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森鴎外の高瀬舟について
中3です。読書感想文にと森鴎外の高瀬舟を読みました。 そのなかで喜助を庄兵衛がさん付けで呼んだところがとても気になりました。 何故そう呼んだのでしょうか?皆様の考えを聞かせてください。
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回答No.1
庄兵衛は、喜助と言葉を交わしているうちに、喜助が自分にないもの、もっといえば世間一般の人が忘れてしまったものを持っていることに気づいたのです。それは、ありがたいという感謝の心であり、今あるもの・持っているものに満足するという心だと思います。 人は、持っていなければ欲しいと願い、欲しいものが手に入れば、次には「もっといいものを」と願いますよね。その欲望はとどまるところを知りません。(もっとも、人にもよると思いますが…)。 喜助はほんのささいなこと、少しのものでも自分にとっては十分だと思い、感謝すらしています。庄兵衛は、自分(その他大勢の人)にないものをしっかりと持っている喜助に尊敬の念を覚えたのではないでしょうか? 本文には、庄兵衛が「喜助さん」と呼び掛けるその直前に、「喜助の頭から毫光(後光)がさすように思った」とあるので、尊敬というよりは仏様に対するような気持ちだったのかもしれません。 私はつい最近、『高瀬船』を読みました。テーマは「安楽死」といわれますが、とても難しい問題だですね。もし喜助を裁く立場のお奉行様だったら、どのような判決を下しますか…?
お礼
ありがとうございます。 感謝の気持ちですか。庄兵衛が言い表せなかったのもそれなのでしょうか。少し気になります。 私がお奉行様なら極刑ですね。他に殺人を犯したものもいます。殺人は殺人ですね。それに「同じ殺人なのになぜあいつ(喜助)は極刑でないんだ!!」という不満が聞こえてきそうです。