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彼女から宗教に入りたいと相談を受けました。
彼女から宗教に入りたいと相談を受けました。 正直戸惑いを隠せません。 彼女はここ数年引きこもっており、その間に人間関係を皆失ってしまいました。また、引きこもりの間うつ病を患っており、寛解した為利害関係のない友人や人の輪が欲しいとのことで、縛りの緩い宗教に入信したいと相談を受けました。 私はというと、無宗教かつ無神論者であるため、宗教に対してどうしてもバッドイメージがありますし、コラムや体験談などを読むと宗教こそ利害関係のある集まりなのでは?と思ったり、明文化されていないだけで厳しいルールやマナーがありそうだったりと、とてもオススメできる心証ではありません。 一方で、ずっと無気力だった彼女側が懸命に歩み出そうとしていることを無下にもできないという思いがあり、否定的で懐疑的な私見を述べることに躊躇いがあります。 また、彼女の両親なのですが、両親共に宗教に入っており、幼少期に彼女は違和感を生じて一度辞めています。うつの原因がその両親だったこともあり、親の意見を聞いてみたら?とは言うことができません。 私も彼女も24歳で、特に私は社会人になりたてでバタバタしていることもあります。 どのように立ち回ればよろしいでしょうか? また宗教に入信させて良い影響がある可能性は感じられますでしょうか? 皆さんの意見をお聞かせください。
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- eroero4649
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>実体のない、かつて存在したのかもわからない教義や出来事に心の救いを求めている、という見方にどうしてもなってしまいます。 面白いことに、有名な宗教の経典は全て弟子によって書かれているのです。新約聖書は弟子たちの「ウチらの師匠はこんな人でした」というエピソードを集めたものです。だからマタイによる福音書とか呼ぶのです。マタイやルカは弟子の名前です。 コーランも弟子たちが編纂したものです。そもそも教祖のムハンマドは字が読めませんでした。仏教もお経は弟子によって書かれたものであるのは質問者さんもご存知の通りです。そして現代は宗教というより哲学に近い扱いをされている儒教(論語)も弟子による編纂です。だから「子曰く」で始まりますよね。 「私たちの先生はこんなに偉大な人だったんです」だから、説得力が出るのです。まあ考えてみればお医者さんだって誰かが「あの先生は名医だ。私の病気をたちどころに治した」というのと、そのお医者さんが自分で「俺は名医だ。困難な患者をたちどころに治した」というのではどっちを信じるのかって話ですね。 「存在しないものだから信じない」というはチトおかしい。だって仏教だってキリスト教だってイスラム教だって経典があるじゃないですか。その経典のほとんどは100年以上かけて議論が重ねられて成立しています。新約聖書はイエスが死んでから300年くらい経って今の聖書の原型が完成しました。 そして「目に見えないから信じるもの」なのですよ。イエスは聖書でこんなことを弟子たちに言ってるんです。「お前たちは奇跡を見ないと信じない。奇跡がなくても信じるのが本当の信仰なのに」って。水の上を歩いたから信じるとか、病人を治したから信じるというのは「お金がもらえるならやる」みたいなものですよね。見えたなら信じる、見えないから信じない、は質問者さんや他の回答者さんがいう「信じちゃいけない新興宗教」と同じですよね。「奇跡を見せて集客している」わけですからね。 でもイエスを始めとして多くの教祖様がそういう奇跡伝説を持っています。そのほうが大衆を釣れるからでしょうね。 >今あるものが全て信じられず、また頼ることができないという経験をしなければ、心の救いを自分以外の何かに求めるという感覚を得る事はできないのでしょうか。 質問者さんが信心深い家に生まれて幼少の頃から教義を教わっていたなら信仰に疑問はなかったと思います。例えば質問者さんもただの石ころに向かって立ちションはできると思いますが、お地蔵様に向かってオシッコはできないでしょ。でもどっちもただの石ころのはずです。石ころがお地蔵様に刻まれた途端にオシッコできなくなっちゃう。 それは子供の頃から「なんとなくそれはアカン」という社会の中で生きているからです。 だから本当の「無宗教」というのは、お地蔵様に向かって立ちションをしなきゃいけないのです。質問者さんも含めて多くの人が自らを「無宗教」と自称するのは、日本人の宗教観が「なんでもあり教」だからです。神仏習合ってのは学びましたでしょ。日本人はなんでも取り込んじゃって混ぜて一緒に拝んじゃうのです。だから生まれたときはお七夜で神社に行って神主さんに榊を振ってもらって、結婚するときは牧師さんを呼んで神様に永遠の愛を誓って、死んだらお坊さんがやってきてお経を唱えても何も疑問に思わないのです。 日本人にとって身近な仏教にしても、禅宗と密教じゃとても同じ仏教に思えないほど違うじゃないですか。 それがいいことなのか悪いことなのか分かりませんが、我々日本人は宗教に対してそこまで真摯じゃなくてもいい環境にいるのです。なんでもいいじゃん、片っ端に拝んじゃえば、でいられるのです。 ネアンデルタール人が絶滅して、ホモサピエンスが絶滅しなかったのは我々ホモサピエンスが宗教を持っていたからだ、という説もあるのですが、それを語ると長すぎるのでここまで。
- seomire
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一般的に名前が知られていて、世界中に信者がいるキリスト教や仏教のようなメジャーな宗教なら特別問題はないと思いますが、一部の人しか知らないような新興宗教やマイナーな宗教はやめておいた方が無難なような気がします。特に心が弱っている時には藁をもすがる思いでしょうから、余計に冷静な判断が出来ず、誤った判断をしてしまう可能性も高いでしょう。 海外では主さんのような無信仰者や無神論者の方がむしろネガティブに捉えられる国が多く、例えるならば刑事犯罪の前科者や、他人に危害を加えかねない危険人物のように見られたりする為、あまり自分からカミングアウトする人はいないように思います。 日本では無信仰者と言いつつも、全国に神を祀るお祭りがあったり、お寺や神社をお参りして安全祈願、無病息災などを祈ったりする文化が根付いている為、どちらかと言うと無神論者とは程遠く、ほとんどの人は人間を超越する何らかの存在を認識していると言って良いでしょう。
補足
回答ありがとうございます。 私自身自分から無神論者であることを自負こそすれ海外で前面に押し出したりはしませんし、宗教そのものが悪だとは思っていません。 目に見えないものを信じたりそれに根拠を求めたりするのは、それを周りの人間が広く認知しているときこそ健全な拠り所として機能しますが、こと日本国内では異常者と捉えられることが多いように思います。 宗教的価値観の危うさは、同一の宗教的価値観を持たない人々からの排斥を受けやすい点だと思っています。特に日本においてはいずれかの宗教に入っているというだけで、大多数を占める無神論者からは距離を置かれてしまい、多様な価値観に触れることができなくなってしまうように思うのです。 鬱から復帰して、これから健全に生きていきたいと願っている彼女に、偏った価値観しか触れられなくなるような環境に入って行って欲しくないのが私の個人的な意見で、それを危惧しているのですが大丈夫なのでしょうか。
- nonamelane
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宗教は既に世界で大きく名の通ったもの(例えばバチカン)以外は資金集めに躍起になります。人間不信と財政赤字、どちらが本当は人の生活に打撃を与えるでしょうか。私は神を名乗るなら不幸な人から金とるなと言いたい。しかし特に新興宗教は常に寄付するように言います。天国に宝を積め、寄付をすると天国に近くなる、立派な人間になる。 しかし現世で人が必要なのは確実にお金です。その一番本来は裏切らないお金を搾取する、特に不幸、病気、貧しい人から取り上げる、それでどうやって彼らが幸せになれるのか理解できません。そういう人に勧誘者がすり寄ります。友達や理解者のふりをして。弱者ほど出しやすいからです。しかしGod helps those who help themselves.、これこそ真実です。 入信は危険と思います。鬱が解けたばかりでまだ考え方(脳)に免疫ができていません。普通ならおかしいと思える事もそうは思えないでしょう。洗脳され依存になりやすい時期と思います。 社会に出て仕事をして心身の健康を得て’からもう一度考えるようにおっしゃってみては。入れば抜けるのが難しい。薬物を使う(らしい)宗教も多々あります。簡単に考えてはいけないとおっしゃるべきです。
- tetsumyi
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信教の自由で他の人が止めさせる事はできません。 成人ですから自分で良く調べて決めることでしょうから良い方向に進むことを願うことしかできません。 彼女が心配なら自分で何回か参加して話し合ってみてください。 宗教が違うと今後付き合いが出来なくなることもあるでしょうが、それも仕方のないことです。普通それなりの集会等の参加経験と意思がなければ即入信とはならないはずです。
- eroero4649
- ベストアンサー率32% (11074/34516)
こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。 悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう。 柔和な人たちは、さいわいである、彼らは地を受けつぐであろう。 義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、彼らは飽き足りるようになるであろう。 あわれみ深い人たちは、さいわいである、彼らはあわれみを受けるであろう。 心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神を見るであろう。 平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう。 義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。 わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し、あなたがたに対し偽って様々の悪口を言う時には、あなたがたは、さいわいである。 喜び、よろこべ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。 あなたがたは、地の塩である。もし塩のききめがなくなったら、何によってその味が取りもどされようか。もはや、なんの役にも立たず、ただ外に捨てられて、人々にふみつけられるだけである。 あなたがたは、世の光である。山の上にある町は隠れることができない。 また、あかりをつけて、それを枡の下におく者はいない。むしろ燭台の上において、家の中のすべてのものを照させるのである。 ちょっと長く引用しましたが、キリスト教の「山上の垂訓」と呼ばれる有名なお話の部分です。 私は鬱病を患っていたことがありましたが、そのときは聖書のこの部分をむさぼるように読んでいました。そして遠藤周作の「イエスの生涯」を何度も何度も読みました。 それがなかったら、間違いなく私はこの世にいなかったでしょう。私が死ななかったのは、たぶんイエスのおかげです。 ただ私は「ナザレの男が人々に愛を説いて誤解され、処刑された」という事実にのみ強い興味を持っていて、三日後に復活したとか、三位一体となったとか、そういうことは(私の中では)どうでもよく、これが生粋のキリスト教信者とは話が合わないポイントでかつ、どうも日本のキリスト教信者は生まれつきの信心ではない人たちにとても冷たいので洗礼も受けずに個人的な信仰心でやっています。 宗教というのは「心の救い」なのです。質問者さん、宗教を使わずに彼女の心を救うことはできますか。「私はなぜこんなに苦しまなければならないのか」という問いにどう答えることができますか。 科学って残酷なので、科学じゃ心は救われないのです。「海の近くの家に住んでたらそりゃ津波で死ぬでしょ。死にたくなかったらそんなところに住まなければいい」ってのが科学ですから。でもそれじゃ心は救われないですからね。 戦場に行ってきた兵士が、仲間が戦死した、みんなから好かれているいいやつだったのに、なぜアイツが死んで嫌われ者の俺が生き残っているんだといったときに「確率論から考えたら性格の良し悪しは関係ないから、それは運なんだよ、運」なんて答えてもむしろその人を傷つけるだけですよね。 宗教に厳しいルールやマナーがあるのは当然です。質問者さんだって神社やお寺で大はしゃぎすることはしないでしょう。お坊さんにエロDVDの差し入れをするなんてこともしないでしょう。 自分が信仰している宗教であれ、そうではない宗教であれ、そこの教えで決められていることに対しては敬意を払うのが礼儀というものだと思います。犠牲者に対して黙とうを捧げるときにはしゃいでるやつがいたらそりゃ怒るじゃないですか。 「僕はどうすればいいですか?」には、「正解はない」が回答になります。自分の人生の価値観が根底から揺さぶられるような喪失体験もなく、宗教的知識も人生経験も不十分な20代半ばの若者に背負えるようなテーマではないからです。君にはちょっと荷が重すぎるのです。 だってね、貴君の「宗教」の棚は空っぽだから。何も知識がないから答えようがないのです。これを機会に知識を持ってもいいと思いますけどね。仏教でもキリスト教でもなんでも構わないですよ。
補足
真摯な回答をありがとうございます。 仏教については、大学が仏教にかなり詳しい大学であったこともあり、仏教の教義やそのメカニズム、成り立ちの経緯等しっかりと学ぶことができていました。 しかしながら、宗教の成り立ちで切り離せない要素である、心の救い、という部分においてのみ、私の中にない感覚なんです。 実体のない、かつて存在したのかもわからない教義や出来事に心の救いを求めている、という見方にどうしてもなってしまいます。 今あるものが全て信じられず、また頼ることができないという経験をしなければ、心の救いを自分以外の何かに求めるという感覚を得る事はできないのでしょうか。 心の救いというもの自体も、何かに求めるものなのか?という疑問がそもそもあります。私が恵まれた環境で育ち不自由がなかった故に、こういう思考になるのだと思っています。 宗教を否定する前にさまざまな宗教についての本や成り立ちを読みましたが、根本的な心の救いというものを理解していない時点で、どこかホビー書のような見方で私は向き合っていました。 もし入信するという流れになるならば、宗教を軽んじる自分はいなくなるのが妥当に思えます。
一口に、「宗教」と言っても、誠実な宗教、危険な宗教と分かれるでしょう。 出来れば、どの宗教に入信しようとしているのか、この回答の下の「補足」ボタンで教えていただけないでしょうか? ─── 彼女の方は、うつ病だと言うことですね。宗教に入信することで、彼女の心の状態が少しでも改善するならば入信したら良いでしょうし、逆効果ならやめた方が良いと思います。 今は、彼女が入りたいと言っているのですから、しばらく様子を見て声をかけてはどうでしょうか。
補足
あまり人数が多い宗教ではなく支部が限られていることと、やはりセンシティブな話題で宗教様へのバッドイメージを避けるために実際の宗教名は出せませんが、戒律やルールなどはそこまで厳格ではなく、周りを巻き込まなければならない教えなどは見られませんでした。 ですが、宗教に特有な、信者のみがいずれ救われるというような価値観がやはり入っているため、それを盲信するようになると自然と人を勧誘したりするのではないかという危惧があります。
補足
再び真摯な回答をいただきまして本当にありがとうございます。 確かにお地蔵様の例えは非常にわかりやすかったです。神が宿っているとかは正直考えたことないですけども、顰蹙を買ったり誰かが大切にしているだろうと思ったりする時点で、行動的には宗教的価値観が刻まれているわけですね。 一つ疑問があるのですが、回答者様のようにしっかりと教義を理解されて、その教義の意味や信じることそのものの意味を知りながら信仰している方々が多いのでしょうか? 友人の親や父親の知り合いなどは、特に宗教的価値観を深く理解せず、恐らく経典の中身や真意なども知らずに信仰していると思われます。 そういった方々と、回答者様のような敬虔な方とでは、自分のことを無宗教と思っている一般の方々からのイメージは変わってくるのではないでしょうか。 いわゆる、釣られた大衆に彼女がならないか心配なのです。 現時点で彼女が信仰しようとしている宗教について、宗教に対して理解の浅い私の方が知識があります。そして、その教義や真理を理解しようと入信するのではなくて、単純に精神的依存先に選ぼうとしているだけの場合、宗教の思想に毒されるのではなく悪意のある信者に毒されないかという不安があるのです。 回答者様の真摯な説明によって宗教そのものに対するバッドイメージというのは晴れつつある一方で、宗教に依存する方々やそれを利用する一部の信者に対する危険な予感というものは、また別なのだろうと気付きました。 非常にわかりやすく後学の為にもなる回答をありがとうございます。