こんにちわ
実は私、学生時代にまったく同じ疑問から、床の間と茶室の起原と変遷についてを
卒論のテーマにしたものです…
#2のかたが
「家として使用している建物の斎を表す場所が床の間です。またそのような精神」
とご説明くださっていますね!
でも、そもそもどうしてこんな狭い空間が特別大事な空間なのか、単純素朴に不思議
ですよね?
実は、床の間、という空間が発生したのは室町時代のことなんですが、
「だったら結局禅宗と千利休の発明でしょ」とおもわれがちなのが落とし穴です。
実は床の間の起原は、こころの高みやわびさびの精神よりも、もうちょっと権力主義的
なところにありました…
(というと、違う学説の方から袋だたきになるかもしれませんが、私はこの説に非常に
説得力を感じて人生の大きな謎が解けてすっきりした思い出がありますのでご紹介しま
す)
千利休が登場する以前から、「書院造り」の建物がこの時代の主流でした。
書院はその名の通り、書を読むための明かり取りと文机があるコーナーのことですが、
この書斎(書院)と同時に、書院造りにはあと二つ、床の間の成立に直結する特徴が
ありました。
ひとつは、「上段」(じょうだん、とそのまま読みます)といって、エライお方が
鎮座まします、二畳ぐらいから広いものでは六畳ほどもある、「一段高いお座敷」
です。
このエライお方のまします「上段」に付属品として取り付けられるようになったのが
床の間のはじまりになっています。
つまり、エライ人の背景を飾る意味での舞台装置の一種と考えられますので、色々、
さらにエライ威厳を増すようなお飾りをするようになる訳です。
このお飾りの儀式を定めたのが、能阿弥と相阿弥コンビによる「君台観左右帳記」
(くんたいかんそうちょうき)という日本最初のインテリアしきたり教本です。
戦国時代が激化すると、豊臣秀吉はキンキラキンの黄金茶室を作ったりしますが
千利休とその弟子達は、どんどん小型化したわびさびの「草庵」を追求するように
なり、とうとう床の間のサイズも「壁床」という壁だけの床の間(面積はゼロです
ので、掛け軸だけしか飾れません…)まで過激にわびさびをマニアックに追求する
ことになってしまいました。
>床の間って一体何の為にあるのでしょう?
という当初の問には、最初の存在理由は「エライ人の学問的知識や金銭的に豊かな珍しいもの
由緒正しい宝物などを飾って、偉さをショーアップするため」にあったのですが、ほどなく
利休たちのわびさび精神が主流となって、豪華なものを飾るのではなく、簡素なもので心を
洗い浄めるための空間(だから面積ゼロの壁床まで行き着いた訳ですね)、と過激に追求され
て、平和な江戸時代に入ると、また両者のよいところを混ぜ合わせて綺麗に美しくお部屋の
表情をキメルためのスペースとなっていき、これが平成の現在まで受け継がれています。
#3さんの
>床の間に飾る為に掛け軸が出来たとは違うようです。
については、私が学んだ限りにおいては、禅宗が茶の湯の精神的な源になっている
ことは多くの皆さんがご存じのことですが、なら禅宗の精神って一体なんだ?と深く
考えると一生かかる精神的な問題になってしまうので私も大変困りました。
従って私も「禅の奥義」はまるで知らないまま建築学的な歴史面だけを調べた状態です
が、「禅のこころは偶像崇拝を否定する」というところから来ているようです。
つまり、本来なら仏像を置きたいところですが、仏像は偶像ですから、ほんとうは
木彫りにすぎない仏像を拝むのは真の理解にならない、という考えです。
そこで、本当に生きていた人間である和尚さんが自筆で書いてくれた掛け軸や、
和尚さんの死後、愛用していた袈裟を弟子達がちぎって分けて、崇拝した、という
ことを「禅の実践」として教わりました。
茶室の床の間で飾る掛け軸については、この考えにもとづいている訳ですが、中国
の掛け軸は多分もっと古い時代からあったはずだろうと思いますので、これはもっと
詳しい方から補足してもらえると私も嬉しいです。
(でも中国の豪華絢爛な虎が吠えているような掛け軸では利休さんは草葉の陰でお
怒りになることになりそうですね^^;…)
お礼
すばらしい!!! 同じ疑問で論文を書いてします回答者様を尊敬してしまいます。 そこまで知ろうとすることが素晴らしいですね。 私も、回答者様の説明を読み、大変興味を持ちました。 床の間に歴史と文化ありですね。 本当にありがとうございました。