フランスの不良放蕩詩人、アルチュール・ランボーが、ポール・ドメニーとジョルジュ・イザンバールに宛てて書いた2通の「見者の手紙 lettres du voyant」(1871)にある一節の引用ですね。
ジャンルは「文学」ぽいのですが、「哲学」かな?とも思うし…幅広い社会科学全般を問うこのカテゴリでよろしいんじゃないかしらと思います。
だけどこのフレーズって、今も各界でいろんな解釈がされてて、とても難しいご質問。
ここでは私の個人的な解釈だけ紹介させてくださいな。
デカルトの『方法序説』(1637)という著作の中に、「我思う。ゆえに我あり(Cogito, ergo sum: je pense, donc je suis)」といった超有名な哲学フレーズがあって、そいつに対するランボーのアンチテーゼのようです。
どういう手紙だったかというと、「自分は詩人だ!」という宣言の中で、
「私は考える(ゆえに我あり)って言い方はまちがいだよ」
「他者が私を考える(ゆえに我あり)って云うべきだ」
「つまり『私』っていうのもひとつの『他者』なんですよ(Je est un autre.)」
ということを書いています。
ランボーの詩には一人称「私」がたくさん出てくるけれど、どれも客観的。まるでランボーが幻を見て、体験した情景をそのまんま書いた感じ。
言葉は悪いけれどジャンキーが書いたのか?みたいな難解さ・不可解さがあったりします。おかげでいろんな翻訳がされてます。
これも、「私」が詩を考えるのではなく、「世界」が「私」に詩を書かせる、という詩作のあらわれなのかしら。
「私」が私のものでないなら、制御のしようがないですもの。
これは文学畑の人間からのひとつの解釈なので、ご参考のひとつになれば幸いです。
哲学や社会学などにお詳しい方から、また違ったご回答が寄せられると思いますよ。
お礼
御礼が遅くなってしまいました。申し訳ありません。解り易い説明を頂きました。心からお礼申し上げます。「滅私」、「私」は器、なるほど!と思いました。そして、~「私」がどうしたっていうんだよ、あんたが自分の何を「私」と思い込んでいるのかは知らねーけど、俺にはぜんぜん興味ないね。「俺自身」についてはどうだって?同じことだよ、興味ねーな、他人事。~思わずニッコリ笑いました…スッキリしました。本当にわかりやすくストンという感じでした。つくってくださったのですね、ありがとうございます!まことに良回答を頂きました。大切に保存させて頂きます。もっと、文章をうまく使えるなら、もっと感謝の気持ちを伝えられるのに…残念です。どうか、画面に向ってペコンと頭を下げている姿をご想像ください…本当にありがとうございました!!