久しぶりに面白い質問に出くわしました。
どんな罪を犯したかは分かりませんが(たいした罪じゃないことを願いますが)、あなたがそのように感じたことはある意味本当に反省している誠実な感じを私は受けます。
あなたは悪人かもしれないけど(失礼!)少なくとも偽善者ではない。ということです。
「他人の気持ちになれない」
これは私は真実だと思っています。他人の気持ちは分からないんです。どんなに被害者の気持ちになってみたところで、被害者と同じ大きさの悲しみはやっぱり味わえないんです。だって被害者ではないから。加害者が「思う」被害者の気持ちしか感じることはできません。だから思っているのはどのみち「加害者」であることに変わりはありませんね。
私は「分かったふり」をする人より「分からないことは分からない」というほうがいいと思っています。「分かったふり」をされてもますます嫌な気分になるだけです。
加害者に被害者の思いなんて分かりません。分かるくらいなら最初からしないでしょう。
ではなぜあなたは泣いたのか?
自分のために泣いたというのはとても正直で、その通りだと思います。
そう、自分がかわいそうだから泣いた。でもそれは被害者がかわいそうなのとイコールですよね。
そう、自分に対する思いと他人に対する思いはイコールなんです。
あなたは自分を泣かせました。ちょっと自分に悪いことをした。自分のためにならないことをした。そしてそれは他人のためにならないこととイコールなんです。
だから私たちは自分のために生きていけばいいんです。他人の気持ちは分からないんですから。
でも「本当の意味で」自分のために生きることは必ず他人のためにつながります。
自分を泣かせてはいけないんです。同時に誰かも泣かせている。
人を分かったつもり、理解したつもりになるのはある意味偽善的です。
他人のことは理解できないというふうに理解すべきなのだと私は思っています。
理解した気になるのが、また理解できると思ってしまうほうが危険なのです。
お礼
質問に付き合っていただき、どうもありがとうございました。