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私は一個の他者である。の意味がわかりません。
私は一個の他者である。の意味が解りません。とても興味深く是非知りたいです。わかりやすく教えてください。ジャンルも良くわからなかったのですが…よろしくお願いします。
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「他者と私との関係」を考えるというのは、その人の自分自身の生き方そのものに関わってくる命題なので(倫理的な論件といいます)、答えも人の数だけあります。 ですから、nigiさんが少しずつ自分なりの答えを見つけていっておられるのを拝見して、とても心強く思ってます。 >結局、人の事もわからない、という事 >理解し合う、という事はどういう事なのか >私は、私、の思うように動かない、いきられない >私、を動かすのは何か これらの問題は、文学だけでなく、社会哲学(他者論、で検索するとうじゃうじゃ引っかかってきます)や演劇、または生命科学などに携わるたくさんの人たちが自分の考えを著してらっしゃるけれど、ランボー自身はそういう意味を含めて書いてはいませんので、このへんを補足させてください。 ランボーの詩作の姿勢をひとことで云うと、「滅私」という日本の言葉が近いかも。 (仏教用語の「滅私」ではなく、広い意味で) 「自転車の鋼鉄は、ペダルから彼の血管に流入して、彼の身体は鋼鉄となって疾走するのだ」(「ランボオI」)と小林秀雄が書いてますが、詩人ランボーにとって、まわりの世界と私との境界線はないんです。 他の同世代の詩人は、「詩を書くために」恋をしたり、悩んだり、本を読んだり、人と話をしたり、生活したりしていたけれど、ランボーは違いました。 普通の意味で私たちがいう「生活」を、少年ランボーはしてきませんでした。 「私」は器。あるのは「感覚」だけ。 天に与えられたその鋭い感覚で見た世界を、詩人ランボーはただ見て、語るだけ。 人に読ませるためでも、自分を表現するためでもなく、ただ、自分の「感覚」がとらえた世界の現象を書き留めることが、ランボーにとって唯一、「私」を存在させる方法でした。 つまり、ランボーは「他者という鏡」には一切の興味を払わなかったんです。 また、「愛」とか「善」とか、私たちの心の奥から聞こえる声(自己の内の他者)も、笑うべき空想が生み出したもの、と見えたようです。 「私は一個の他者である」という言葉は、「私って何?」という命題そのものも笑い飛ばすためのアンチテーゼのように見えます。 ~「私」がどうしたっていうんだよ、あんたが自分の何を「私」と思い込んでるのかは知らねーけど、俺にはぜんぜん興味ないね。「俺自身」についてはどうだって? 同じことだよ、興味ねーな、他人事。~ そんな感じ?
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- mamuku-
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>時として、本人でありながら判断、決断ができないスザマシイ葛藤を引き起こす素のようにも思え、浮かんできたのは、世間体、という言葉でした… この理解は正しいと思います。自己の中での「スサマジイ」葛藤というのは、 まさに、自己の中に「他者」が存在するからです。世間体という理解も 的をいているように思えます。他者=第三者性が存在するので、本人でも判断、 決断できない葛藤があると思います。本人の意志で何でも出きるのならば、 そのような葛藤は生まれないでしょう。自己の中に本人では、認識できない 他者=社会規範(日本社会ではこれを”世間体”といっても良いかもしれません)が存在するということではないでしょうか? また感想なり、レスなりください。 ところで、「自己の統合」というのは、どういう考えから出てきたのか、 教えてくれるとありがたいです。
お礼
今回の質問に対し、ご回答頂きありがとうございました。補足をお願いしておきながら誠に恐縮ですが…申し訳ありません…締め切らせていただく事に致しました。社会学の上からのご説明大変参考になりました。ありがとうございました。
補足
ご回答ありがとうございます。ご親切に感謝しています。又、正しい理解と言って下さり、ホッとしています。だのに、唸っています…。何故唸っているのか…。難しいです…。本人でありながら決断、判断が出来ない時スザマシイ葛藤の中で、自分が二人いるような感覚になります。その、もう一人(他の)の自分は、世間体という一つの名前では呼び切れない感覚があるのです…そして、どちらか一方を優先(決断)した後、何故そうしたのかしっかり認識できない不安定さや後悔が出てきて、自分の決定に自信が持てなくなり→自分、自己がアヤウイと感じます。自己の統合というのは、感覚として二人いる様な自己が一致している、又は、少なくとも握手している→決定に自信があり、自己がアヤウクない状態、というところから出てきました。それは、不可能な事なのでしょうか…?それから、何かを決断する時、~に突き動かされたかのように、という表現があると思うのですが、この~についても、どのようにお考えになりますか。あわせてお聞かせ頂ければ幸いです。拙い文章お恥ずかしいですが…よろしくお願いいたします。
- mamuku-
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社会学の上から、簡単に説明をしてみましょう。 人間は誰しも社会性を持っています。社会性を持つということは、ある種の 他者性というものを持っているということです。自己を規定するのは、自己ですが、社会性を持つもの(他者)によっても規定されます。すなわち、自己には 社会性=他者が、自己の中に備わっているということです。 この自己の中の他者がなければ、人間として存在することはできません。 自己の中にいる他者とは、「あれをしてはいけない、これをしてはいけない」 あるいは、「これをすべきだ」という規範のことです。自己の中に他者性もっているということを言っているのではないでしょうか? このような解釈もなりたちます。 が、質問者の方の「私は一個の他者である」ということばは、 誰が言った言葉でしょうか?それを教えていただけると、私も勉強になります。 あえて、社会学用語や哲学用語を使わずに説明してみましたが、いかがでしょうか?レスおまちしております。
補足
ご回答ありがとうございました。簡単に説明して下さろうというお気持ちに心から感謝しています。にもかかわらず…いまひとつ、ストンと解らない、ので苦しんでいます…何回も読ませて頂きました、考えました。確かに自己の中の他者は自己を助ける役割をしていると思います。が、反面、時として、本人でありながら判断、決断ができないスザマシイ葛藤を引き起こす素のようにも思え、浮かんできたのは、世間体、という言葉でした…せっかくのご回答に対する理解が、間違っている、ズレているのでしょうか…?又、自己の統合とはどういう状態をいうのか…自己の中の他者と一致した状態…?教えて頂きたいのです。宜しくお願い致します。最後になりましたが、ジャン・アルチュール・ランボーの言葉です。
- aoneko
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こんにちは、補足読ませていただきました。 >…難しいです… って正直に書いていただけて嬉しかった! 嬉しかった、てのも不謹慎なのだけど^^;、ヘンに読みにくい文章にもかかわらず、一生懸命読んでいただけたんだーと思うと、私こそ大切なことを教えてもらえた気がするの。ごめんね。本当にありがとう。 >私を私と決めるのは、他者? >私が私の言動を決め、動かしていると思っているけれど、そうではなくて、実は、私という者は何かに動かされている他者である? >私は、私の思っているとうりには人にうつらない? >私が、私と思っているのは私ではない? >私は、私の思うように動かない、いきられない? どれも的を射ていると思いましたよ。私なりに補足を加えてみます。 たとえば、自分自身のことを心に思い描くときに、きっと誰もが「誰かといるときの自分」「社会と関わっている自分」が浮かんでくると思うの。 「私ってどう思われてるのかな」「私はお父さんとお母さんの子」「私は大学で勉強しています」「俺は誰よりも美しいィー(笑)」みたいに、他の誰かに自分を映して(鏡に映すみたいに)、自分自身を見ているところがあるのね。 つまり「私」は他者という鏡に映ってる像なんだ。私が私と思っているものは、他者という鏡なんだ。 「私は一個の他者である」ということを、そう解釈をしてらっしゃる方もいます。 たくさんの鏡に映った自分を、全部合わせて初めて一個の「私」が見える。 nigiさんのおっしゃるとおり、それはとてもアヤウイ「私」です。 ランボーはそれを逆手にとって、鏡=他者=まわりの世界全体を「私自身」なんて云い切っちゃってる感じがします。 「俺は俺のもんじゃなくて世界のもんだ。俺には才能があるから、世界をこの目でしっかり見ることで、世界が俺にすごい詩を書かせるのさ」 私はランボーの手紙をそんなふうに読みました。…乱暴かしら。 まだ難しい云い回しをしてしまっているかもしれません。 よろしければその時はまた、補足要求してくださると嬉しいな、と思います。 また長文になってしまって、ごめんね。
補足
ありがとうございます。なるべく解り易く教えて下さろうというお心使いに、心から感謝しています。又、教えて頂いていながら、嬉しいというお言葉や、的を射ているとおしゃっていただき、こちらこそありがとうございます。でも、ますます難しいです…鏡に映ったたくさんの自分、思ったとうりには映らない、たとえ鏡が曇っている、と抗議したくとも、仕方ないという事。でも自分の鏡、がアヤウイ…一人の人を鮮明に映せない時があります。全部合わせて…というのが、難しいです…。結局、人の事もわからない、という事で良いのでしょうか?それでは、理解し合う、という事はどういう事なのか…?又、私は、私、の思うように動かない、いきられない…では、私、を動かすのは何か…?ランボー氏は世界。…ここから先が解らない、というか進まず困り果てています。教えて頂ければ助かります。拙いことで恐縮ですが、よろしくお願い致します。
他人他人。自分とまったく同じ人間は存在しないと言っているのではないでしょうか。 人間一度は孤独を感じます。 孤独を感じるからこそ、人とかかわっていくとか。 自分と人の考えは違うということ、 考えの違う人間を疎外せず、認めること。 認められないということを認めること。 そういうことではないでしょうか。
お礼
お礼が遅くなってすみません。アドバイスありがとうございました。本当にそのとおりだなーと、思います…本当に人の考えは、わかりません…!?でも、一緒に考えてくださって、応えてくださった事をとても嬉しく思っています。感謝です!ありがとうございました!
- aoneko
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フランスの不良放蕩詩人、アルチュール・ランボーが、ポール・ドメニーとジョルジュ・イザンバールに宛てて書いた2通の「見者の手紙 lettres du voyant」(1871)にある一節の引用ですね。 ジャンルは「文学」ぽいのですが、「哲学」かな?とも思うし…幅広い社会科学全般を問うこのカテゴリでよろしいんじゃないかしらと思います。 だけどこのフレーズって、今も各界でいろんな解釈がされてて、とても難しいご質問。 ここでは私の個人的な解釈だけ紹介させてくださいな。 デカルトの『方法序説』(1637)という著作の中に、「我思う。ゆえに我あり(Cogito, ergo sum: je pense, donc je suis)」といった超有名な哲学フレーズがあって、そいつに対するランボーのアンチテーゼのようです。 どういう手紙だったかというと、「自分は詩人だ!」という宣言の中で、 「私は考える(ゆえに我あり)って言い方はまちがいだよ」 「他者が私を考える(ゆえに我あり)って云うべきだ」 「つまり『私』っていうのもひとつの『他者』なんですよ(Je est un autre.)」 ということを書いています。 ランボーの詩には一人称「私」がたくさん出てくるけれど、どれも客観的。まるでランボーが幻を見て、体験した情景をそのまんま書いた感じ。 言葉は悪いけれどジャンキーが書いたのか?みたいな難解さ・不可解さがあったりします。おかげでいろんな翻訳がされてます。 これも、「私」が詩を考えるのではなく、「世界」が「私」に詩を書かせる、という詩作のあらわれなのかしら。 「私」が私のものでないなら、制御のしようがないですもの。 これは文学畑の人間からのひとつの解釈なので、ご参考のひとつになれば幸いです。 哲学や社会学などにお詳しい方から、また違ったご回答が寄せられると思いますよ。
補足
回答ありがとうございました。何回も読ませていただきました。…難しいです…。一生懸命考えて…もう一度教えていただきたいのです。~自分からではなく、他者からみた私が、私、という意味で良いのでしょうか?そうすると、私を私と決めるのは、他者、という事でしょうか?それとも、~私が私の言動を決め、動かしていると思っているけれど、そうではなくて、実は、私という者は何かに動かされている他者である、という意味なのでしょうか? どちらにしても、私、の存在がアヤウイ気がします… 結局、私は、私の思っているとうりには人にうつらない?私が、私と思っているのは私ではない? 私は、私の思うように動かない、いきられない?
お礼
御礼が遅くなってしまいました。申し訳ありません。解り易い説明を頂きました。心からお礼申し上げます。「滅私」、「私」は器、なるほど!と思いました。そして、~「私」がどうしたっていうんだよ、あんたが自分の何を「私」と思い込んでいるのかは知らねーけど、俺にはぜんぜん興味ないね。「俺自身」についてはどうだって?同じことだよ、興味ねーな、他人事。~思わずニッコリ笑いました…スッキリしました。本当にわかりやすくストンという感じでした。つくってくださったのですね、ありがとうございます!まことに良回答を頂きました。大切に保存させて頂きます。もっと、文章をうまく使えるなら、もっと感謝の気持ちを伝えられるのに…残念です。どうか、画面に向ってペコンと頭を下げている姿をご想像ください…本当にありがとうございました!!