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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:フェアネスドクトリンについて)

フェアネスドクトリンについて

このQ&Aのポイント
  • 米国の大手マスコミが一方的に民主党を報道していることに疑問を抱いているが、フェアネスドクトリンが既に廃止されていたことが判明。
  • 報道の公平性に対して疑問を抱いているが、日本も放送や新聞が偏向しており、ネット情報が重要だと感じている。
  • フェアネスドクトリンやフェイク報道について考えると、真実を捻じ曲げる報道は公平ではないと感じ、自身では理解できない状況。

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  • staratras
  • ベストアンサー率41% (1498/3648)
回答No.1

「フェアネス・ドクトリン」を撤廃したのは、メディアが多様化した時代の「報道の自由」と相容れないからです。 日本の放送法で定める「公平の原則」も突き詰めれば「報道の自由」とは相容れませんが、新聞・雑誌などと異なり、限りがある電波という公共財を独占的に使用する以上、放送メディアだけがこうした制約を受けることもやむを得ないとしているわけです。 アメリカでも昔は同様の考え方でした。ところが国土が広大なアメリカでは日本以上にケーブルテレビが普及するなどメディアが多様化していきました。こうした新しい電波を使わないメディアは「フェアネス・ドクトリン」の制約を受けませんので政治的な主張でも旗幟鮮明に伝えられ、この新メディアが人気を得るようになると、既存の放送局から「自分たちだけ規制されるのは不公平」という批判が挙がったのです。もともとアメリカでは大統領選挙の際、新聞の多くが社説などで支持する候補を明らかにすることでもわかるように、「自分の立場を明確にして伝える報道姿勢」が好まれるからです。そこで論議のすえドクトリンは撤廃されました。 この結果政治的な公平性は求められなくなり、保守よりでも、リベラルよりでも、アメリカの放送局は自身の判断で自由に立場を決めることができるようになり、視聴者も自分の立場に近い放送局のニュースを好んで見るようになりました。 アメリカの「自由」は半端ない自由です。例えば憲法が「市民が銃を持つ権利」を認めていると信じる国民の中には「一切の銃規制に反対する人」が少なくありません。こうした人たちも「現実に銃を使用した多くの犯罪が起きている」ことは否定しませんが、「悪いのは銃を悪用する犯罪者であって、銃そのものではなく、そのことによって善良な市民が銃を持つ権利を規制されるべきではない」と考えるわけです。「市民が銃を持つ権利は否定しないが、現実に多くの生命が銃によって奪われている以上何らかの規制が必要」とバランスを考える現実的なアメリカ人ももちろんいますが、銃規制は進展していません。 「報道の自由」も同様で、報道の自由を貫徹するうえで桎梏となるならば、「公平の原則」などは要らないと考えるのです。このアメリカの放送のあり方と放送法の「公平の原則」がある日本の放送のあり方とどちらが良いかは一概には言えないと思います。確かなのは日米両国だけでなく、世界各国で放送はその国の歴史や国民性に対応したシステムとなるということです。 こう考えると、放送法があるから日本人が放送に「公正・公平」を求めているのではなく、日本人が放送に「公正・公平」を求めるから現行の放送法になっていると考えるべきでしょう。もっと言えば、これは放送に限らず日本人の多くが新聞なども含めて報道機関に求めているものであり、そのことを報道機関側も理解しているから「放送法」のような規制がない新聞も「公正・公平」を標榜し、選挙の際に支持候補を明らかにすることを避けているのです。 「フェアネス・ドクトリン」も同様で、これが撤廃されたからアメリカの放送局が「偏向」したのではなく、アメリカ人がそもそも放送に「公正・公平を維持すること」よりも「自由を求めている」から撤廃されたとと考えるべきでしょう。日米のどちらか一方が正しくて他方が誤りというものではなかろうと考えます。 ただしこれはあくまでも「事実を報道する上での自由」のことであって、「事実関係も恣意的に決められる」という意味ではありません。事実に基づかない「フェイクニュース」は、政治的なプロパガンダが優先される一部の全体主義的な国以外の民主主義国ではどこでもダメなことは言うまでもありません。

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