>机に座って真面目に考えた掌小説(濡れ場のない不倫小説です 前にも投稿しただろって? あ、そうでしたっけ)
耀子は身体をこわして2~3日会社を休んでいた。
私は和田堀の耀子の家の近くまで見舞いに行った。狭い道幅の明大前の駅前の通りを歩くと程なく幹線道路に出た。本願寺廟所のあるあたりは、山木や楢の雑木林がすこしばかり残っていてバス通りからさらに一つ入ると 細い路地に家屋の立ち並ぶ静かな一角だった。
昔は用水路であったであろう古い小川に沿って植えられた欅の古木が、大きな枝葉を拡げていた。雨上がりの午後の日差しが若葉の隙間から木漏れ日となって、橋の袂にまだら模様の影を落としていた。通りの角には すでに廃屋となった町工場があって、廃材の鉄屑やコンクリートブロックが忘れ去られたように積まれてあった。
あたりの人影もまばらで、ときおり犬を連れて散歩する夫人の姿や、バス停にむかう老人を見かける程度だった。
橋の手摺に腰掛けて耀子を待った。
電話の声は、思いの外元気だった。
「ごめんね。出てきても大丈夫だった?」
「もうだいぶよくなったわ。明日は会社に行くつもりだから」
「顔をみるだけでよかったんだ。これを渡そうと思っていただけだから」
私は木箱に入ったカステラの包みを渡した。
「ありがとう。お茶でも飲みましょ」
そう言うと 耀子は歩き出した。
人目を避けて家から離れたファミリーレストランに入った。
朝から何も食べていないという耀子のためにリゾットを頼み私はビールを飲んだ。
「ごめんね。君の身体のことまで思いが至らなかったよ。以前も調子を悪くしたことがあったよね。毎週 あんな不規則な生活をしていたら、それに子供の母親でもあるわけだし」
「そうね 少し疲れがたまっていたのかも知れないわね」
耀子に少しでも優しくしてやりたかった。
「なんにもしてあげられなくてごめん」
「そんなことないわよ。あなたは いろいろなことをしてくれているわ。」
「こういう時に そばにいてあげられないのはつらいね」
「もう少し待っていて そうすれば子供達も大きくなるし」
それは、私が家庭を持たずに生きていくことが困難であるということを耀子が見透かして言った慰めの言葉のようだった。
「俺だって 自分の子供がまだ大人になるまでは、責任があるよ。収入は人並みにあっても、子供達のために大半を費やさなくてはいけないだろうし。」
「だから 丁度いいのよ。
あなたはお子さんたちが大人になるまで 私は子供たちが手がかからなくまで、丁度10年あるのよ。その間は、ずっといまのままでいられたら、それで私は幸せよ。
そこまで いまのままでいられるかもわからないし、その時になって考えればいいことなのよ。」
妻子ある男が独身の愛人に言う身勝手な言い訳のようだった。
しかし8歳年下の夫との生活がこの先平穏に続いていく保証はどこにもなかった。羽田は、ベンチャー起業家とは名ばかりのフリーランスのシステムエンジニアだった。企業との契約を未完成で途中解除してトラブルを起こしたり、夫婦で分担しているはずの駐車場代金や公共料金の支払いを数カ月滞納したりして始終耀子を不安な気持ちにさせていたらしかった。あげくに知人から借金もあるらしかった。おそらくは羽田の親が時々援助しているのであろう。
そんな思いに気付かぬ様子で、耀子はゆっくりとリゾットのスプーンを口に運んでいた。
私の中には、ふたつの思いがあった。情念と官能で心が燃え尽きるまでの充足を求める思いと、ゆっくりと静かに満たされていく平穏を希求する思い。時間をついやすことでその双方を手に入れることができるかもしれないことに、私はまだ気付いていなかった。
レストランを出る頃には、あたりは夕暮れの気配につつまれはじめていた。
「こちらの道を行ってみない?」
そういって、明大前とは反対方向に耀子は歩きはじめた。細い住宅街のゆるやかな坂道をふたりで並んで歩いた。古い家並みの間に時折、コンクリートの箱のようなモダンな住宅が姿をあらわしたかと思うと、電柱の影から猫が飛び出して、児童公園の草陰に消えていった。壊れかけた築地塀の向こうに、小さな寺の墓石がいくつも並んでいるのが見えた。
五月雨を降らせた雲は 五月の風に吹かれてとぎれとぎれになり、沈みはじめた太陽の茜色の光をうっすらと滲ませていた。私たちは、いつしか手をつないで 言葉もかわさすに歩いていた。
「なんだか 高校生のデートみたいだね」
感傷的な気持ちにとらわれていく自分を恥ずかしく思い、私は口をひらいた。
「こういうの 嫌い?」
怪訝そうな顔で、私を見つめて言った。
「そんなことないよ なんだか懐かしい感じがする」
「わたしは好きよ。歩いてみたかったの」
そういうと、子供がするみたいにつないだ手を大きく前後に振った。
「さあ ここまでね。 ありがとう元気になったわ」
気が着くと、目の前に小さな駅舎があった。
「切符買ってあげるわね」
そういうと耀子は、さっさと自販機にかけよっていた。
改札口を出たあとも いつまでも耀子は立ち去らずにいた。
電車が来るのを見届けて、耀子は小さく手を振った。
カステラの木箱の入った袋を胸に抱えたまま、はにかんだように微笑む姿は本当に高校生の女の子のようだった。
お礼
こんにちは。 流石、街並みや自然の描写が上手ですね。 自分もそこに住んでみたいとか、愛人を住まわせたいとか思いました。 ただ、お二人の事は多少知ってるので、何処までが創作かなのかと考えながら読んでしまうのは、仕方無いですね。 それと人生経験豊富な2人が、高校生の様に手をつないだだけで別れるのは、いかにも物足りないですね。 それで勝手に付け足しました。 「耀子が見えなくなると、先程までつないでいた手を見つめて、そっと指先の匂いを嗅いでみた。 すると、高校生とは違った大人の耀子が思い出されて、このまま帰るのを後悔した。」 失礼しました。