批判は嫉妬から出ることもありますが、実際は困っている人の悲鳴でもありますし、次に違うことをするために必要なことでもあります。
数年前ですがTwitterで「保育園落ちた。日本死ね」といった言葉が広がったのは、子どものいる家族からの悲鳴だと思いましたす。
「用意された保育園の人数枠が少ない→保育園に子どもを預けられない→両親が働けない→子どもと両親がともに困窮、親のどちらかが仕事を失ってプライドが折れる、その上子育ては相変わらず大変」という未来を考えて絶望と憎悪から出た「保育園落ちた。日本死ね」はまさに、悲鳴だと思います。
もし、個人が「死ね」と言われたら、かなりきついですけど、でも、辛い状況を訴える悲鳴だと思うんです。
罵倒は言われる側が尊厳を踏みにじられたと感じるときに言われる側から出てくる判断です。言う側が「罵倒してやった」と言っても相手が何とも思っていなかったり無視したら罵倒にならないと思います。
嫉妬心の解消(実際は、どんどんハマる)のために、無視されることまたは傷つけることを前提として批判とそれ以上に尊厳を踏みにじる言葉を言うことはあると思います。
相手の成長を願わない場合は何も言わない。
相手の成長を願う場合は批判をする。そして、できるだけ罵倒をしない形でした方がいいでしょう。
批判を含めた発展的な議論ができることは、社会でやっていく上では必要なスキルではないかと思います。
政治などもそうです。庶民からの批判を権力者が無視すれば、批判を重ねるほかありません。逆方向へ強く引っ張る言葉を重ねることになると思います。
批判意見の発信は、味方に向かって「現在の権力者は批判を受けるような権力者である」ということを説明することで、問題の本質を知らせ、次どうすればいいかを考えるきっかけであり、人気を下げて、選挙で落とすことにつながるということになると思います。
批判自体は社会の進化に必要なことです。
しかし、大人の年齢なのに精神が弱い人は「批判意見を重ねること=罵倒」と受け取ってしまう可能性がある。批判意見は相手の気持ちを突き放すわけですから、無条件に気持ちが通じ合っている世界に生きたいと考える人相手に批判をすれば、大変なダメージを相手に与えることになります。
言われる側が批判意見を継続的に無視することがありえます。
批判1つで大ダメージをうける相手が自分の給料に直結する評価を決める部長などであったら、いかがでしょうか。現場として当たり前になっていることに間違いを見つけたら、発言するでしょうか。
「批判意見+代案ならいいですよ」と言ってくれているなら、代案を設け、代案の提案をすればいいと思います。
それは相手に対して考える余地を与えること、時間を与えてカッコ悪く着地しないよ地を与えること、断る理由をつくる余地となることでもあると思います。
「批判意見+代案ならいいですよ」すら無い相手については、やっぱり、率直な批判を本人ではなく周りに伝えて、人気を下げて、いろんな意味でその人が選ばれないようにしていくという方法しかなくなる着がします。