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笑福亭鶴瓶 明石家さんまの芸はピン芸人の走り?
- 笑福亭鶴瓶師と明石家さんま師は落語家の一門に属しながら、従来のジャンルではない芸でデビューしました。
- 当時のさんま師の舞台では小林繁氏の形態模写やコントなどが披露され、幅広い笑いを提供していました。
- 鶴瓶師も自身の体験談や奇行を話題にしており、ピン芸人として人気を博しました。
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質問者が選んだベストアンサー
鶴瓶さんやさんまさんが若手として人気が出始めたのは1980年代のあのMANZAIブームくらいの頃で、当時はコンビで人気が出ても人気があるほうがピン芸人のようになっていく形式が珍しくなかったですよ。B&Bの洋七さん、ビートたけしさん、島田紳助さんらは皆なそうです。 あの頃はいわゆる「じゃないほう芸人」は、寂しく消えてゆく運命にあったのです。たけしさんなんてそれでもまだマシなほうで、自分の番組なんかにちょいちょいきよしさんを呼んでいました。だけどきよしさんのほうが「たけしのお零れで食べていく」というのを潔しとしなかったので結構断っていたそうです。確か映画「3-4x10月」は、当初きよしさんを主演で考えていたけれど、断られたんじゃなかったかな。 今のお笑いシーンで活躍する30代後半から40代くらいの世代はそのMANZAIブームを小中学生のときに強烈に浴びて芸人を志した世代で、じゃないほう芸人が容赦なく捨てられてきた姿を見てもきたので、相方を大切にする人が多くなりましたね。オードリーやピースのようにじゃないほう芸人がそのうち人気が逆転したなんてケースも出てきました。 ピン芸人さんについては他の方が回答する通り。今のマルチタレント系芸人のような漫談に縛られないタイプ(牧伸二師匠やポール牧師匠、ケーシー高峰師匠などは漫談ありきのピン芸人さんだと思います)の道を作ったのはタモリさんなのではないかなと思います。
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- nagata2017
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昔はストリップ劇場の幕間のつなぎのような舞台もありました。 渥美清 三波伸介 南利明 萩本欽一 ビートたけし 東八郎 斎藤清六 などストリップ劇場出身の芸人 昭和30年代から50年代 のちにコンビを組んで売り出した人たちも ここではそれぞれピンでやっていた コント55号 ツービート など 質問のピンのはしりと言えば上記の人たちでしょうか。
お礼
ご回答有難うございました。 ≫昔はストリップ劇場の幕間のつなぎのような舞台もありました。 渥美清 三波伸介 南利明 萩本欽一 ビートたけし 東八郎 斎藤清六 などストリップ劇場出身の芸人 昭和30年代から50年代 のちにコンビを組んで売り出した人たちも ここではそれぞれピンでやっていた コント55号 ツービート など 質問のピンのはしりと言えば上記の人たちでしょうか。 確かに、この様な方がピン芸人の走りかということが伺われました。
- ts0472
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落語家から講談や漫談をされていた方としては笑福亭仁鶴さんや立川談志さんの方が先だと思います お笑いコンビなどでは みきのりへいさん 南伸介さん 伊藤四郎さん バンド出身のハナ肇さん 他いろいろ MC的な場面で登場する人は多かったと思います さんまさんは映画・ドラマ需要も無く? 特殊かも知れませんね たもりさんは飲み屋の店員だったか?赤塚富士夫さんや山下洋輔さんに呼ばれてTVに出だした記憶が 師弟関係無し
お礼
ご回答有難うございました。 ≫落語家から講談や漫談をされていた方としては笑福亭仁鶴さんや立川談志さんの方が先だと思います お笑いコンビなどでは みきのりへいさん 南伸介さん 伊藤四郎さん バンド出身のハナ肇さん 他いろいろ MC的な場面で登場する人は多かったと思います やはり昔から居られたということが伺われました。 ≫さんまさんは映画・ドラマ需要も無く? 特殊かも知れませんね たもりさんは飲み屋の店員だったか?赤塚富士夫さんや山下洋輔さんに呼ばれてTVに出だした記憶が 師弟関係無し さんま氏は落語家の弟子だが、野球選手(阪神の小林繁等)の物真似 タモリ氏は素人乍ら飲み屋で動物の物真似や四か国語麻雀等を行うのが山下洋輔氏や赤塚不二夫氏に面白いと呼ばれ、プロデビューするという経緯だったと思います。
- nekosuke16
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鶴瓶やさんまがピン芸人の走りではないと思いますよ。 今思い浮かぶだけで、唐草模様の東京ぼんた、声帯模写の江戸家猫八、ウクレレ漫談の牧伸二、現存では白衣の偽医者ケーシー高峰など。 こうした面々は、まだ吉本養成所のはるか以前ですから、キャバレー営業や落語の前座的なところからテレビの普及に伴って、漫才などの隆盛に合わせて、私たちの前に現れたということでしょう。
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ご回答有難うございました。 返信遅くなり申し訳ありません。 》鶴瓶やさんまがピン芸人の走りではないと思いますよ。 今思い浮かぶだけで、唐草模様の東京ぼんた、声帯模写の江戸家猫八、ウクレレ漫談の牧伸二、現存では白衣の偽医者ケーシー高峰など。 確かに仰られた様にこの様な方も居られたと思います。 ≫こうした面々は、まだ吉本養成所のはるか以前ですから、キャバレー営業や落語の前座的なところからテレビの普及に伴って、漫才などの隆盛に合わせて、私たちの前に現れたということでしょう。 ストリップ劇場でのコントやテレビでの前説等で認められて事もあったと思います。
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ご回答有難うございました。 》鶴瓶さんやさんまさんが若手として人気が出始めたのは1980年代のあのMANZAIブームくらいの頃で、当時はコンビで人気が出ても人気があるほうがピン芸人のようになっていく形式が珍しくなかったですよ。B&Bの洋七さん、ビートたけしさん、島田紳助さんらは皆なそうです。 確かに、あの「MANZAIブーム」の時にMCが出来る落語家 と云う事で人気が出たと思います。 漫才出身では仰られた様に、ビートたけし氏 島田紳助氏 ピンではさんま氏に加え、劇団出身の高田純次氏 物真似出身の片岡鶴太郎氏 山田邦子嬢等など ≫あの頃はいわゆる「じゃないほう芸人」は、寂しく消えてゆく運命にあったのです。たけしさんなんてそれでもまだマシなほうで、自分の番組なんかにちょいちょいきよしさんを呼んでいました。だけどきよしさんのほうが「たけしのお零れで食べていく」というのを潔しとしなかったので結構断っていたそうです。確か映画「3-4x10月」は、当初きよしさんを主演で考えていたけれど、断られたんじゃなかったかな。 たけし氏はきよし氏から漫才コンビを誘われたので、 恩義に感じている様です、 がきよし氏はたけし氏のおこぼれと云うのが嫌だったのだと思います。 ≫今のお笑いシーンで活躍する30代後半から40代くらいの世代はそのMANZAIブームを小中学生のときに強烈に浴びて芸人を志した世代で、じゃないほう芸人が容赦なく捨てられてきた姿を見てもきたので、相方を大切にする人が多くなりましたね。オードリーやピースのようにじゃないほう芸人がそのうち人気が逆転したなんてケースも出てきました。 脇の方にスポットライトが当たるという傾向も伺われます。 ≫ピン芸人さんについては他の方が回答する通り。今のマルチタレント系芸人のような漫談に縛られないタイプ(牧伸二師匠やポール牧師匠、ケーシー高峰師匠などは漫談ありきのピン芸人さんだと思います)の道を作ったのはタモリさんなのではないかなと思います タモリ氏は師匠なし、素人芸が山下洋輔氏に面白いと認められ、赤塚不二夫氏等を通じ漫画家の高信太郎氏や 作家の高平哲郎氏を通じプロデビューするという事なので 今までにないパターンだった様です。