代を歌うときに愛国心を持って歌ってる人なんてまずいません。 でも規律を乱さないためにもちゃんと歌っています。 外国人だから規律を乱していい。という事もありません。 嫌だけど、仕方ないけど立ってやるか・・・と思っている外国人が大半でしょう。 国家なんてものはどうでもいいですが、 学校という狭い範囲での規律を乱すのは問題です。
お礼
回答ありがとうございます。 国家を信用してるということですね。 規律を守るために、個人の主張が出来ないのは問題だと思うのですが。 私は子供には、嫌なことは嫌だときちんと意見できるようになって欲しいと思います。 国家なんてどうでもいいなら、主張を持って行動する人を非難できないのではないですか? 信用するなら、責任をもって信用して欲しいものです。
- toranekosan222
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国家を愛するってどういう意味ですか??汚いおじさん達が汚いことしている国家の象徴たる国政を愛する事が出来るほど変態ではありませんから。 どっかの学説で最適解は、過半数で決議できる者では無いというのがあったきがするなぁ。 国歌ですか?歌が下手なので、歌をきくのはいいんだけど、歌うのは嫌いです。強制というのは激しく民主主義的な姿勢に反する事が分かっていないのですよ、そういう意見を述べる人は、北朝鮮なりなんなり、反民主主義的な国にでも行けばいいのです。そこでならば、常識でしょうけどね。例えば、民主主義の象徴であるアメリカに行って、そういう事を行ってみてください。日本がさらに誤解されることでしょうな。 なんか、中国に技術とか労働力をたよるようになってから、共産的、封建的な、ファシズム的、全体主義的な考え方が流行しているような気がする。その考え方を歌っている人たちがどういう立場にいるかをみれば、分かるんだけどさ。韓国みたいに北朝鮮の工作員が政界にもいっぱいいるのでは??? と疑いをかけてしまいたくなりますね。 国家を愛するじゃなくて、国家を誇りに思うって事だと思うんですがね。日本語的に。
お礼
回答ありがとうございます。 若い方ですかね? どうも主張されてることが分かりづらいのですが。 その汚いおじさんが作った国家は誇りに思うけど、 愛するわけではない・・・? 強制には反対の意思をお持ちなのですね? でも、アメリカも北朝鮮も、国歌を半強制するところもあるように思いますが、いかがでしょうか。 中国の全体主義に影響されてることはないと思いますが、 タカ派に流れているのは確かでしょうね。 そのために、国全体を同じ方向にまとめつつあるのではないかと疑ってしまいます。
- term-ott
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こんばんは。 「国歌を愛するのは当然だ」という言葉を、「政治権力を愛するのは当然だ」と言い換えることは不可能なことから、多くの国民の頭の中の国家とは、その風土と、周りの人々のことです。 同時に、国家の運営に数々の不満はあるものの、曲がりなりにも、世界の多くの国々と比較して、幸せに暮らしていけるのは、国が存在するからだと、私は感謝はしています。しかし、その政治機構に対して「愛している」というのとは、違うと思いますが。 今のような政治権力が存在するのは、その存在を是認しなければ、国民が生きていけなくなることを皆が知っているから、やむなく認めているに過ぎず、他にいい形があれば、それをやっているに違いありません。 なお、国歌斉唱などを政治権力が推進したがるのは、ばらばらになっている人々の心が、これ以上散り散りにならないようにと願ってのことだと思うので、私個人は、それにマイナス感情は抱いていません。
お礼
回答ありがとうございます。 多分、日本国民のほとんどのかたが貴方と同じように考えていると思います。 そして、それだからこそ、私は心配になるのです。 「愛する国のために」イコール「愛する家族のために」と考えてしまうのは当然だと思うのですが、 その素直な心を利用するのが国家というものだと思うのです。 国民なんて、ばらばらでいいと思うのです、それが自然な姿なのではないでしょうか? アメリカで「テロを戦争の理由にするな」と主張した、テロで息子さんをなくした母親が、非国民扱いを受けたというニュースもありました。 確かに国に感謝することがらも多いのですが、それと同じくらい国を憎むことや、軽蔑することも多いのも事実ではないでしょうか? 私たちが責任を持って作っていかなければならない国を信用するためには、どうしたらいいのでしょうね?
お礼
回答ありがとうございます。 専門的なようで、全て理解できたか分からないのですが、 国とはいろんな形体をとるため、一概に信用できるとか言えないということで宜しいでしょうか? 今、世界で暴走していない国家はどれほどあるのでしょう? いつまでも、戦争がなくならないことを思うと、暴走国家は今だ多いとしかいえないような気がします。 日本もそうならないといいのですが。