>重装備を箱根を山越えさせるのは大変だったと思うけど。
>荷物は迂回させて回路運んだ?
これについて考えてみました。戊辰戦争で主力となった大砲は、フランス製の四斤山砲でした。山砲というのがミソで、バラして運ぶことができるのです。
で、単純に東海道を進むと考えても、箱根の山の他に富士川や天竜川といったような橋のかかっていない大河川がいくつか存在したので、基本的には東海道ルートを辿った砲兵隊は四斤山砲をバラして馬か人足(当時の馬は貴重品な上に蹄鉄を履いていないので重装備の輸送に向いていなかったので、多くは人足ではなかったかと推測します)で運んでいたのではないかなと思います。ただしこれは先行隊に追随する最前線の部隊だけで、後続の部隊は大阪と江戸を結ぶ菱垣廻船を利用したのではないかなと推測します。
大砲の本場ヨーロッパでも、大砲、とりわけ大口径の攻城砲とその弾薬は船によって運ばれました。なので西ヨーロッパってものすごく運河が発達しているのです。確かパリからアムステルダムまで運河だけ辿って(海に出ないで)船で行けたはずです。なのでむしろヨーロッパの軍隊は運河ぞいじゃないと進軍できないって事情もあったのです(運河は大砲やその弾薬だけではなく、軍馬の飼い葉などの輸送の役割もありました)。
あとは中山道、甲州街道から江戸に向かった部隊もあったので、それらの部隊は中山道、甲州街道沿いに輸送したと思います。特に中山道は上州(群馬)にさえ出られれば、そこからは荒川と利根川で船を使って江戸へ運べたので楽だったでしょう。もしかしたら、砲兵隊は嵐による沈没の危険がある東海道海運ルートより、相対的に道も平坦で渡河が少なく河川運送も使える中山道ルートが主流だったかもしれません。あの和宮妃も中山道で江戸に来ていますからね。
お礼
詳しい回答ありがとうございます。和宮の婚礼行列は3万人で通過に4日かかったとか 新撰組の鎮武隊は大砲を小荷駄にして運んだとか 断片的な記載はありますが 東征軍の全体的な様子はよく分かりませんね。 兵隊も3直2交代だったのかどうかも不明。この交代方式は全数の1/3が実働で2/3が休憩睡眠中 という感じですが
補足
甲乙つけがたいのでベストを選ばず終了します。 4斤砲って砲弾の重さでしょうが食パン4ブロック分てのは大したことがないような、と思えます。 160×4で640g? 鹿児島で時限信管のついた砲弾を見た記憶がありますが、あれは当時使われたのか?