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前向き・自分に自信を・とかじゃなくて

最近実感したことなのですが、みなさんはどう思われますか。 30歳と○才生きてきたのですが、ここ数年悩みが多くて、さらにこの数ヶ月、人生の中で一番孤独を感じています。 悩みとかで鬱々している時の解決方法として、いろんな本や教えに「前向きになる」とか「自分を好きになる」とかありますよね。 私は、今までいろんな言葉を受け入れつつ前を向こうと努力はしてきたのですが、結局自分の後ろ向きな性格から前向きにはなれず、でした。 でも、やっぱり人生の流れが好転するときのきっかけって心がけとかもあるのかもしれないけど、「人とのかかわり」だったりしませんか? さらに、そのかかわりは自分から持とうとしてもなかなかタイミングよく相手の方が希望通りにかかわってくれない。とても絶望的。じゃあどうすればいいのか。。待つしかなくて・・・。待ちくたびれてもう限界に達したころに、なぜかふと人からの連絡が来たりする。。それでようやく前向きになれて、いろんなことがうまく運び出す。それが、なんというか、とても不思議というか、偶然的な感じがするんです。表現が下手ですみません。 本題ですが、人生が好転するときって、何か理由があると思いますか?私はなんだか理由ってないような気がしていて。 じゃあ努力するのが無駄っていうことにもなると思うんですけど、ただ単にきた「人からの連絡」で前向きになれるっていうのは、これは、今まで自分が後ろ向きで、難しく考え込んでいたのが馬鹿らしくもなってきて。結局は人とのかかわりなのかって思ったりもしています。 これは、自分がまた同じように落ち込んだりしたとき「どうってことない」ってどんと構えていられるきっかけになるかも知れないので。。 人生って、まだ語れる年齢じゃないですけど。。 いろんな人生を歩いていたかた、また同じ経験をされたかたどんな方の意見でも構いません。 よろしくお願いいたします。

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  • Syo-ya
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回答No.3

再度の登場です。 まず、ご紹介しているのは日本の坐禅の原型に当たるインドのヨガの瞑想法で、お釈迦さまが悟りを開いたときにやっていたと言われる、俗にいう小乗仏教(南方アジア仏教圏)の国々に伝わるもので「ヴィパッサナー瞑想」とか「アーナーパーナサティ・スッタ(大安般守意経)」、西洋では「マインド・フルネス」などと呼ばれているものです。 ですからどうしても宗教色があるんですが、もともとの仏教は心理療法的なものであって、断じて信仰する宗教ではなかったのですから、何も信じる必要はありませんし、どこに加入する必要もないんです。実際、私も独学なんです。 で、しつこいようですが、改善しようとか、頑張ってクールダウンさせようとかすると駄目なんです。 「前向き」「上昇思考」というのは、一番、危険な発想なんです。 なぜかというと、脳細胞というのは、興奮性の細胞ですので、 「昂奮」か「鎮静」にしか働かないんです。(ここがポイントです) ですから、「どうして俺はこんな考えをするんだろう・・・」と思ったり、「こういう時こそプラスの発想を!」と想うと脳はさらに昂奮しますから、余計に何も見えなくなってしまうというメカニズムなんです。簡単な理屈です。 ですからありのままの自分に、ただ淡々と気が付いて、それを査定したりせずに、むしろ「私はこの感情と対立しません。この感情を許します。認めます。受け入れます」と宣言したほうが、より効果的に脳をクールダウンさせることが出来るんです。 例えば、今、これをご覧になって「「なるほど・・」と想ったら 「私は今、感心している・・・」と自覚します。気付きます。 そして、「この感情と対立せずに、認めます、許します、受け入れます」です。 そうすると感心という脳の昂奮がクールダウンしてきます。 落ち着きを取り戻してきますので、平常心に置き換わります。 「そんなに上手くいくワケないだろう。。。」と想っている自分に気がついたら、 「疑っている、疑っている・・・・」と自覚します。気付きます。 そして「この感情と対立しません、この感情を認めます、許します、受け入れます」です。 そうすると、またまた、クールダウンされて平常心を取り戻すと想います。 ・・と、この例は、両方とも、自分の内面だけを向いているからできるんです。 常に自分の心の変化、抑揚、昂奮だけを看察し続けるからできるんです。 私はどなたにも同じようなレスばかりしてますので、私の過去ログをご覧になっていただいても何かのヒントになるかも知れませんし、こちらの4、6、7にも同様の心の使い方を紹介してますので一読ください。 http://security.okweb.jp/kotaeru.php3?q=1189158 基本はジッと動かないことです。 そして湧き上がる雑念や身体感覚に気が付き続けるんです。 現代の文化的な生活で失われてしまった、感性とか、繊細な能力を取り戻すんです。 雑誌やCMで消費者の昂奮を煽って、購買意欲をそそり続ける狂った世の中ですから 自分の脳・身体を守るためにも、是非、やってみてください。

noname#17659
質問者

お礼

再度どうもありがとうございます。 おそらく、回答者さんがおっしゃられたことは、私が最初に投稿した内容と共通することだったのかもしれませんね。「とにかくじっとして・・・・」というのも、私が最後の手段でというか、そうせざるをえないところまできていたというか、そんな感じだったのですが、じたばたしてもプラスにならない、と思い、自分の気持ちのままにしていよう、って思っていたところなのでした。 自分の気持ちや感情を受け入れるというのは、簡単なようで、実はとても難しいことなのかなぁと思いました。でも、どうにもやりきれない状況のときは、自然に落ち着くようにと、静観していく自分がいて、まさにそういうことなのかなと思ったりもしました。 どうもありがとうございました。

その他の回答 (2)

  • Syo-ya
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回答No.2

呼ばれていませんが、再度の1です。m(_ _)m >>無為になるには、平常心を養う・・・。   自分の感情を許すということに繋がるのでしょうか? 平易に伝えるために「感情を許す」と書きましたが、実際は「気がつくだけ」で良いんです。 「ただ淡々と客観的に自分に気が付くこと」これが全てなんです。 でも普通「気が付け」と言われても、自分で自分の心を査定したり、批判して嫌ったり、 逆に気持ちの良い時には、その状態に執着してしまいますので、 あらゆる感情を許す(通過させる)という表現にしたほうが通じるかと想ったんです。 実際は「ただ淡々と客観的に自分に気づくだけ」で平常心が養われ無為になれるんです。 だって、気がつくために必要なのは「平常心」です。 「平常心」なくしては気が付くことさえ出来ません。 ましてや、許して、通過させることも出来ません。 例えば、嫌いな上司の顔を思い出すと心がざわつきます。 理不尽に怒鳴られた思い出や、偉そうな態度、言葉・・・思い出すだけで吐き気がします^^; でも、普通は、それが自分の中にある感情だということを忘れてしまうんです。 その上司の責任で嫌な気分になっていると錯覚してしまうんです。 あくまでも「嫌いな上司」はキッカケにすぎず、感情は全て、私達の中にあるモノなんです。 だって、その上司を好きという人もいるんです。 好き嫌いを想うのは、個人に委ねられているのであって、感情の責任は上司には無いんです。 (こんな説明で通じますか?) で、まず、このことに気が付くんです。 そして、自分の中にある感情に気が付くんです。 憎悪、怯え、恐怖心、無力感、消耗感・・・・いろいろな感情が複雑に絡み合ってます。 この感情の一つ一つに気が付いていけば、例えば、憎悪が平常心に置き換わるんです。 逆にもし、憎悪の感情に気がつかなければ、憎悪が言葉や態度に表れるようになり、愚痴を言うわ、悪態をつくわという人間になってしまうんです。 でも、自分の中の憎悪に気がつけば、憎悪が平常心に置き換わりますので、その後も平静な気持ちでいられるようになるんです。 つまり、<< 自分の中を戦場にしないんです >> 全ての感情に対して、このように気が付いていけば、平常心が養われていくんです。 そうすれば穏やかな心になって、果ては無為の人になれるんです。 で、気が付くのは自分の心だけではなく、身体感覚にも気が付くんです。 身体感覚がおろそかになっても、これも健康とはいえません。 自分の手足、背中、太股の裏・・・全ての身体感覚に気づきを巡らすようにするんです。 これだけでもストレス解消にもなりますし、実際に「気」が高まってくるのを感じると想います。 「気付く」というのは、気功で言う「気」が付着するようなものなんです。 身体もポカポカして、心も柔軟にポカポカ柔らかくなってくるんです。 「気が強くなる」と言うのは世間で言う強情、負けん気、勝気・・ではありません。 むしろ、それらは、自分の感情の責任が外部にあると信じて疑わない人たちの特徴なので、実は「気」は弱いんです。 簡単に外部の出来事に心が左右されます。 つらい時期を過ごされたということですし、年齢的にも解っていただけるかと想います。 ぜひ、日常生活に「気付き」を取り入れてみてください。

noname#17659
質問者

お礼

再度ありがとうございます。 説明を丁寧にいただいて、とてもうれしかったです。 上司の件について例にしてもらっていたのですが、 感情を「自分の中にある感情に気づく」とあったのですが、それはなんとなく分かりました。でも、相手の態度や行動があっての自分の感情なので、それをどういう風に「自分の中だけの感情」として捉えることができるのだろう?って思うのです。 それを「平常心」に置き換えられる、とあるのですが、なかなか難しくて・・・。 唯一、自分の中で平常心を保とうと頑張ろうとするときは、「他のことを考える」「私は私」みたいに、自分で言い聞かせたりとか、はします。そのときは嫌な感情は緩和されます。 でも、それも頑張って頑張って、の結果です。 いつも朗らかにいたいなぁって思うのですがなかなか。 感情の「気付き」に対しては、自分なりに気をつけているつもりで、「どうして私は不愉快なんだろう」とか、理由は常に考えるほうなのですが、それをうまく改善できないんでしょうね。 また何かアドバイスがあったらよろしくお願いいたします。

  • Syo-ya
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回答No.1

同感です。 まさに「無為の真人」ですね。 書店に「前向き」「自信」というのが山積みされていますが、人には、それぞれに境涯があり、自分の境涯に見合った書物を選ぶべきなんですが、なんでもかんでも「前向き」というスローガンですから、これで、みんなさらなる興奮状態になってしまって、周りが見えなくなってしまうんです。 ところが無為の人というのは、サイコロで人生を決められるんです。 別に問題はないんです。 だって、悩んで悩んで選択したって、リスクは付き物です。 だったら、サイコロで決めたって、結果は一緒なんです。 考えて、考えて、考え抜いて、考えないことにした人は、欲望を断ってますから、むさぼらないので、人生が悪化しませんから、”好転のみ”するんです。 ところが中途半端に考えない人は、下手な欲望が残ってますから、どうしてもむさぼり初めてしまうので、悩む結果になるんです。 無為になるには、平常心を養うことです。 常に冷静に自分を見つめて、あらゆる自分の感情を許して、心の中を戦場にしない人は、一年中穏やかでいられますから、平常心が養われていくんです。 逆に、自分に鞭打ってしまう人は、常に心の中が戦争状態なので、平常心が育たずに、欲望の奴隷になってしまうんです。 無為になるのならば、坐禅がお薦めですね。

noname#17659
質問者

お礼

ありがとうございます。 禅という観点から意見をいただいて、意外でした。 「心を無にする」という言葉があると思うんですけど、それも故意にやろうと思うと難しいですよね。。 無為になるには、平常心を養う・・・。 自分の感情を許すということに繋がるのでしょうか? 私は今回、本当につらくてつらくて、起き上がるのも億劫で、でも、最初は「こんな自分は恥ずかしい」って思ってました。でも、だんだん自分を責めているのさえもつらくなり、どん底に落ちるまで落ちてしまえ、なんて考えが変わり始めました。 それでもどん底に落ちたままでした。暗い出口のない空間で、だれかが明かりをともしてくれるのを待つような心境でした。そしてひたすら目をつぶって横たわり、動かない日も続きました。そしたら、友達の連絡が来て、一気に気持ちが好転してしまいました。 何でしょうね。人の心って単純なのかもしれませんね。それを難しく考えすぎているのかって。 おっしゃるように、人生はリスクが伴って当然。どちらかに運んでもそれなりに動き始めるのでしょうね。ありがとうございました。

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