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作家森鴎外と殺人者森林太郎の人格が共存してるのは?
小説家としての森鴎外の作品の中で、医師としての森林太郎の責任の重圧は感じられるんでしょうか? 森林太郎は陸軍軍医総監として兵士の健康を守る立場にありましたね。ただ、当時の日本軍では脚気患者が続出していて、2万人以上もの死者を出しています。 トップとしての責任はもちろん、当時、経験的に麦飯が脚気に効果があることが分かっていて海軍では実施されていて、陸軍でも森林太郎の部下から麦飯を励行するよう再三意見具申がされているのに、森林太郎は自説にこだわって、患者の命を救う麦飯を無視して効果のない治療ばかり行って、結果的に2万人以上という信じられないぐらいの病死者がでてますね。自分のプライドを守るために兵士の命を犠牲にし続けたというのは、普通の人間なら重圧や罪悪感を感じるような気がします。 いま、青空文庫で森鴎外の「高瀬舟」などを読んでたんですが、27000人もの人を殺した人間が書く小説じゃないですよね? 「高瀬舟」以外でも、日露戦争以降に森鴎外が書いた小説に、大量殺人者という医師としての森林太郎の雰囲気はしません。 これはなぜでしょう? 森林太郎と、森鴎外という別の人格があって、医師と小説家の時の人格が切り替わっていたんでしょうか? それとも、 医師として自分が行った行為と結果について全く責任を感じていなかったんでしょうか? それとも、、、、、、、????
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- Siegrune
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1921年(大正10年)で脚気ビタミン欠乏説がほぼ確定した(大規模な試験により、完全に確定するのが数年後)。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E8%84%9A%E6%B0%97%E5%8F%B2#.E3.83.AD.E3.83.99.E3.83.AB.E3.83.88.E3.83.BB.E3.82.B3.E3.83.83.E3.83.9B.E3.81.AE.E5.8A.A9.E8.A8.80.E3.81.A8.E3.83.99.E3.83.AA.E3.83.99.E3.83.AA.E3.81.AE.E8.AA.BF.E6.9F.BB より。 森 鷗外(もり おうがい、1862年2月17日(文久2年1月19日)– 1922年(大正11年)7月9日) (同じくwikiより) >当時、経験的に麦飯が脚気に効果があることが分かっていて海軍では実施されていて 原因の理論的解明がなされず、経験論で話をしているかぎりは、 現代において「ガンにアガクリスが有効」というのと同じでは? 経験則と迷信っていうのは紙一重なので。 (海軍における事例からもう少し信頼度は高いと思いますけど。 ・・・でも、海軍と陸軍の仲の悪さはいつの時代でも、どこの国でも同じですが。) >森林太郎は自説にこだわって というよりほぼなくなるまで、間違っていたとは思っていないと思いますが。 ⇒ >・・・医師としての森林太郎の雰囲気はしません。 >これはなぜでしょう? の答えとしてはこれが原因と思います。