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小学生のピーマン嫌い、算数きらい、掃除当番きらい、何が同じで何が違う?
先月、このカテで、「泣き叫んでいやがる小学生に、きらいな食べ物を無理に食べさせることの是非」みたいな質問がありました。(URLはあえて書きません) 私は、はじめそれを読んだとき、「無理に食べさせなくてもいいじゃん」と簡単に考えたのですが、その後気持ちがゆれています。 「いやがることを無理にやらせない」のなら、「算数がきらい」という子供にはどうするのか? 「掃除当番がいや」という子供にはどうするのか? ピーマンも算数も掃除当番も、泣けば免除するのか? わめけばその言い分が通るのか? それぞれの「嫌い」に対して、同じ対処でいいのか、対処を変えるべきか? 具体的にどう対処すべきか? このあたりのことについて、私は自分の意見がまとまらないのですが、みなさまのお考えをおきかせいただければ幸いです。 (話をむやみに広げすぎないため、食物アレルギーのことは、ひとまず棚上げしてください)
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わたしの意見としては 食べ物の好き嫌い:無理には食べさせない 科目の好き嫌い:無理にはやらせない さまざまな義務の好き嫌い:無理にでもやらせる 食べ物の好き嫌いと科目の好き嫌いは「好き嫌いはあれど、本人のため」的なとこで、だいたい同じ質のものではないでしょうか? 掃除は義務、すなわち社会のルールです。 みんなが協力して掃除をするからきれいな教室で勉強ができます。 掃除には参加しないけどきれいな教室で勉強したい、では筋が通りません。 といったところでしょうか… 質問内容とずれてたらすみません。
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- polarity123
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今は学生という立場の子ども達も、いつかは社会に出るときが来ますね。 その時のことを考えてみましょう。 食べ物の好き嫌いは、いつかは本人の責任になります。 大人になれば「食べなさい」なんて言ってくる人はいなくなります。 偏食で、不健康になるのは自分自身。 人と食事をすることになった時に困るのも、自分。 社会に与える不利益は、 ・食事を準備してくれる人に迷惑をかける(せっかく料理してあげても食べてもらえない) ・国民の健康状態を調べるための調査でもされた場合、悪い方へ水準を下げてしまう ぐらいでしょうか。 2番目なんかは、あまり直接的な不利益ではありませんね。 対して、子ども達が勉強嫌いを克服しない場合の社会への不利益はかなり大きいものだと思います。 努力の末に実る勉強が、「したくなければしなくてよい」なら、勉強しない子が圧倒的に増えるでしょう。 全国的な学力低下をまねきます。 掃除嫌いもそうですね。 物事の後始末は、「誰か」がやるものと考える人ばかりになったら社会はどうなるでしょうか。 食べ物の好き嫌いと、掃除・勉強の好き嫌いは、本人と社会に関わる不利益の大きさが違うと思います。 食べ物の好き嫌いは、そのうち自分の責任になる。 勉強・掃除嫌いは、その子の将来、社会に多大な悪影響をおよぼす、ということではないでしょうか。 ちなみに私は算数が大嫌いでしたが、社会に出て役に立ったのは、暗算などの数字に関する能力でした。 勉強(とくに義務教育)は我慢してでもするものと、社会にでてから気付きました。
お礼
再度のご回答ありがとうございます。 なるほど、お考えはよくわかりました。 ここで興味深いのは、9=10さんは ピーマン VS 算数・掃除 という分け方をし、5さんは ピーマン・算数 VS 掃除 と分けておられることですね。お2人とも「本人/個別」と「社会的」という視点は共通しているように私には見えるのですが…… いずれにせよ、お2人の主張それぞれに説得力を感じるので、私自身はまだ迷っています。すみません。
- polarity123
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まず、食べ物の好き嫌いの「嫌い」と、掃除・勉強の「嫌い」は種類が違うと思います。 掃除・勉強は努力を積み重ねて達成されるべきもので、基本的に「辛い」ものですよね。 「嫌いな人はやらなくてよい」では、世の中成り立ちません。 我慢して続けることを覚えなければいけません。 対して、食べ物の好き嫌いは、無理強いという意味の努力では治せないものだと思います。 無理に口に詰め込んでも、吐き気しか感じないわけですから。 食べ物の好き嫌いは、努力を怠ってるというよりは、もっと個人の体質や感覚の違いから派生しているものだと思います。 どうしても体が受け付けない食べ物を、誰かが無理強いしたところで、トラウマになって好き嫌いを悪化させるだけです。 ここがポイントではないでしょうか。 子どもに好き嫌いを克服させたいなら、教室のような人前ではなく、自宅のようなリラックスできる場所で、リラックスできる相手(親など)によって、再挑戦してもらえばいいと思います。 「このピーマンは、特別新鮮だし、あなたの大好きなカレーに入ってるんだから、一口食べてごらん」 みたいな感じで。
お礼
ご回答ありがとうございます。 ご回答に対する「反論」ではなくて「感想」ですが…… 「食べ物の好き嫌いは生理的なもの」という主旨のご意見ですよね。 算数・数学に対しても「xやyには生理的嫌悪感をおぼえる」とか「sin,cosを見るとアレルギーが起きる」とかいうかたがよくいらっしゃいます。もちろん、言葉のアヤもあり、“文学的表現”もあるのでしょう。が、そういう人たちにとっては「ピーマン嫌いも算数嫌いも同じ質・レベルのもの」のようにも感じます。ようするに「ピーマンも算数も体が受け付けない」ということなのでは。
これって質問してるんですよね? 回答者に対しての返答をみてると、どうも自分の中ですでに答えがでていて、単にそれを主張しているだけのように伺えますが。 >みなさまのお考えをおきかせいただければ幸いです と言っておきながら、自分と違う意見の人にはしっかり反論してるし、 教えてgoo ではなくて、共感してgooってページがあったよかったのにね。
お礼
アドバイスありがとうございます。 私は、どうするのがいいか、ほんとうに分からないしほんとうに迷ってます。共感を求めているつもりはないし、求めている事実もありません。
- domaine-espoir
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こんにちは。 それは押し付けなんじゃないか?と感じるやり方が、 まずいのではないかなとおもいます。 好きになるチャンスというか好きになり得る道しるべを、 その児童の感覚に合わせて、 先生なり親なり、成人のひとたちが 提供するのはよいことだとおもいます。 それをしないで(飛び越えて)、 こうなんだと指し示すことのみだと、 嫌いだという感情なり価値観に新しい見方を提供できないと思います。 すごく難しいことだとおもいますが、 それは大人だからできる(=知恵を出せる、腕の見せ所)だとおもいます。
お礼
ご回答ありがとうございます。 私の読解力が足りないのか、ご回答の主旨が不明なのですが、 「ピーマン、算数、掃除当番……どれも、好きになるまでは免除する」 「その意味で、ピーマン、算数、掃除当番……などにちがいはない」 という意味でしょうか。
>「掃除には参加しないから教室は汚くてもかまわない」 私だったら、「教室は、あなた一人のものではないので、自分が汚くても良いといって汚くしておけるものではない」と言いますかね。 たとえば、「清掃には関与しないから道路に空き缶やたばこを捨てても良い」「掃除には参加しないから、自分の家のトイレやお風呂が汚くても良い」ということにはならないでしょう。それと、同じだとおもうのですが。 教室も共同で利用するものですから、自分だけが汚くても良いから掃除しないというわけにはいかないでしょう。
お礼
たびたびご回答ありがとうございます。 もともとが、「なまいきなこどもの屁理屈」なので、きちんと反論?をいただくと恐縮なのですが、いずれにせよ、「道路をつくらなくていいから、税金は払わない」みたいな論法ですよね。
>ピーマン 無理には食べさせない 算数 無理にでもやらせる 掃除当番 無理にでもやらせる 掃除当番は、義務だと思います。嫌だからといって、「○○ちゃん、お掃除当番代わって」と言って、認められるものでもないと思うんですけど。 算数は、本人のためにはやらせた方が良いと思います。私も、泣いてまぬがれるなら、体育とか美術とかやりたくなかったんですけど、そうもいきませんでした。 ピーマンは、努力目標といったところだと思います。ピーマンを食べられなくても、かわりの食材はあると思います。 私は、臓器物が苦手です。
お礼
再度のご回答ありがとうございます。 算数と掃除当番は、「結論は同じだが理由が異なる」というところでしょうか。そういえば >私も、泣いてまぬがれるなら、体育とか美術とかやりたくなかった 同感です。私も、科目はちがいますが、同じ思いをしてました。
- NannoFlower
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ピーマン:好き嫌いは大人でもあるし、ピーマン程度なら大人になれば食べられるようになるでしょう。 算数:小学生のうちに基礎を身に付けないと、その後一生数学ができなくなってしまいます。 それでは教育の意味がありませんし、困るのは自分自身です。 掃除当番:社会性を身に付けるために必要です。 それが掃除でなくとも、ルール、義務を果たすことを教えているわけですから。 きれいにするためだけに掃除させている訳ではありません。 私はイカの塩辛が嫌い。
お礼
ご回答ありがとうございます。 まあ、ピーマンは一例として出しただけで、真意は、「食べ物の好き嫌い」と「科目の好き嫌い」「さまざまな義務の好き嫌い」はどうちがうか? ということなのですが、質問文がよくなかったようです。申し訳ありません。
いやがり方の度合いによって、私なら判断を変えます。 質問内容では、泣き叫んでいやがる子供にピーマンと食べさせる。と 算数が嫌い、が同レベルで比較されていますが、 拒否のランクが少々違うような気がします。 掃除でも数学でも、泣き叫ぶぐらい拒否されれば、無理にはさせませんね。 ピーマンがあまり好きではないけど、泣くほどではない。 算数はつらいけど、泣くほどではない。 掃除が嫌いだけど泣くほどではない。 同ランクの比較ならこんな感じでしょうか? どれも必要なものなので、多少の我慢はさせます。しかし、拒否の度合いが強いと、無理強いせずに、じっくりと対策を練っていくとおもいます。 私の意見をまとめると、 例に出ている三つは同じ扱いです。 ただ、拒否の仕方をランク分けして、そのランクに合わせて対応する。とう言うことになりますね。
お礼
ご回答ありがとうございます。 質問した私がいうのも変ですが、この3つは「レベルのちがい」というより「質のちがい」ではないかと思います。質の異なるものをいっしょくたにするのが、このアンケートの面白いところだと自分では思っています。 それはともかく「拒否の仕方をランク分けして、そのランクに合わせて対応する」というお考えはよくわかりました。
食べ物については、貴重な生命の命を無駄にしないためと、他所で食事をするときに、作ってくれた方に感謝する意も込めて、何でも食べるようにさせた方が良いと思います。でも、苦手なものは、同じ料理方法で作っても嫌いは嫌いとなってしまうので、調理方法に工夫は要りますよね。それで食べられたら、「実はピーマンっておいしいんだ」という経験にもなりますし。 「科目がきらい」については、誰だって好き好んで勉強しているわけではないので、自分の夢を実現しやすくするために、辛いことや嫌いなことでもやらなければならないといったとこでしょうか。 「掃除当番がいや」については、社会生活のルールですから、大人になったって嫌なことでもやらなければいけないし、ルールはルールで守る必要があるという感じですかね。
お礼
さっそくのご回答ありがとうございます。 私の聞き方が悪かったのですが、ご回答の主旨、というか結論は ピーマン 無理には食べさせない 算数 無理にでもやらせる 掃除当番 無理にでもやらせる ということでよろしいでしょうか。 もしそうなら、「ピーマンと算数・掃除当番は何がちがうのか」をお教えいただければ幸いです。
お礼
ご回答ありがとうございます。 「好き嫌いはあれど、本人のため」というのは、説得力を感じました。 あと、これは、なまいきな小学生が言いそうな屁理屈なのですが >掃除には参加しないけどきれいな教室で勉強したい ではなく、 「掃除には参加しないから教室は汚くてもかまわない」 と居直られると、論理的には対応がむずかしいかも。