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最近の小説は純文学よりえらいか
僕は純文学が好きで色々読んできました。先日友達と話していたら、「純文学は難解なだけで読むだけ無駄だと思うけどな。最近の小説の方が面白いし偉いと思うよ。」と言われ、ちょっとショックを受けました。どういう基準でえらいと言っているのか分かりませんが、純文学を読むのは無意味なことでしょうか??
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1冊の本との出会いが人生を変えることもあります。本を読むことは無意味ではありません。 ただ難解なだけの物が何百年、何千年と受け継がれるでしょうか。純文学を含めいわゆる芸術作品は「良いもの」だからこそこの世に存在しているのだと思います。 大衆小説や流行歌も無意味ではありませんし、世界中に味わい尽くせないほどの芸術があります。気にせずどんどんいろんな物に触れましょう。
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- zephyrus
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少なくとも、日本における純文学とは、文学(特に十九世紀に西欧で圧倒的優位となった小説という形式)に入れあげ、文学に殉じようとする小説書きと、その熱烈な支持者もしくは小説家予備軍、またそれらの仲立ちをする文芸評論家によって形成された文壇というサークル内の出来事だったと私なりに認識しております。 そこでは西欧の文学的成果がいち早く取り入れられ、実験的な、あるいは奇妙に日本的に変質した小説が、作家の身を賭して発表されました。 生活の糧を得るために書くのではない、芸術を創造しているのだという矜持が彼らの心の支えでした。 けれども、ミューズの女神は気まぐれで、そうした彼らにめったに微笑まず、また微笑んだ次の瞬間にはそっぽを向いているという風で、かくして残った数少ない作品が日本近代の古典となっています。 一般読者向けに新聞小説を書いた夏目漱石や、他に本職を持ち断続的に作品を発表した森鴎外が文壇の中心にいた人たちではないということがこれで判ります。 文壇は明治の自然主義文学の隆盛期に形成され、紆余曲折を経たのち、昭和50年代にはすっかり消滅したのではないかと思われますが、まとまった論文を読んだわけではなく、ここは私の憶測です。 今一般に言われる純文学、純文学系とは「職業として生活の糧を得る」のを主目的とするのではない、芸術的志向を強く持つもの、くらいの意味でしょうか。 こういう流れとは別に、最初から一般大衆向けに書かれた一時の気晴らし以上の目的を持たなかった小説の中にも、後世に読んでもちっとも古くない、優れた作品が残されたことも言うを待ちません。 中間小説、なんていうのもありました。純とそうでないものとの中間という意味合いでしょう。 すぐれた小説というものはどんなものか。たぶん、いつの時代にも通じる永遠のテーマが鳴り響いている(これによって共感が持ちえます)、また極めて現代的であること(現在の小説が一番これにふさわしいはず。また古い作品であっても現代最先端の問題がすでに提示してあるもの。われわれはこれに結構驚きます)。文章ないしは書かれてある内容が魅力的であるもの(主人公や脇役のユニークさを含む)。こんなものからできているのでしょう。 どれが残りどれが残らないか、それは誰にもわからない。 現在おびただしく発表されている小説は商品みたいなもの。商業ベースに嵌らない小説はいかに優れたものを内在していようと人の目に触れなければ無意味であるという考え。売れるものはとにかく偉い、という捉え方です。これはこれで一つの価値観。 最近、ネット販売の隆盛に伴って、さっぱり売れない、したがって書店に置かれることのなかった作品が巨大な恐竜のロング・テール(長い長い細い細いシッポ)として見直され始めているという新たな動向もあるようです。 純文学が偉いか、そうでないものの方が優れているか、読むだけ無駄か、どちらがより面白いか、そうしたことは一概に言えないことだし、読者のがわの嗜好の違い、個人差があって、結局一つ一つの作品で判断するしかないのではないでしょうか。 現在の価値観など、数十年先には変っています。時代に即すか、時代に煩わされずに超然と過ごすか、はたまたその両方を使い分けるか、これもまた人それぞれというほかありません。
- Mercurius
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こんにちは~ 本を読むコトの意味を考えるのなら、結局は読んだ後に満足できたかどうかってコトなんじゃないかな? だから読書という行為に何を求めるか(何をもって満足とするか)の違いが、sumさんと友人の間の意見の違いを生み出しているわけで 流行の映画を観たり、萌え~なアニメを観たり、そういったポップな感覚でライトノベルを読んでる人に純文学の良さは理解しにくいだろうしなぁ
「純文学」と呼ばれている文芸作品の中には当時の流行小説である場合が比較的多いです。 純文学と呼ばれる内容は.長い年月をかけて淘汰されて残った文芸作品です。 人の趣向は時代と友に変化します。その中で残っているから「良い作品」であるわけです。 そして「おそらく後しばらくはこの文芸が生き残っているであろう」から.将来に影響するかもしれないわけです。 無意味ではないでしょう。 現代文芸を読むときに.この文芸がいつまでも読みつづけられるかどうか判断できる.あるいは.この文芸が近い将来消えてもかまわないのであれば.現代文芸も価値があります。 娯楽を主体とする内容であれば.現代文芸もそれなりの価値があります。しかし.将来にわたって.読者に何かしら可の内容が残っているかは未知です。
どちらが偉いとかないと思いますよ。 音楽で言えば「クラシックとポップスどっちが偉い」といわれても回答不能です。 純文学には純文学の面白さが、大衆小説には大衆小説の面白さがあります。 どちらがどうとかは無意味な比較です。