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即身仏というのは何のために行われたのでしょうか?

長野県で行人様という即身仏がありました。 穴の中に閉じこもり、ものを食べないで7日間で入定したそうです。 日本に現存する8体のうち唯一の禅宗系で、弥勒菩薩の極限の姿を示していると説明がありました。 これらの行為は何のために行うのでしょうか? 自分のためですか、それとももっと崇高な理由からでしょうか? 禅宗が少ないのには理由がありますか? 弥勒菩薩の極限の姿とは? 謎ばかりです。 まさか現在する人はいないとおもいますが、するとしたら違法になりますか? よろしくお願いします。

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  • yuhkoh
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回答No.4

 密教では「即身成仏(そくしんじょうぶつ)」を説きます。これは“この肉体を持つ一切の衆生が、この身、このままで、即座に成仏する”という思想です。ちなみに成仏というのは、「悟りを開く」という意味で、仏教の最終目標ともいうべきものです。密教以前の仏教は“生まれ変わり、死に変わりして、長い、長い時間をかけて成仏する(「三劫(さんごう)成仏」)”という考えです。 【『密教21フォーラム』「即身成仏」-「成仏」と「万人の救済」の両立】 http://www.mikkyo21f.gr.jp/concept_key_joubutu01.html  ご質問の「即身仏」は、この即身成仏という教えを江戸時代の行者が誤解・曲解し、高徳の行者の遺体をミイラ化して“仏”としてお祀りしたものです。しかし、現代ではこの即身成仏と即身仏を混同し、“即身成仏はミイラになることだ”と勘違いしている節もあるように思いますので、誤解なさらないでください。  即身仏が生まれた背景には、“弘法大師(空海)は死んだのではなく、高野山で永遠の禅定(ぜんじょう/瞑想のこと)に入り、人々を救済している”という「大師入定(だいしにゅうじょう)信仰」や、山岳信仰では“山で修行する行者は、厳しい行を積み重ねることにより神仏と等しくなる”という「人神(ひとがみ)信仰」などの影響が考えられます。  古くから日本では、罪を犯すことにより災いが引き起こされる。だから災いを鎮め、幸いを望むためには、まず罪を償うことが必要であるという信仰があります。それらの古代日本のさまざまな信仰と神道や仏教、道教・陰陽道などが融合して「修験道」というひとつの体系化した教えが生まれました。  修験道では苦行を重視しますが、これは自己の滅罪のためと、さらには他者が犯した罪によって受けるべき苦しみを、行者が成り代わって苦しみを受けるという、「代受苦(だいじゅく)」という信仰があります(ここでの「罪」とは社会的な罪だけでなく、倫理的・宗教的な罪が含まれます)。 つまり、行者が修行によって受ける苦しみは、本来は他者が罪の償いとして受けるべき苦しみであるが、それを行者が成り代わって苦しみを受けている。そのことにより、他者の罪が償われて幸せが訪れる。苦行にはそのような面があり、また信者も苦行を積んだ行者はそれだけ験力が大きいと見なしました。  そのような自己の滅罪と代受苦から、最終的には“自らの命を絶つ”という「捨身(しゃしん)」という修行まで生まれました。この捨身には仏教で説く自己犠牲的な供養、つまり『法華経 薬王菩薩本事品』の焼身供養、 http://homepage2.nifty.com/honkoujipriv/mh_yakuoubosatuhonnjihon23.htm 『金光明経 捨身品』の捨身飼虎(サッタ王子が飢えた虎を救うために自らの肉を食わしたという故事)、『涅槃経 聖行品』の捨身羅刹(雪山童子が一切衆生を救う教えを聞くために、自らの肉を羅刹に食わせることを約束したという故事)などが知られていますが、この様な思想の影響も受け、大自然に己の生命を捧げるために投身、焼身、入水、断食などが行われました。  ご質問の即身仏ですが、生きながら土に埋められるまでの過程は、それまであった捨身修行ですが、問題はその遺体をミイラにして祀るということです。仏教民俗学者の五来重先生は『山と宗教 修験道』(淡交社)で、出羽三山の即身仏は“病死した行者の遺体を、天井に吊して煙でいぶして作った”という当時の記録を紹介し(なお、それを記録した行者はあまりの恐ろしい光景に、「即身仏になることを止めた」と記しているそうです)、“こんなグロテスクなミイラを「仏」と称して見せなければ、信者の心をつなぎ止めることができなくなったという、修験道にとっては末期症状の信仰である”と厳しい意見を述べられています。

その他の回答 (3)

  • yamikuro3
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回答No.3

釈迦入滅五十六億七千万年後に弥勒菩薩が悟りを開いて弥勒如来となり、この世で皆を救ってくれるという信仰があったようです。 即身仏とは、その弥勒如来に会う為の死体の長期保存であったらしいです。 禅宗は基本的には自分の力で悟りを開かなくてはなりませんから、弥勒に救いを求めるというのは本来在りえないのかもしれません。 現代では単なる自殺ということですよね。 手助けする人がいれば、当然自殺幇助になるでしょう。

回答No.2

成仏(人間が仏になる)のが仏教の 目指すところです。たいていの善人は死んだら 成仏できることになっていますが、生きたまま 成仏することを崇高なものとしたんでしょうね。 つまり、座禅(仏の姿)のまま死ぬんです。 禅宗は死んで成仏とか極楽往生するよりも 、生きているうちに座禅によって悟りを開く ことを重んじたので即身仏が少ないと思います。

回答No.1

究極の苦行によって、宇宙の真理に迫れると考えたのではないでしょうか?

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