疑問に思われている点は必ずしも的外れではないと思います。ただ、単純に「法の下の平等」の問題というよりは、「罪刑法定主義」がメインでそれに絡んで「法の下の平等」とも少し関係があるという感じでしょうか。
罪刑法定主義の下では、犯罪とそれに対応する刑罰とはあらかじめ法律で定められていなければならず、それに基づかずに裁判官等の官吏が恣意的に決定することは許されません。「被害者の感情」や「遺族が納得しているかどうか」を基準にしてもし同じ犯罪を犯してもある人は死刑になりある人は罰金で済んだ、なんてことがあったらそれは大変です。もちろんこんなことは許されていません。
整理すると、
・犯罪構成要件および刑罰(a) と それ以外(b)
・固定されていて動かせないもの(甲) と
ある程度柔軟に運用することの許されているもの(乙)
とがあります。
(a-甲)の例として、法定刑(法律に定められている刑)があります。ある犯罪を犯した者に対して予め法律に定められて種類の刑罰を許された範囲内で宣告することのみが許され、その制限を裁判官が越えることはできません。
(a-乙)の例としては、宣告刑(実際に宣告される刑)があります。たとえば法律がある犯罪に対して3年以上の有期懲役刑を法定刑として規定している場合、3年から15年の間のどの期間の懲役刑を言い渡すかは裁判官の裁量に任されています。これは法律自身が認めている裁量で、その裁量の範囲も明確なので罪刑法定主義に反しません。むろん実際には完全な裁量ではなく、今までの判例に実質的には拘束され、そんなとっぴょうしもない刑が言い渡されることはありません。
(b-甲)の例としては、公訴時効があります。これは罪刑にかかわることではありませんが予め法定されており、この制限を破ることはできません。したがってどんなに憎い犯罪者でも時効が過ぎれば裁判にかけることはできず諦めるしかありません。
(b-乙)の例として、今問題になっている、起訴するかどうかの判断などがあります。犯罪が起こったことを検察が知ったときにそれを実際に裁判にかけるかどうかの判断は、ある程度検察官の裁量でできることになっています(刑事訴訟法248条)。これも法律自身が認めている裁量権であり、罪刑法定主義や法の下の平等に反することはありません。これにより、たとえばよく言い聞かせて注意すれば足りるというような軽微な犯罪は不起訴として処分し無駄な裁判を省くことができます。
逮捕についてもそれが捜査機関の裁量でするかしないかの判断をすることが許されるように法律で規定されています(刑事訴訟法199条)。
以上、罪刑法定主義・法の下の平等といえども例外があることがお分かりいただけますでしょうか?逮捕・起訴の判断はもともと裁量権つきだということです。その際に被疑者がどういう犯罪を犯し、どういう態度をとり、自分の犯した罪に対してどのような考えを持っているのか等の、いわゆる情状を観察してそれに相応した処分をすることには何の問題もなく、むしろこれは実務上必要な融通性といえます。
ただしもう一歩突っ込んで言うと、前の方も少し触れられてますが、そもそも犯罪に対する刑罰とはなんぞや?という問題があるわけです。
古典的には、刑罰とは犯罪という無価値な行為に対する応報(報い)であると考えられていました。したがってこの古典的な考え方に立てば、犯罪の価値(マイナスの価値)はそれを実行したときにもう決定されてしまい、その後どのような情状があろうがそれは変動したりしない、ということになります。質問者の方が直感的に感じていらっしゃるものはこれに近いのではないですか?
ただ、現在の刑法はこのような古典的な犯罪・刑罰観に立っていないのです(含まれてはいますが)。近代的な議論では、刑罰とは社会的に犯罪を予防するための手段だと考えます。つまり、悪いことをしたぶんだけ痛い目にあわせる、というのではなく、社会的にどの程度抑圧すべき程度が高い犯罪なのか、そして行為者は今後更正する見込みがあり、社会復帰したときの社会にとっての危険性はどうなのか、という点を重視するわけです。
このような観点に立ったときには、たとえ同じ一人を殺した殺人犯でも、深く反省して被害者にもできうるかぎりの賠償を果たしている者と、まったく反省もせず賠償の誠意も見せず法廷を罵り続けているだけの者とは、社会にとっての危険性に違いがあり、また更正して社会復帰させられるかどうかの判断にもおのずと違いが生じることは分かりやすいことと思います。
こういった近代的な犯罪と刑罰の考え方にたって、現在の刑法は制定されています。従って、事後の情状を処分に影響させることはむしろ当然のことなのです。
ただ、以上の原則論とは別に、近年、犯罪被害者の権利や心情にもっと配慮をすべきだとの意見が強い傾向にあることは事実です。こういったトレンドのなかで、マスコミが率いる世論の圧力が捜査機関や検察の裁量に影響を与えることはありうることでしょうね。でもそれはどちらかといえば好ましいと私は思います。密室ですべてが執り行われることに比べれば。
お礼
ご回答ありがとうございました。 大変詳しく説明いただきとてもよくわかりました。 「同じ事をしても、被害者の感情によって起訴・不起訴や量刑に差があるのはおかしいのではないか?」という私の疑問はおっしゃる古典的考え方に基づいており、「法の下の平等」をそのようにとらえてしまっていたようです。 量刑については幅があること、逮捕や起訴の執行の有無についても司法にある程度の裁量権があること、それには個々の事例における個別の事情が考慮されるということはわかりました。 そしてやはり最初の疑問にもどります。 被害者の人権を守るのは当然だと思いますが、心情・感情をことさらに取り上げすぎるのはどうなのでしょうか。 「家族を轢いた運転手がのうのうと暮らしているのは許せない」とか「家族を死亡させた医者の資格を剥奪してやらなければ気が済まない」という感情は、家族を失った悲しみが相手側への怒りへと転化されたものであり、この感情の強さと「刑事責任の有無や程度」には何の相関もないのではないでしょうか。このような感情は民事で争う内容であり、刑事処分や行政処分が影響されるものではないと思うのです。 死刑制度の論議でよく言われることのようですが、「刑法は復讐のためにあるのではない」、「応報感情を重視すれば、私的制裁の禁止を重視する近代法の理念に反する」のではないかと思います。