昔から「金持ちがすべてえらい」などとは考えられてはいません。
論語にも「不義にして富み且つ貴きは浮雲の如し」とあります。「悪銭身に付かず」というか、不正な手段で金もうけをして社会的地位を手に入れても、それは浮雲のようにはかないものだという意味です。
では、「義にして富み且つ貴き」(数は多くないかもしれませんが)はどうなのか、そこがポイントでしょう。回答者は、金持ちが偉いかどうかは、「不義」でないことは大前提ですが、その条件を満たしたうえで納税も含めてそのお金の使い方次第で決まると思います。それは寄付や社会事業というようなことだけではなく、高価な伝統工芸品を購入して結果として芸術・芸能を支援するようなことも含めて、「富に見合うだけの、直接・間接の社会への貢献をしているか」ということです。
明治37年に煙草が専売制度になる以前、民間の煙草会社が競争していた時代がありましたが、当時「天狗煙草」という会社が「驚く勿れ税金が三百万円」「慈善職工二十万人」という広告を出して世間の話題となりました、税金を300万円も納め、労働者を20万人も雇用して社会の役に立っていると言いたいのでしょう。
この数自体はさすがに誇張のようですが(「驚く勿れ税金がたった百万円」「慈善職工 五万人」というバージョンなどもあります)、納税額の高さや雇用者の多さを社会にアピールする姿勢は、企業家が様々な節税策(中にはタックスヘイブンの活用なども)で納税額を極力低く抑え、また様々な手法で雇用者の数を減らすのを当然視する現代人の目にはかえって新鮮に映ります。
もっとも選挙権が高額納税者の男子だけに与えられていたように「金持ちは偉い」という考え方がある意味では公認されていた時代でもありましたが、それは別の面からみれば「金持ちには社会的責任がある」ということでもありました。
現在選挙権が、日本国籍の18歳以上のすべての男女にあることは進歩ですが、「金持ちには社会的責任がある」という考え方は残念ながら薄れてしまいつつあるようです。