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脱水症状の選手を助けたのは美談と言えるのか?
ドーハの世界陸上で、男子5000メートル走にて、ギニアビサウの選手が脱水症状を起こした選手を手助けしたことが美談として報道されていますが、これは本当に美談と言えるのでしょうか。 助けられた選手は、他人の助けを得たことで失格になりました。本人は助けてくれた選手に感謝したと言いますが、もしかしたら「余計なお世話だ」と腹を立てた可能性もありますから、助けない方が賢明だったではないですか。 それに感謝を表明していますが、もしかしたら内心では「余計なお世話だ」と腹を立てているのかも知れません。
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君は関係ない。 君こそ「余計なお世話だ」。
- koncha108
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人助けというのは危機に瀕した人を目の前にしたときにあれやこれや考える前に本能的に身体が動いて助けるから美しいんじゃないでしょうか。 もし、助けた選手が失格になってそれを恨みに思って非難したり、競技委員から起こられたとしても、その選手の善意と選手への賞賛は変わらないと思います。
- g27anato
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そのうち、 脱水による死者が出たらハッキリするんじゃないかな。
お礼
死者ならもう出ています。 1912年のストックホルムオリンピックのマラソンで、ポルトガルのフランシスコ・ラザロ選手が途中で倒れて翌日死亡しました。死因は脱水症状と推測されています。もちろん彼の場合は、今回 事例とは状況が違いますけれど。 フランシスコ・ラザロ選手のマラソン途中での死亡のエピソードは、今NHKで放送されている大河ドラマ『いだてん』でも描かれていたから知っている人も多いと思います。
- hiodraiu
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美談かどうかは、自分の感性が決めることだと思います。 助けられた選手が、どう思っていたかなんて関係なく、脱水症状の人間を助けたことに対して、ごく当たり前の行為をしたって考えれば美談でもなんでもないですよね。このごく当たり前の行為を美談と感じる人もいますよね。質問者様のように助けた側の思いよりも、助けられた側の思いに重点を置く人もいますよね。このどれも間違いではなく、そう感じる人がいるってだけの話ですよね。 だから美談として報道されるのも間違いでもないと思いますよ。
- potatorooms
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箱根駅伝で定期的に話題になるものですね。 止めても非難されるし、手を出して棄権させても非難する人はいる。 脚を骨折しても這ってでも中継点にたどり着きたい、後の選手生命は要らない、という選手の意向を尊重した場合、それってアマチュアスポーツと言えるのか、という考え方もあります。 オリンピックで日本の選手が脱水症状でふらつきながらゴールしたのを日本のマスコミは美談として伝えましたが、非難する人たちもいたんですよね。 本人の健康、安全以外にも、後ろに追い越そうという選手がいる状態で蛇行したら、健康な選手でしたら進路妨害で反則なわけで、体調が悪いならOKでよいのか、という考え方もあるわけで。 手助けという形で進路から排除されても仕方がない、という見方もできないわけではありません。
- yaasan
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脱水症状ってのはあまり目にすることがないから、大したことがないとお思いなのかも知れませんが、命に関わる状態になりやすいとても危険な状態なのです。すぐにケアをしないと死んでしまう可能性があっという間に高まってしまう大変な状態なのです。 選手はあれだけの記録を出すために追い込んで練習をしているので、経験していて、その怖さを体で知っているのかも知れません。 大会の役員が助けに入るでしょうが、まずは一番近い選手がケアをしてあげるのが、最善なのです。 故にすぐに助けに入ったのでしょう。ケアされた選手はその行為で失格になりましたが、ほっといて命の危険が高まるよりはその方が良かったと思ってるでしょう。助けた方の選手もそれだけ記録は落ちるわけですから、本当は助ける意味はそんなに大きくないはずなのです。 美談美談と騒ぐのはいかがと思いますが、あれがスポーツマンシップの鏡だとは思います。 余談ですが、昔オリンピックだったか、女子マラソンのゴール前で脱水症状でフラフラの選手が頑張ってゴールしたという事がありましたが、あれこそ美談にしてはいけない事例だと思います。彼女の生命力がたまたま強かったから、美談にできますけど、最悪の悲劇になった可能性もあります。
お礼
1908年のロンドンオリンピックのマラソンで、ドランド・ピエトリ(Dorando Pietri)というイタリア人選手が、ゴール直前でフラフラになっているのを係員たちが助けてゴールしたために失格になったいう有名な話があります。1984年のロサンゼルスオリンピックの女子マラソンで、スイスのガブリエラ・アンデルセン選手がゴール直前で熱中症でフラフラになりながらゴールした話も有名ですが、あのときにガブリエラ・アンデルセンを係員たちが止めなかったのは、1908年のドランド・ピエトリのエピソードが頭にあったのだと思います。 今回の世界陸上の5000メートル走でも、大会の役員たちは「助けなかった」のです。もし自分たちが助けたら、きっと陸上競技に詳しい人たちがドランド・ピエトリの例を持ち出して非難しただろうと思ったのだと思います。
- roadhead
- ベストアンサー率22% (852/3790)
それは他人がどうこう言う話ではありません。 目の前で困っている人がいたら助ける。 それって美談とかではなく人間として当たり前の事です。
お礼
きっとご存知だと思いますが、1908年のロンドンオリンピックのマラソンで、ドランド・ピエトリ(Dorando Pietri)というイタリア人選手が、ゴール直前でフラフラになっているのを係員たちが助けてゴールしたために失格になったいう有名な話があります。ですから長距離走でフラフラになった選手を助けることには多くの陸上競技関係者が抵抗感を持っているはずです。
- okwavey3
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こういう問題は、どちらか1つの答えに無理にしようとせず、どちらの考え方もあると結論付けた方が正しいです。 ですので、あなたの質問内容そのものが正しい考え方であり、美談に偏った考えが間違っています。 単純にマスメディアからしたら美談にした方が話のネタとして使いやすいから、その方が都合がいいと言うのが現実的に考えられるところだと思いました。 助けてもらった選手の方も、本当は腹を立てていたとしても、感謝した方がメリットがありますし、失格の事実は変わりません。
お礼
脱水症状を起こした選手本人が自発的に棄権すれば良かったのでしょうけれど、本人はゴールまで行こうとしていたようです。
お礼
あなたは不愉快な人です。 あなたをブロックします。 もうあなたにお目にかかりたくないです。