※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:母親が死んだ。)
母親の容態急変、一分の面会での後悔
このQ&Aのポイント
母親の容態が急変し、病院で面会することができたが、自分が母の命を止めてしまったのではないかと後悔している。
母親は脳梗塞と肺炎により重篤な状態であり、延命処置が必要となるかどうかを決める打ち合わせを行った。
自分は母親の苦痛をなるべく減らしてあげるため、延命処置はいらないという選択をしたが、後悔の念が残っている。
母の容態が急変し病院に呼び出されたとき、先生の説明が終わり、コロナの中、無理に「母親にあわせてほしい」と頼み、約1分面会したとき、母親はグッタリしていたが、長男がきたのはわかったようだった。母の目は、「まだ生きたい!!」という「目」をしていたような感じだった。自分が母の命を止めてしまったのだろうか?
急性胆のう炎の手術も成功し、食欲もあり5月末には、退院ということだった。 5月下旬 病院から呼び出され、「今日は残念なお知らせです。」という主治医の話しが始まった。
「右半身がダラリとしてしまったので、検査をした結果 脳梗塞であることがわかりました。」と画像をみると、右の脳に握り拳大の脳梗塞と左の脳には鶉の卵大の脳梗塞の画像をみせられた。 つづいて
「それに加え、点滴の水により肺炎をおこし、脱水症状のじょうたいで、体全体のバランスがくずれ今後は正解のない治療となります。延命処置はのぞみますか?」
上記先生の話を簡単に書きましたが、もっと長い話しだったのですが、内科主治医・脳外科の先生・病院立会人と自分の4人での話しを聞き、自分は「もういい!! 4月に救急車で運ばれた時も同じことを聞かれ、チュウブだらけで、母親を苦しませたくない!!」その考えに変わりはなかったので、「もういいです。自然に・・・」そのあとは、言葉がうまくでなかったが、なんとか「延命処置はいらない」ことを伝え、打ち合わせは終わった、その直後、ぜんぜん母親と会えなかったので、無理に 「母親に合わせてほしい」とたのんだ。約1分会えたが、ぐったりしていて、でも呼びかけに 目をひらいた。「大丈夫だ!!なおるからね!!」といって立ち去ったが、母は生きたがっていたようだった。その表情が忘れらない。
わずかな可能性があれば、先生に「何とか助けてほしい」というべきだったのではないかと、いまだに後悔している。いまだに母親と散歩がてらに行ったスーパーマーケットに行くと、横にいた母親の姿がみえる。ちょっと離れると、手を振るすがたがみえる。朝起きると茶の間に座っていてくれる 姿を期待してしまう。しかし いない。
自分の先生への一言が「もうこんな状態で苦しませたくない!!延命処置はしないでほしい」母を殺してしまったのではないかと後悔?している。いつも 笑顔でニコニコしていて、何があっても自分を守ってくれた、家族をまもってくれた母親を・・・・。
お礼
>どちらを選んでも、後悔するのかもしれません。 その通りだったかと・・・思います。 いることが、当たり前だった母が、突然いなくなってしまい 悲しくてどうしようもないです。 ある人は「人間、いつかは死ぬんだ!!いつまでも悲しんでいちゃだめだ!!」といいますが、そして、それもわかるのですが・・・?最近、自分が母の姿が透けたように一瞬みえることは「「亡き母への思慕」だということがわかりましたが、これが精神的にいいことなのか?いつまでも、一瞬みえて、涙があふれることが良くない事なのか?自分は一瞬でも見えるとうれしい!!しかし、その後涙が出て悲しい!!男なのに困ったものです。空気のように透けた感じで出てきてくれてうれしいのだから、困ることはないのか?な はじめてのことなので・・・?