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北斗の拳に出て来る「無抵抗の村」について
まんが「北斗の拳」に出て来る「無抵抗の村」の場面を御存知でしょうか。 拳王が略奪、殺戮を繰り返しながらある村に入ると、そこには「私たちは何もしませんから、ここにある食べ物でも何でも持って行って下さい」と住民が(実際は作り笑いの)笑顔で応対するのでした。拳王は、これが村長の命令でなされていることに腹を立て、「この拳王様に無抵抗は通じぬわーーーっ!!」と叫び、誰にも危害を加えていない村長をブン殴って即死させてしまったのです。 まんがを読んで20年経った今も、拳王がなぜ村長を殺さなくてはならなかったのか理解できません。皆さんはどう思われますか??
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ラオウが死んだ後、ユリアがその墓標の前でラオウの生き方を推測しています。 秩序を失った乱れた世は、一度恐怖によって統一するしかない。その後、愛によって恐怖の支配が解き放たれたとき、この世に光がもたらされると考えた、と。 それから、ラオウは自分の生き方に誇りを持っています。 ラオウは例え命を落とすことがあっても、戦いぬいて自分の考えや主張を貫くことこそが生きることだと考えていました。 コウケツが媚を売って靴を磨いたのにも腹を立てて、自分にとって必要なのは媚ではなく戦士だ、二度と現れるなと、吐き捨てています。 また、ラオウと同じような事をした男がいます。羅将ハンです。 新しく生まれた修羅に「何か望みのものはあるか」と尋ね、修羅は「ハン様に仕えたいと思います」と答えました。 「野心はないのか」と尋ねると、修羅は「ありません」と答えます。 ハンは「では生きていても仕方あるまい」と、この修羅を殺しました。 非常に極端ですが、非常にわかりやすい考え方なのです。 本題。 無抵抗の村の村民は戦うことを放棄し、自分の感情や主張を殺してまで生きようとしていました。 怯える子供にも「怖くても笑え」と強要していました。その子供にとっては怖がることこそが本当の感情です。 ラオウの生き方、つまり神を敵に回してでも自分の望むものを力で手に入れようとする彼にとって、この村の、つまり村長の生き方はとても許せるものではなかったのです。 ラオウは「貴様の言う無抵抗でこの子供を救ってみろ」と言い、何も出来ない村長に対し、無抵抗で何かを成し遂げることなどできない、何も出来ない者は死人であると結論づけたのです。 危害を加えてないと言いますが、あの村長は自分の村の村民から欲しいものを勝ち取ること、守りたいものを守ること、怒ることや怖がることの感情さえ捨てさせていました。村人たちを全員殺していたのです。生命ではなく、心を。 ラオウにとってこの村長が主張した、戦いを捨てることとは、すなわち「生きる」ことを放棄させること。だからこの村はこのままでは死人が暮らす村でしかなかったと。 ラオウは自分の生き方と決して相容れない、この村長を生かしておくことができなかったのです。 ……まあ、あの村長の元ネタはどう見てもあの人を曲解したわけですが。
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多分演出の一種かと
お礼
非常に説得力がありますね。読み応えのある回答です。 コウケツやハンの出てくる場面も懐かしく思います。 私の期待する回答に近いものでしたので「良回答」をさし上げます。ありがとうございました。