- ベストアンサー
水俣病について
講義で水俣病について討論することになったのですが、被害拡大の原因として市または国の対応が遅れたことがいえると思うのですがその理由としては何だったといえるのでしょうか?工場排水の垂れ流しを容認?してたみたいなんですけど。その当時の社会的背景など詳しく分かることがありましたら教えてください。また、参考ホームページ等ありましたら教えてください。
- みんなの回答 (4)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
水俣病の歴史は極めて複雑怪奇です。 それは、当時の「高度経済成長」の中で、日本の企業のあり方や政府の政策が全て産業優先に行われていた事にあります。 (1)チッソ株式会社(旧社名:新日本窒素株式会社)は、一貫して「安全対策」には見向きもして来ませんでした。労働災害も数多く、一方で労働の対価を如何に安くするか、新日窒労働組合(第一組合)と対立して来た歴史があります。「安定賃金闘争」を契機に、“第二組合”として会社側の肝いりで、「チッソ労働組合」が作られたのを見てもその体質、安全思想の欠如が伺われます。社員の中に“大学出”と“現地採用組=ボーイさん”の差別の助長なども忘れてはいけない事柄です。 (2)水俣病の原因物質は有機水銀(メチル水銀)です。プラスチックの可塑剤として用いる「アセトアルデヒド」生産時に触媒として使われました。 熊本大学医学部の医師たちの研究によって特定されますが、会社は一切研究に協力しないばかりか、通産省、化学工業会などと結託して“御用学者”を動員、噴飯物の諸説を披瀝するなど妨害を行っています。 (3)行政の無責任さも酷いものでした。前述通産省の態度もそうなら、厚生省、熊本県、水俣市など発見初期段階での対応もさることながら、現在に至るも被害の実態が不知火海(八代海)レベルで把握出来ていない事からも分かります。 (4)発生当時、原因不明なため「奇病」と呼ばれ、また伝染性疾患が疑われました。また、市中心部から離れた漁師部落に多く発生したため「腐った魚を食べた」等の誤解が市民に蔓延し、その結果市民感情は引き裂かれ、その後の「差別」問題へと進行する結果となりました。 (5)発生当初の病像は酷烈なもので、文字通りベッドの上で“のたうち回り”、“激しい痙攣”を伴い、生き地獄状態でした。かつて英国で発生した工場労働者の有機水銀中毒の病像に一致し、初期の原因究明には役立ったものの、一方ではその後の「水俣病像」を歪める一因にもなったのです。 (6)以上のような水俣病発生環境の他に、注目すべきは水俣市に於ける「チッソ」の位置です。企業城下町と言われるごとく、「チッソ」の天下であり従業員1万5千人の家族、親戚関係は何らかの関係で「チッソ」に繋がる仕事に従事していました。結果としては、「会社」の存立を第一義に考え、患者さんたちを差別していく世評が市内に形成されていったのです。 (7)行政の施策の中で注目すべきは、水俣病申請時の「本人申請主義」です。チッソに“盾突く輩”など批判され、認定に伴う「補償金」に関して“金の亡者”と呼ばれることを怖れ「泣き寝入り」を余儀なくされた人びとが多かったのです。また、(3)で述べましたが、この大事件に関し総合的な「疫学調査」つまり事件被害の実態は未だに調査されていません。 以上とりあえず諸々書きましたが、まだまだ実態には程遠く実情を報告出来ていません。 参考URLにて、さらなるご認識の深まりを期待します。
その他の回答 (3)
- SaySei
- ベストアンサー率32% (528/1642)
先日、テレビで水俣病の特集をしているのを見ましたが、そこでは背景に「高度経済成長の真っ只中だったことも関係ある」みたいなことをおっしゃっていました。 同じような話しを探していて見つけたものですが、参考になると思います。(参考文献なども。) http://blog.drecom.jp/tactac/archive/569 戦後の貧しい日本からようやく脱却できそうな時期でしたから、国としても出来る限り経済的にマイナスになることはしたくなかったという気持ちもわかりますけどね…。
- oka123
- ベストアンサー率31% (69/219)
昭和45年頃になって 工場排水を外部に流させない法規制ができて それ以降は工場内で浄化するようになりましたが それ以前は、あらゆる排水が垂れ流し状況でした 国が経済成長優先で企業に対して強い態度を とらなかったという傾向もあるでしょうが、 当時の技術では水俣病の原因が なんであるのかわかるのに時間がかかつたという 側面もあったと思います いろんな理由のもとで、対応が遅れたのでしょう
- aoiyu
- ベストアンサー率34% (200/585)
下記URLですが、 内容はご自分で判断して取捨選択して下さい。