ふぉふぉふぉ・・・No.17,No19じゃ。
>スポーツにも上達のコツがあります。それを教えるのがコーチだったりしますよね。ただがむしゃらに筋トレなどの努力をすれば到達するわけではありません。教師も同じように英語を学ぶにあたって間違った道に進まないように軌道修正する役割を持っていると思います。その努力が無駄にならないように援助する必要があるのではないでしょうか?
おぬしが述べようとしていることはわかる。
学校で生徒が間違った努力をしないように軌道修正させることが必要じゃ。では、どのようなことを生徒に伝えていけばよいのか・・まず第一にそれは、No.16の者が述べたように
>聞くだけで英語が聞き取れるようになる!」とか「○○するだけで堪能になる」とか言う類の教材が売れていること、また、通うだけでぺらぺらになるようなCMを打つ英会話学校が流行ってることからも分かります。つまり、多くの人が楽して習熟できる方法を追い求めているのです。
ということを生徒に認識させることじゃ。
それが語学習得の第一歩につながる。
そして第二にそれを理解した生徒に「必死の努力をすれば必ず成果が現れる勉強方法を教える」ことが重要じゃ。
では、どのような勉強方法か・・・それは音読である。中学でもらった教科書の英文の単語を覚え、文構造を理解し、意味を把握した上で、その英文を繰り返し音読する。1つのChapterにつき約500回音読する。教科書付属のCDを何百回と聴く。この訓練によってその英文を自分のものにできる(internalization)
これが最も重要なことである。
じゃがこれは「コツ」ではなく「学ぶための方法」すなわち「努力をしてでも英語を話せるようになりたい者への方法」じゃ。なぜなら語学習得の王道であるこの方法で学ぶにしても本人の相当の努力が必要とされるからである。
そしてこの音読練習は学校ではなく生徒各自が家で行う必要がある。学校では単語、文法、構文を理解させるのに手一杯で音読に使う時間を確保することは難しい。だからといって文法、構文の理解をおろそかにしては本末転倒になる。
先ほど「大車輪」の例をだしたんじゃが今度は「野球」の例で考えてみようかのう・・
ワシはおぬしから『コツ』という言葉がでることはあらかじめ予想しておった。この『コツ』という言葉が日本人の英語の上達を妨げる「罠」である。
『外国語を習得する』というのは『野球を始めたばかりの初心者がプロのピッチャーの投げる140キロのボールからホームランを打てるようになること』と同じである。ここで注意してほしいことは「初心者」ということじゃ。英語でも高校の授業の進行にただついていき、普通に勉強して卒業しただけでは「初心者」の能力しか身についておらん。
ヤンキースの松井に
「野球をはじめて間もないですが、将来ホームランを打てるようになるためにどのような方法で練習すればよいですか?」
と尋ねれば、松井は具体的にその方法を教えてくれるじゃろう。
じゃが、松井に
「野球をはじめて間もないですが、ホームランを打てるようになるコツを教えてください」
などと言えば、松井は「練習してください」
としか言えないじゃろう。
ちょっと練習すればバットにボールを当てることぐらいはできるようになる。じゃがホームランを打てるようになるには相当な訓練をつまなければならないはずじゃ。そのためには素振りを何回、何十回、何百回、何千回としなければならない。初めのうちはバットを振っても音ひとつでないが、素振りを繰り返しているうちに段々と風を切る音がしてくる。すなわちただ単にバットを振る、といってもその完成度は人によってとんでもなく違うわけじゃ。
素振りで、なんにも音がでない段階なのに、何かコツのようなものを教えてもらえばプロのピッチャーの投げる140キロのボールが打てるはずだ、と無邪気にも信じている。そのようなことがありえないのは、野球を経験したことがある者なら誰でも知っておる。ただ、余りにも馬鹿らしいために、口に出さないだけじゃ。
>また興味があって夢中で英語の本を読んで知らず知らずにレベルがあがることはあると思います。それを努力だけとおっしゃるのですか?だとすればあなたのいう努力という言葉は相当の守備範囲を持っているのですね。
この文を読んで思ったんじゃが、おぬしが言う「レベルがあがる」とは一体「何がどのようにどの程度にまでレベルが上がること」なんじゃ?
「興味があって夢中で英語の本を読んで・・」という文意から判断して意識的な訓練を行うわけではない、ということじゃろうな。となれば当然のことながら「英会話として使える能力」に関してはその程度で飛躍などあり得ない、と言えるじゃろう。また大学入試の長文もその程度の訓練ではとてもじゃないが太刀打ちできんじゃろう。おぬしは大学受験をしたことあるかのう?大学受験において長文読解能力がかなりのレベルに達している者に聞いてみるがよい。
帰国子女などを除き「意識的な訓練」をしないでそのレベルに達したものは誰一人としておらんはずじゃ。
すなわち、おぬしが言う「興味があって夢中で英語の本を読んで・・」とは極端に言えば『努力』とは程遠い『遊び』となるわけじゃ。
No.14の者も述べておるじゃろう。
>でもそれは、受験前に物理の参考書読み込むより、ぜんじろうの「面白科学実験」見た方が楽しいのと同じです。ですが、残念ながら毎回毎回実験・観察では大学教育の下地作りには間に会わなくなってしまうのです。火山や火成岩、砂岩の観察に毎回遠足は出来ませんよね。
まさにその通りである。
おぬしは『毎日ただ鉄棒にぶら下がるという「努力」』と表現しているが、そんなものは「努力」ではなく「遊び」である。この2つの違いを認識してもらいたいものじゃ。
お礼
大変丁寧な説明ありがとうございます。 野球の例はとてもわかりやすく、その通りだと思いました。また必死の努力をすれば必ず成果が現れる勉強方法を教えることはとても大事だと私も思いました。 また語学は楽器の習得にも似ているなと思いました。 毎日基礎練習をし、徐々に弾ける曲が増えていく。努力がなすことですよね。 音読は自分もしています。音読がとても大事だと身にしみたからです。 また、現在カナダの大学でESLの教授法を学んでいますが、それは日本のものとはかけ離れたものです。きっとそれはカナダという英語の環境があるのと、日本という日本語の環境があるという違いですね。 大学受験は受けました。 今の受験の長文問題などの質の高さはわかっています。またそのころかなりの努力をしました。単語や構文を覚えたりと。いま思い返せば英語の習得のためにかなり努力をしていたと思います。 努力がかなりのウェイトを占めるという事実を認めます。ぼくの考えていたコツとはある程度努力を重ねたひとにしか当てはまらないものだったのかもしれません。 わかりやすい説明ありがとうございました。あと、あのおもしろい話かたのおかげで表現が和らぎ落ち着いて読むことができました。 ご配慮ありがとうございます。