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コンテンツビジネスの究極は宗教??

http://slashdot.jp/articles/04/01/21/2122225.shtml?topic=104 たまたま上のようなページに行き着いたのですがここに気になることが書かれていました。 http://slashdot.jp/comments.pl?sid=151056&cid=478563 ↑こちらの方が分りやすいです 気になるという部分を抜粋しますと 『コンテンツビジネスの究極は宗教ですので中身を問うのはナンセンスです。 「ありがたい壺」と同じように「メーカーが価値があると言っている」事自体に価値が発生するビジネスモデルが理想なのです。』 念のため「コンテンツビジネス」をgoo辞書で調べると 「放送・映画・音楽・漫画・アニメ・ゲームなどのような知的生産物について,その制作・管理・提供にかかわるビジネスのこと。コンテンツ産業。」 別にインターネットは関係ないんですね。上の文がこの定義に基づいて書かれているのかは分りませんが。 ともかくどちらにしてもこのような産業というのは消費者が商品の価値を決定する余地を無くすことはできないんじゃないでしょうか? ゲーム会社とかなんかつまんないゲームしか作らないような会社は儲からないでしょうし、それをつまらないかどうか評価するのはどう考えてもユーザーであって、信者が価値を決定することができない宗教とはまったく異質のものだと思うのです。 私はこういうビジネスとかに関しては全然詳しくないのでよく知らないんですがこのような考えはその道の人からすれば当然のものなのでしょうか。そうだとしてどのようなロジックでこのような結論に到達するのでしょうか?

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回答No.3

見当違いだったらごめんなさい。 >信者が価値を決定することができない宗教とはまったく異質のもの 「信者になる前の段階においては、どの宗教を選択するかは自由である」という(日本的にいえば「信教の自由」)のプロセスが抜けていますね。 つまり、商品選択においても、(表面上は)個人の信教についても、それを選択する自由は認められている、ということです。 だとすると、プロダクトにも、コンテンツにも、宗教や教祖にも(笑)、「人をひきつける力」が必要。 今は「カリスマ」という言葉が乱発されていますが、「市場で絶対的なシェアを得るためのカリスマ性」は必要不可欠であるといえます。 >コンテンツビジネスの究極は宗教 は確かに言い過ぎであるにしても、その「コンテンツに対する信憑性」はそのコンテンツそのものよりもコンテンツの「出し手」に対する信憑性でもあるわけで、その「出し手としての信憑性」をユーザーが選択するためには、それだけのカリスマ性が必要なのだ、ということです。 釈迦もキリストもマホメットも(いずれもその弟子たちを含む)「個人の発信したコンテンツ」が大規模に市場に浸透していったという意味で「コンテンツビジネスの究極は宗教」という発想は成り立つのでは? 少なくとも「信じさせる力」がそのコンテンツにはあったし、「信仰」というコンテンツには精神的な拘束力もあり、だから強烈にリピーター化されるわけですから(笑) …難しくなってごめんなさいm(__)m

a-sa
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 どうもみなさんのご回答からなんとなく分ったことですが、ビジネスとしてとらえられる宗教は高級な嗜好品やブランド品のようなものとして考えられているみたいですね。 私は「道徳の基礎としての宗教」のような見方にとらわれすぎていたためにまったくロジックが理解できなかったように思います。 「商品としての宗教」という見方をするとなんとなく、理解が出来たように思います。 ありがとうございました。

その他の回答 (3)

回答No.4

No.3です。 たびたびでしゃばって申し訳ありませんが、まだ質問を閉じていないようなので、一言だけ付け加えさせてください。 >「商品としての宗教」という見方をするとなんとなく、理解が出来たように思います。 >ありがとうございました。 「商品」として宗教を見るか、さにあらずか、ということを考えると、結びつけることが難しいのは、ボクでも一緒です。 気持ち的には、「うん、うん」という感じ。 ただし、「商品」にも「宗教」にも、どちらにも共通して「価値」が求められますね? その「価値」を、通貨と交換するか?という問題なんだと思うんです。 「宗教」をそのままビジネスとして捉えるとどうしても胡散臭さを伴う(笑)のですが、そうではなく「宗教化が民衆に提供した価値」を通貨に換算するとどういうことになるのだろう?と考えるともしかすると解決の糸口になるかもしれません。 良いか悪いかは別として、「宗教ビジネス」を展開する人たちは、それを実践しています(笑)。 少なくともそういうビジネスが後を絶たずに生まれ、またそれが犯罪につながったりするという事実は、裏を返せば「宗教の価値は通貨に換算すると膨大なものになる=宗教ビジネスは儲かる」ということの証左だったりします。 誤解のないように言いますが、もちろん宗教ビジネスを勧めているわけではないですし、そうやって宗教の価値が濫用されてしまっているからこそ、「宗教とお金=胡散臭い」という思い込みはより強くなっていくので、出来れば「宗教ビジネス」という言葉さえ使いたくない(笑)。 ただ、「価値」というのは、人が作り出すもの。 その価値に対する「対価」としての証拠品(通貨)と「価値」そのものを交換するのが経済の基本。 だとすると、より多くの人が信仰の対象とする「宗教」というものには、莫大な価値があると考えることが出来ます。 宗教の基本はおそらく「救済」なので、そこに対価を要求するということが(少なくとも世界の三大宗教家には)なかった…それだけと考えるのは、ちょっとムチャかもしれないけど(笑)、経済の側から見ると当然のことかもしれません。 もっとも、ちゃんと宗教でも「価値」=「対価」の関係は成立しています。たとえば釈迦の初期仏教教団を引き合いに出せば「信者は釈迦とその弟子たちが『生きていけるだけ』の寄進をする」ということで価値の交換が行われています。 もちろん今でもそう。「坊主丸儲け」は、まさにそのまま(笑) 自分の信心について、その根拠を与えてくれる人が生きていくために必要なもの・お金を供与する、という形での「経済」です。 (余談ですが、坊主丸儲けは、一部の人だけらしいですね。大半の寺院はいわゆる手取り年収で400万円以下なのだそうです。お寺も大変みたいですよ(笑)ちょっとだけ弁護しておきます(笑)) 「形のないもの」にお金を払う…ということが希薄だった日本の文化のなかではどうしてもわかりにくいことですが、形の有無にかかわらず、「価値」が存在すれば、そこに対価が発生する可能性は十分にある、しかも、それが「人の心」にまつわるものであれば、急速に浸透し、莫大な対価を呼ぶ可能性がある…ということは間違いないと思います。 …このくらいにしておきましょうね(笑) 長々と失礼しました。

a-sa
質問者

お礼

ありがとうございます。 『価値』って言葉も難しいところでgoo辞書によると かち 【価値】 (1)物がもっている、何らかの目的実現に役立つ性質や程度。値打ち。有用性。 「―ある品物」「―を損なう」「言及する―もない」 〔幕末までは「価直(かちよく)」が用いられた〕 (2)〔哲〕 善きもの・望ましいものとして認め、その実現を期待するもの。内在的なもの・手段的なものなどにわかれるが、特に、真・善・美など、普遍妥当性をもった理想的・絶対的価値をいう。 (3)〔経〕 商品の価格の背後にあって、それを規定しているもの。その本質・源泉のとらえ方によって客観価値説(労働価値説)と主観価値説(効用価値説)とが対立する。 だそうで、(2)の意味での価値だとすると対価は絶対に発生しないんですよね。 私のことばの使い方としてその辺が混同していたことも混乱の原因であるように思いました。 >自分の信心について、その根拠を与えてくれる人が生きていくために必要なもの・お金を供与する、という形での「経済」です。 この考え方がそもそも宗教の本質から離れているんですよね。経済的価値と宗教的価値を同次元で考える人が宗教ビジネスの食い物にされているんでしょうね。

  • mokka1967
  • ベストアンサー率33% (5/15)
回答No.2

コンテンツとはいってもそれを提供する媒体(放送の電波、ゲームのプログラム、コミックスの雑誌など)があって、コンテンツ+媒体を1パッケージとして、ユーザーは評価を決めるのだと思います。 ビジネスとしての宗教は媒体の部分の要素が限りなく小さいので、究極のビジネスモデルと呼んでいるのではないでしょうか。 あと、コンテンツビジネスの価値をユーザーは決定することはできません、コンテンツを享受し、評価するまでです。

a-sa
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 これはつまりユーザーの評価はコンテンツの価値決定になんら影響を及ぼさないということでしょうか?

  • FINDRUNK
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回答No.1

ちょっと質問のポイントをうまく把握していないかもしれないので検討違いだったら許してください。 近年、アメリカでは宗教が一大産業に成長しています。 コンテンツビジネスとは価値が物理的でないものを対象としますからその意味では「宗教」と称するものはコンテンツビジネスのモデルにフィットしますし、「究極」であるのかもしれません。  問題は、宗教というものの定義にあります。 どうも宗教と営利目的活動は、相容れないという意識が存在することは否めないでしょう(善悪は別として)。 精神分析とまったく同じような効果にたいして、医療といわず魂の救済といって「まぎらわしい広告ではない」と言えるのか? また利益追求は、これまで考えられていた宗教という考え方と相容れるのか? などがこの手のビジネスに対する批判が上がる理由でしょう。 伝統的な宗教も金なしでは成り立ちませんが、利潤の追求を正面きって組織の存在理由にあげた場合は、「宗教という名のビジネス」になります。

a-sa
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 でも私の訊きたいこととはちょっとちがいますね。すいません。 私の訊きたかった事は要するにコンテンツの価値をユーザーが左右することはないのか、ということです。 でもアメリカで宗教が一大産業に成長している、というのはちょっと興味深いところでした。

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