やらないであとでぐちぐち言い、やってればこうだったとかそういう釣り落とした魚は山ほどの大きさだったみたいなことを言いまくっているおやじが電車なんかにすわってることがありますね。
やったけどこの不運でだめだった、このときはこのアンラッキーが原因で、とやったけどすべて不発におわり、全部人のせいにしているおっさんも飲み屋なんかでいます。
稲盛和夫がどうだとか孫正義がどうだとか、一応成果をだしてきたと思われる人物名を出しぼろくそに言ってじぶんだったらああはしないみたいに演説をはじめるやつもいて、これはバーなんかでしばしば見ます。
こういうのは日本人に多いんです。理由は簡単で、聞いてくれるひとがいるからです。日本人は「成果を出さない人間」の言うことを聴く余裕を持っている珍しい国民なのです。いやだなとか馬鹿だなとは思っても逃げないで聞いている。
どういうことかというと、「努力点」を意識するということなんです。
こんなもん、ノーベル賞にもイグ・ノーベル賞にもありはしないけど、学校とかでは努力賞というのが与えられます。本当にしがみついて努力したならいいんですが、毎日出席しただけでレポート1部も提出しない人間でも努力賞、なんていうおざなりな賞状をやったりするんです。
この発想は日本以外の国ではありません。中国もそうですけど、ヨーロッパでも北欧でもロシアでもアメリカでもあり得ません。仕事をしない人間は最初から評価対象として外します。こちらのほうが当たりまえです。
さて、日本は従来起業しようとすると大変なことで、発起人を7人立てるため友人や親せきに頭を下げ事業計画を話しみとめてもらったら発起人は初期株主になりますのでひとりいくらいくらお願いし、登記書類に実名で署名実印押印をしてもらい印鑑証明をいただいて、資本金を銀行にあずかってもらい、預かり証を登記書類に添付して公証人のところにいき、認定をしてもらったうえ登記所に行き、商標が適切かどうかの審査を受けて合格して、はじめて会社になりました。
で、発起人たちが株主会になるのです。
当然ですが、いい加減などんぶり勘定なんかやっていても株主が見ています。
不慣れなんだから許してね、は通用しません。どうかすると、「あいつは賢い子だとおもってたが違ったか」なんていわれ親が蔑視されたりすることにもなりました。
いつまでで努力おしまい、はあり得ない。それは税務署のおかげなんで、一度税金を支払うと予定納税という請求がきます。来年の税を先に払っておけ、です。
もちろん来年はそうたいした儲けがでなかったので還付してほしいはあり得ますが大体毎年同じ程度のもうけを生み出すシステムとして未来永劫に回し続ける必要があるということになってしまうんです。つまり国税は休むことは許さず、唯一死ぬときだけ目をつぶってくれるというしくみなんです。
時に、中国は、何もしなければ餓えて死ぬだけです。社会福祉にぶら下がることもできませんし就労困難者を支援する施設もないことはないけど、飼い犬以下の扱いになります。しかし、資金さえもっていれば開業するのはきわめて簡単です。資金も持っていなくても開業は可能です。スクラップみたいにその辺に置かれているものを所有者確認なんかしないで拾い集め、売り飛ばせばいくらかになります。その手の、ヨーロッパなんかだったら即問題になりそうなことをやっても煙もたたないような国ですから、やり放題です。
だけど登記所できちきち事業計画なんか説明したりしていませんからいったい何するかなんていつまでに決める必要なんかありません。どんどんやることが変わっていいんです。
ものによっては誰それさんというエライさんに付け届けをして許可を得なければならないようなことはつい最近まであったんですが、そういう地位を利用して利を得るようなことを習近平が次々に摘発取り締まりしましたから、いまはだれさんのご機嫌を取る必要がなくなりました。
やりたいことを好き放題にやればいいんです。
そういう風にやっている商売だったら興味が失せたり体力が衰えたら辞めたらいいじゃないですか。そこまでためてきたお金はオーストラリアにもっていって保持すればいいだけです。商売をやめるあたりでオーストラリアに移住したら、あとは南国で隠居生活がまっているだけです。
なぜ20年後に自分の商売を続けている必要があるんですか。かれらはそう思うでしょうね。元気で、必要があるときに商売を始めて元気なうちに稼ぎまくったんです。何が問題なんでしょうか。