少し、確かにそうだという確信がないので、「自信なし」とします。しかし、確か、こういう意味・起源のはずです。
つまり、魚の「新鮮度」は、よほど腐ってしまったものは一目瞭然ですが、死んでから数時間ぐらいだと、なかなか外見から分からないというのがあります。いまなら冷凍保存がありますし、昔なら、水を頻繁にかけていると、結構、見かけは新鮮に見えます。昔の魚屋では、時々商品の魚に水をかけていたはずです。乾燥する以外に、鮮度を維持するためです。
しかし、詳しい人が見ると、魚の鮮度は、すぐ分かるので、素人でも分かるのは、「魚の目」を見ることです。取れたてのぴちぴちした魚の目は、透明で、澄んでいて光があり、色も鮮明で、生き生きしています。しかし、水揚げすると、まだ生きていても、目の光が段々なくなってきます。生け簀にいれておいても、段々、目の新鮮さが落ちて来ます。
まして、魚が死んでしまうと、目の部分は、どんどん濁って行き、輝きが消えて行きます。未だ、身体を見ると、新鮮な魚に見えても、魚の目を見ると、人間の目の瞳孔が、死亡すると開いてしまうのと似て、蛋白の分解や、溶融や、筋肉の弛緩などで、濁って、解け始め、色も鈍くなり、新鮮さがなくなります。魚の鮮度は、「魚の目」を見るとよく分かったということです。
「腐った魚のような目」というのは、「腐った魚の目のような目」の略だと思います。また「腐った」は強調表現で、「死んだ魚の目のような目」ということで、「とろんとして、生気がなく、濁った目」を悪く言う時の形容・比喩表現でしょう。「腐った」というのは、腐敗の腐ったという以外に、「新鮮さがない、清廉でない、真摯でない、劣っている」というような意味に転用されます。
「腐った役人」というのは、別に役人の身体が腐っているのではなく、役人が不正をしたりして、「清廉でない、劣っている」という意味です。
実際に友人が、「とろんてして、濁った目」をしていたのでそう言われたのか、挙措が、何となくのろく思えて、「死んだ魚みたいなやつだ」と悪意的に受け止められたのか、どういう事情か分かりませんが、相手は、「悪く言いたかった」のでしょうし、そういう「印象を持った」のでしょう。
「目つき」が気に入らなかったかも知れませんし、挙措や服装が気に入らなかったのかも知れません。言った当人に確認でもしないと分かりません。「目」のことを言っていますから、「視線」が気にいらなかった可能性が高いです。「何、人のこと、じろじろ見ているのだ」という意味かも知れません。
それを、悪口雑言的・文学的・古い文化表現的に言うと、「腐った魚のような目をしやがって!」となるのでしょう。
言った人の感情状態や、心の状態があって、何でもないことを、大きく言う場合もあります。自分か誰かについて腹を立てていた時、たまたま友人と出会うと、視線が気に入らないとか、何か思い出すことがあり、腹を立てて(友人に対してではなく)、そういう悪態的な言葉を言った可能性が高いです。
他人に、「腐った魚のような目をしやがって!」などと言っていると、普通喧嘩になります。喧嘩ぱやい人だったか、別のことで、むしゃくしゃしていたか何かだと思います。
お礼
詳しい回答を頂き、ありがとうございます。大変参考になりました。つまり、見ず知らずの人間に言われるような言葉ではないということですね。言った本人の機嫌が悪かっただけとすれば、それを友人にぶつけた言動は、言語道断だと改めて思いました。