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現代夫婦は家族に尽くす気概が薄れたのか?長文です
朝日新聞デジタルに離婚のことが特集されていたので読んでみました。 https://news.yahoo.co.jp/story/924 私は9人兄姉ですが、全員が戦前生まれ、両親共明治生まれでした。私を含め、9人全員離婚せず添い遂げました。ここ20年3組に1組の離婚率が続いているとのこと。 戦前世代は離婚が少なく、現代は離婚が多い。どこに違いがあるのかと上記の記事を読んでみました。 先進国はどこも離婚が多いですが、家族よりも自分のことを第一に考えるということが共通項ですね。アメリカにもヨーロッパにも知り合いがいるので、色々話す中でそういう風に結論しています。 家族を第一に考えるとは例えば次のようなことです。 上記朝日デジタルの記事で離婚に至った夫婦の例が載っています。 %%%%%%%%%%%%%% 「きっかけはお金でした。妻に一任していた金銭管理は、転職で収入が増えても「小遣い2万円」のまま。クレジットカードを使うことは許されていましたが、飲み会などの出費は嫌みを言われるようになりました。子育てや家事を巡ってもたびたび口論に。「ケンカするたび、妻からは『離婚する』と言われていました」」 %%%%%%%%%%%%%%%%% 私には小遣いなどありませんでした。弁当持参で3時休みのコーラ代だけしか使いませんでした。もし、小遣い2万円を与えられているとしたら、出来るだけ使わず家族に回そうとするでしょう。家族に回すお金を最大限にしようと努力していましたから、飲み会などには殆ど参加せず、しかし職場ではむしろ仕切っていましたから、付き合いが悪いとかの陰口など誰も言いませんでした。もし誰かが付き合いが悪いとか言ったら、その人間に向かって「じゃあ、お前が飲み会代を出してくれるのか」と食ってかかったでしょう。 子育てや家事を巡ってもたびたび口論したのは私も同じです。しかし、それで離婚をしようとは思いませんでした。夫婦が異なる意見を持ってるのは当たり前だと思っていたのでしょうか、離婚の考えなど露起こりませんでした。 当時は無意識、何も考えずに働いていましたが、今思い起こして、現代の夫婦などと比べてみると、家族のため(妻と子供たち)に全力を尽くすのが当然と思っていたようです。妻や子供の幸福が第一と思っていたようで、不倫など論外でした。 家族に尽くすということが生き甲斐になっていたようでした。その強い気持ちがあると、日常の夫婦喧嘩などいくらやっても離婚とは無関係でした。妻が他界した数年前までその生き甲斐は続いていました。 アメリカでもヨーロッパでも自分中心の考えをする人間が増えたと言います。 私は末っ子なんですが、兄や姉達を見ていると、自分のことよりも確かに家族に尽くすという傾向が強いですね。 今ひとつは、配偶者を愛してないですね。私は妻を深く愛してましたから、妻が傷つくに違いない不倫など考えもしませんでした。今、日本が不倫大国と言われるのは互いにパートナーを愛していないからそういう事が出来るんでしょう。 しかし、3組に2組の夫婦は離婚しておりません。従来通り家族に尽くす気概を持ち続けておられるのかも知れません。 戦前型の夫婦が必ずしも、妻の犠牲の下に離婚が許されなかったからというのは当たっていないと思っています。長くなりますのでこの辺で・・・ 現代夫婦は、家族に尽くす気概が薄れているように思うのですがどう思われますか?
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- E-1077
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#2です。補足をありがとうございます。 >>少数例を持ち出すべきではない と、あなた自身が述べているのに、小学校時代に周りを見渡してもいませんでした。と、自分の体験だけで論破しようとするのは、矛盾していませんか? 離婚しない人達の理由は、経済的に自立できない、依存がある、などもあげられるでしょう。勿論絵に書いたような幸せなカップルもいるでしょう。 ヨーロッパにおいての統計による「些細な事」で離婚するのは可笑しいですか? 結婚して添い遂げるだけが幸せな事ではないという実績があるだけに、貴方のいうところの家族に尽くすとか義務だとかはもはや必要のない認識なのかもしれない、と書いただけです。 1つの意見であって、納得出来ないならそれはそれでいいのでは? あなたは補足欄やお礼文で相手を否定しています。これは質問ではなく、あなたの持論の押し付けです。 なぜ離婚する人としない人がいるのか? 離婚しやすくなった時代になったから。 と、私は考えて2度目の回答を終わります。 納得出来ない意見(回答)を何故?どうして?と検証出来ないなら、この手の質問はしない事があなたの持論が崩れなくて良いのでは?
- nonamelane
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全てが電子化されつつあり、勘違いする人が増えてもおかしくありません。給料が振り込みになってからそれぞれの立場があいまいになっていないでしょうか。子供も誰がお金を稼ぐか分かっているでしょうか。家の中でリーダーとしての立場は誰が取るべきか、取れるか、家族は運営と思うので、それがあいまいになれば崩れていく気がします。質問者様の場合は互いに頭脳や精神面、価値観や常識のバランスがとれていたので共存共栄が成立したと思います。が、離婚に関しては、私はあまりにもレベルが違う場合はやりなおしがあって良いと思います。個人主義と言われればそれまでですが、それまでの長い時間に培われてきた能力や価値観があまりにも合わない、レベルが違いすぎる場合、それからの人生の時間で譲り合えるまでなおせるかどうか疑問だからです。愛と言う妄想が冷めたときが怖い。それに付き合うのも自由ですが、何かを失う気もします。私自身は相手の不倫で離婚を選びました。夫婦仲は全く問題がないように見えたのが逆に失望につながったからです。私は次のステップに進むために離婚は選択して良かったと考えています。尽くす以前に、尽くすべき相手であるかどうかが私の判断基準になります。その分の愛情を子供に注げて良かった。子供の成長結果を見ても、離婚して良かったと考えています。
- zabusakura
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やはり離婚が多い少ないは時代も大きいのでは、ないでしょうか? 昔は女性は結婚して家庭に入るのが当たり前で収入の無い身なら 離婚したくても出来なかったでしょう。 離婚しても世間体が・・・ということが大きければ実家にも 帰れなかったでしょうし。 家事、育児を男性がしないのが当たり前で亭主関白も当たりまえ。 どこも同じような家庭です。 手を上げられることも多かったのでは、ないでしょうか? それでも、よそも同じようなものと我慢されてた女性は 多かったと思いますよ。 浮気なんて昔も今も、そんなに変わらないと思いますよ。 昔は浮気は男の甲斐性ぐらいなもんで、妻が我慢していただけだと 思います。 親や祖父祖母世代に聞くと「浮気の1回や2回、どこの家でも有る。」と 笑い飛ばされるくらいです。 勿論、個人主義が強くなったこともあるでしょうが、共働きにもかかわらず 家事育児をしない男性が多く、離婚されても仕方ないと思うケースが多いと 思いますよ。 結婚しても、いつまでも子供と一緒。母親が全部していたから 何も出来ない。衣食住は人間として最低限のことだと思います。 にもかかわらず、出来ない、しない人は(勿論、夫婦間で、それで OKなら、良いと思いますが)結婚したら、そりゃ別れるでしょって 思います。 精神的に未成熟な人が増えたような気がします。(男女とも) 離婚しても養育費を払わないなんて、いい例だと思います。 子供の親としての自覚があれば、払うでしょと思いますが。 結婚にメリット、デメリットとか言う人が結婚したら、そりゃ離婚するでしょうとは 思います。 0123gokudoさんは、きっと良いパートナーの方に恵まれ、お幸せだったんだと 思いますが、 戦前型の夫婦が必ずしも、妻の犠牲の下に離婚が許されなかったからというのは 当たっていないと思っています。 は女性目線からすると、我慢の下で成り立ってた家が多かったんじゃないかと 思います。 その我慢をしなければいけない理由が少なくなったのも離婚が増えた理由の 一つだと思います。 勿論、個人主義が強くなったのも有るとは、思いますが。 我が家は「パートナーが良ければそれで、いい」とお互い思って生活していますが そういう家庭は珍しいとは感じます。 そこまで誰かを愛することが無いのかなと思います。
お礼
回答ありがとうございます。 >浮気なんて昔も今も、そんなに変わらないと思いますよ。 今数字は示せませんが、経験則から言うと、昔の夫で浮気するのはごくごく一部、だって私の見渡した限りでは一人もいません。私は自分の思い込みよりも客観性を重視する人間ですから、あなたの祖父母とは違います。小学校から高校まで数千人いた学校内で妾の子はたった一人でした。両親の名前が名簿に載るので、妾の子は父親の名が載らないのです。多くの男が妾を持っていたというのは全くの間違いです。 >戦前型の夫婦が必ずしも、妻の犠牲の下に離婚が許されなかったからというのは 当たっていないと思っています。 は女性目線からすると、我慢の下で成り立ってた家が多かったんじゃないかと思います。 これに関しては先ず、会田雄次は次のように書いています。 「戦前は姑=自我、嫁=犠牲だ」という図式が戦後、設定されたが、事実はそんなに簡単なものではない。私は戦後の日本人の、旧日本の家庭というものに対する根本的な誤解はここにあると思う。つまり、主人だけに自我の主張が許されていた。家族はこの主人に隷属しただけだ。特に妻は、その代表であり、旧日本の家の犠牲者だった。そういう見方である。 戦後の教育しか受けていない貴方がそういう見方をするのも無理はないのですが、余りに単純です。 戦後、瞬時に古い価値観を捨てアメリカから移入した価値観を識者が率先して広めました。そうして大多数の日本人が新しい価値観で全てのものごとを考えるようになりました。 私の両親は明治中期の生まれで、二人の夫婦関係はよく覚えていますが、母親は隷属も我慢もしていませんでした。いつも鼻歌を歌っていました。嫌なことは嫌と言ってました。勿論全ての夫婦関係を観察したわけではありませんが、会田氏の見方が正しいように思います。
- inuusagi_8
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>現代夫婦は、家族に尽くす気概が薄れているように思うのですがどう思われますか? 質問者様がたまたま愛情深い方で、たまたま奥様もそうだったから良い夫婦関係を築くことができたのではないでしょうか。 家族に尽くす気概さえあれば、家族から愛されるとは限りません。 >今思い起こして、現代の夫婦などと比べてみる うまくいった成功型モデル(自己愛フィルターあり)と、現代のうまくいっていないモデルとを比較して、ここがいけないと言われてもそもそも比較条件が間違っていると感じます。 比較するならば、質問者様の時代の成功モデルと、現代夫婦の成功モデルとを比較し、質問者様時代の家庭内幸福度がどの面から見ても圧倒的に優位ならば、 そこではじめて世代間の違いについて検証、となるのではないでしょうか。 質問者様が幸福な結婚生活を送られたのだなというのは大変微笑ましいことですが、現代にも愛情を持って家族を思い暮らしているご家庭はいくらもあります。 パートナーを愛する気持ちが薄い、愛していれば離婚など考えない。 それはそうでしょう。 だけど尽くしたから愛情を受け取れるとも限りません。 ですがそれは時代は関係ありません。 それは自分も相手も同じような愛情深さを持っていたからこそ実現しているわけです。 離婚を考えたこともないくらい相手を愛しているというのと、 子供を愛しているからこそ相手とは離婚しない方が良いというのとが、 同じレベルで「離婚しないのは家族に尽くす気概のあるなし」として語られていることには違和感があります。 家族思いは良いのですが、 >職場ではむしろ仕切っていましたから、付き合いが悪いとかの陰口など誰も言いませんでした のような「家族以外にかける情けなし」という態度も質問者様の自由です。 これが社長や取引先の会長命令でも付き合い拒否とかなら気概があると感じられたのですが、弱い立場の人間に強く出て「家族の幸福のために努力した」というのは何か意味はあるのでしょうか。 きっとご家庭では愛すべきお父様、お爺様でいらっしゃることと思います。 これからも奥様を大切に、どうか現代の家族については温かく見守って頂けると有り難いです。 現代にも愛し愛されという素敵なご家庭はありますので、 そういった方々からは共通点も見つけられ、これまでのご自身の生き方を強く肯定できることと思います。 ちなみに私は気概などは持ちませんが、運良く愛情深い夫に恵まれており、大変幸せに暮らしておりますので、我慢や無理をせず尽くし尽くされという関係になれる相手を良く見きわめて選ぶことの大切さについては認識しているつもりです。 離婚によるデメリットが少なくなり、パートナーを変えることにも昔ほど負担のかからない今、片一方の気持ちだけではどうにもならないのが現代の結婚だと思います。 だからこそ、責務としての家族奉仕ではなく、愛情表現としての労りが重要なのではないでしょうか。 奥様を深く愛したのが、 単に家族を愛する気概や責任感というだけで為されたものではないと思いますし、だとすればそれは家族に尽くすという気持ちだけでは質問者様のような夫婦関係を築くのは難しい事でしょう。 >現代夫婦は、家族に尽くす気概が薄れているように思うのですがどう思われますか? そういう夫婦もいますが、そうではない夫婦もいるので、特に憂う必要もないと思っています。 私からすれば、既婚男性などは昔に比べたら随分家庭に尽くしているように感じますよ。
お礼
回答ありがとうございます。 成功モデルの比較といいますが、私は1/3の離婚する夫婦に欠けている意識を見つけようとしているのです。 なぜ「責務」と感じるのでしょうか? 例えば釣りに行って、1匹釣れたとします。もっともっと釣りたいと思います。そして実際に行動します。 家族に尽くすのはそれと同じです。自分がそうしたいからするのです。義務感はありません。
- E-1077
- ベストアンサー率25% (3258/12620)
「家族に尽くす」ことが離婚しない条件の一つだと考えるのは間違いだと思います。浮気三昧の亭主でも、遊び放題の亭主でも、金を持ってこない亭主でも、離婚しない人たちもいます。 戦前組との違いは「男子厨房に入らず」的な考えが薄れていることや、「女性の社会進出」などもあげられると思います。 しかも現代においては女性の「家事育児」が必要ないくらいに様々なサービスがあふれています。飯が無くても死なないのです。コンビニに行けば弁当があるのですから。 「家族に尽くす」というのは私たち戦後の世代では「自分を犠牲にする」という意味合いも含めて考えてしまうので、誤解がある可能性も否定できませんけれども。「家族を大切にする」という点では同じだと思います。第一に家族の事を考える。それは戦前も戦後も変わらないと思います。 戦前の男性が気骨があり、威張っていてもいざとなったら家族を守って・・的な事があるとするならば男尊女卑でも女性は我慢できたでしょう。 現代の男性が(女性が)威張ってばかりで自分の義務も果たさず相手に要求ばかりをしているのであれば、離婚しても全く構わない!と思うのは当然だと思うのです。 離婚を推奨しているわけではないし、我慢が美徳と考えていた時代の人とは少しだけ社会事情が違うという点です。 私の親が離婚した昭和の世代ではかなり「父親がいない」というだけでいじめられたので。今なら「バツイチなのよ~」と明るく言えるのに、そのことでいじめる人も少ないと思われるのに、当時は離婚なんてみっともない!という時代だったのは間違いの無い事実ですからね。 離婚しない組だって「離婚予備軍」であったりするわけですから、仮面夫婦だったりするのはどう解釈して統計しますか?経済的に自立できるのであれば即日離婚したい!と考えている人たちがどれだけいるのか・・・。 以上の事を考えると「家族に尽くす」=「離婚しないで添い遂げる」とはならないと言うことになると思います。
お礼
回答ありがとうございます。 「家族を大切にする」という日本語ではちょっと軽すぎて気持ちに合わないです。「家族に尽くす」がぴったりです。 それと戦後は「戦前の日本人は我慢したんだ」と信じ込んでいますがそうではありません。他の方への補足を読んで下さい。
補足
回答ありがとうございます。 >「家族に尽くす」ことが離婚しない条件の一つだと考えるのは間違いだと思います。浮気三昧の亭主でも、遊び放題の亭主でも、金を持ってこない亭主でも、離婚しない人たちもいます。 先ず言いたいことは、そういう数少ない例を一般化して反証にしないことです。これが一番やってはいけないことです。 例えば100のうち1つの例外があるとします。例えば、99はAで1つだけBであるとします。すると、大半はAであるという主張に対し、1つだけの例外を挙げて、その主張は間違っているという論理です。 これ、皆さん本当によくされる間違った論理なんです。私は100%そうだとは言ってるわけではなく、2/3はそうでない可能性も考えているのです。 50年ほど前、日本の離婚率が1/5だった頃、欧米の離婚率は1/3でした。今ヨーロッパ主要国の離婚率は1/2になり、日本は1/3になりました。 ヨーロッパでの離婚の理由は、本当にあきれるほどささいなものが多いのです。日本人の離婚理由も上記のサイトで読む限り、私からすると何てことはないものばかりです。 日本も行く々々は1/2になるのでしょうか?なぜこうなって来たのか、知りたくなりました。それで、外国の知り合いと意見交換した結果ですが、日本だけでなく欧米先進国に共通なのが、自分のことを優先する人が増えて来たということです。自己中まで行くと受け入れられないデスがそこ迄行かなくても、考え方が自分中心、アメリカでは大統領までそういう考えの人が選ばれました。 それと50年前に読んだ西洋史家の会田雄次の「日本人の意識構造」というのを読み返してみました。彼は「尽くす」とは言わず「自己否定」という言葉を使っています。しかし、これをヨーロッパ風に解してもらっては困ると言う。日本人は「あわせ」という思想を持っていた。これが戦前までの日本人を支配していた思想で、戦後急速に廃れてなくたったと。 「あわせる」は自己否定ではない。他者否定でもない。それは、はじめから合うべきものだ、という前提がそこにある。「われなべにとじぶた」それは、どんな人間でも夫婦ともなれば結局はうまく行くものだということだ。 ここには個性が重んじられていないということはあろう。だがそれに対し人間相互は、「われも人の子、彼も人の子」という共感がある。個性や氏素性の差などは本質的な差とは考えられないのである。 戦後に生まれ戦後社会で育った人たちには、戦前まで日本人が持っていた感情や思想は理解できないでしょう。私は戦前に生まれ戦後に育った人間ですから両方理解でき、両者を比べることが出来ます。
- KoalaGold
- ベストアンサー率20% (2539/12475)
尽くすことを義務と感じていませんか。 家族は共同体です。厳しい世の中では助け合いにより自分の身の安全を図ります。農村では力を合わせなければ収穫はありえません。狩をしても暮らして子育てをする上で分担作業です。 世界が裕福になり娯楽が存在し時間に余裕ができるにつれ、寿命までの真剣なサバイバルが娯楽性や楽しみの追求を含むようになりました。 そういう時代には自分が楽しくなければはけ口が周囲に出ます。古来のいじめはサバイバルに逆行する行動を制するものだったでしょうが現代では不満のはけ口です。 そこまでして人生を我慢で過ごして楽しいか?そう気付いてきたのが形としての離婚であり、退職であり、ニートであり、うつ病だと私は思っています。 形として「しなければいけない、自分を押し込めてまで」から「自分の解放」を目指した結果でしょう。 植民地が独立を目指して勝ち取るまでの経過、独立戦争もありますし、独立後もすぐには平和は訪れませんが、つまりそういう流れだと思います。
お礼
回答ありがとうございます。 >尽くすことを義務と感じていませんか。 無意識でした。義務という言葉は脳裏に一回も浮かんだことはありません。 炎天下つらい仕事に耐えて、給料を家に持って帰る時はうれしかったですね。 尽くすことに喜びを感じていたようです。しかしやはり、自分が尽くしているとも意識していませんでした。夫として当然のことをやってると思っていたんでしょう。
お礼
回答ありがとうございます。 >質問者様の場合は互いに頭脳や精神面、価値観や常識のバランスがとれていたので共存共栄が成立したと思います。 これもやはり、戦後発生した日本人の考えで、会田氏によると、以下のようになります。 それと50年前に読んだ西洋史家の会田雄次の「日本人の意識構造」というのを読み返してみました。彼は「尽くす」とは言わず「自己否定」という言葉を使っています。しかし、これをヨーロッパ風に解してもらっては困ると言う。日本人は「あわせ」という思想を持っていた。これが戦前までの日本人を支配していた思想で、戦後急速に廃れてなくたったと。 「あわせる」は自己否定ではない。他者否定でもない。それは、はじめから合うべきものだ、という前提がそこにある。「われなべにとじぶた」それは、どんな人間でも夫婦ともなれば結局はうまく行くものだということだ。 ここには個性が重んじられていないということはあろう。だがそれに対し人間相互は、「われも人の子、彼も人の子」という共感がある。個性や氏素性の差などは本質的な差とは考えられないのである。 私は色々な種類の本を読みますので、一つの考えに固まりません。出来る限り色々な考えを見て、その中から的を得ていそうなのを選びます。