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異性の友人との長い付き合い
- 異性の友人との長い付き合いとは?先日50年経った2人の感謝の気持ち
- 10代から変わらぬ関係を築いた異性の友人とはどのように過ごしてきたのか?
- 終生の友として存在する異性の友人の大切さと役割
質問者が選んだベストアンサー
途切れないように、途切れないように。 そんな風に、 お互いに力感を振り絞って、 「繋がり」にこだわり続けた関係でも無い。 それでも、 結果的に二人は、 いつも途切れる前に、 お互いに無理なく楽しく結び合ってこれた。 然程依存もしていない。 それこそ、 お互いのステージに戻っている時は、 その存在感に触れない事も多い。 意識下に置いて過ごし合う事もしばしば。 でも、 貴方の言葉で言うなら、 触れない時間は沢山あっても・・・ 決してその存在スペースは、 他者と置き換わる事が無かった。 他の誰かや、 他の何かで埋める(埋まる)事が無かった。 然るべき時間、 然るべきタイミングに自然と顔を出す感じ。 貴方の言葉で言えば、 自分を振り返る時の灯火のように。 振り返る時には、 いつもお互いの存在も一緒に振り返れる。 常に、 お互いの中に(小さいけれど)スペースを許し合ってきた。 それが貴方と彼なんだと思う。 異性同性問わず、 そういう相手がいるって素敵だよね? お互いという存在スペースが、 気付いたら50年近く続いてきた驚き。 それも、 続かせる為の努力をしてきた訳でも無い。 それでも続いてきたという事は、 お互いにどこかで必要とし合っていたんだ。 後から分かる、 自分たちの歩んできた轍。 それも、 必要という言葉に力感も与えずに、 お互いの人生に沿わせる形で無理なく繋がってきた。 だからこそ、 他には代えがたい特別な愛しさもある。 一生懸命頑張って紡いでいく関係もあれば。 一生懸命さとはまた別の領域で、 自然と繋がっていく、結び付いていく関係もある。 感謝したくなったのもとても自然な事。 だからと言って、 これからも60年、70年続けていくんだ! 特別そういう世界に重きも置いていない貴方(と彼) 結果的にそうなるなら、それはそれで嬉しい。 でも、 仮にこの縁がいずれ自然に解かれて、 再び結びつく事が無かったとしても・・・ そんな縁の行く末にも、 貴方と彼はおそらく違和感を感じない。 お互いの縁(の意味)は既に感じている。 今までも、 いつまで続くのか?続けるのか? そんな事を意識して繋がっては来なかった。 これからもそれは変わらないだろう。 お互いに灯火として機能しているうちは、 自然とお互いがお互いを引き寄せるだろうし。 どちらかにその役目が無くなっても、 それはもう片方を置き去りにする変化では無い。 必要な時に、 必要な分だけ自分たちは分かち合ってきた。 貴方も彼も、 既に自分たちの縁の着地、縁の意味も分かっている。 既に活かし合えた二人としての関係なんだよね? お互いの存在は、 お互いの人生の彩を深めている。 でも、 他者には分かり難い色。 そして、 他者が分かる必要が無い色。 ハッキリと存在感を持ち出す必要が無い色。 それでも、 お互いの目を通してみれば、 お互いの存在(という色)が分かる。 そういう友人、 そういう繋がり方に恵まれた事は、 とても貴重なんだと思う。 お互いが与え合えた見えない色を、 それぞれがそれぞれの場所で、 それぞれの大切な人たちに与えていく。 今後という時間はそういう時間になっていく。 その自然な流れを、 これからも大切にしていけると良いよね☆
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- Dr_Hyper
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50年という、私のような中年と呼ばれるような世代にも、まだ想像のつかない時間 人を大事にしていられるというのは素晴らしいことですね。 私にも学生時代からの友人や、初恋の人。高校時代の恋人など連絡を取れている人は居ますが、それがこのさきあと20年以上連絡が取りあえるのかは不安ではあります。 あなたからすれば私のような若造でも最近まで高校時代の友人とはまったく連絡を取っていませんでした。高校の同窓会をきっかけにネットの力を借りて。FaceBooKなどのソーシャルメディアと呼ばれる媒体を介して、連絡を取り合うと、まるで自分が10代にもどったような会話をネット上で繰り広げ、どうしても会いたくなれば、お店を予約して集まれる人はあつまろう。なんてことができるようになりました。 ネットは誹謗中傷や犯罪の温床などになるケースもありますが、このように年賀状よりも気楽に昔の絆を思い出させてくれるところは、すばらしいところだと思います。 これからも楽しい思い出をお作りになってください。 私も人と人との縁は大事にして参りたいと思っております。
お礼
優しい語り口でお話くださってありがとうございます。私の娘たちもフェイスブックで連絡を取り合い、つい先日も6年ぶりに里帰りしたので毎日いろんな方々と会っていたようです。それぞれ社会経験を積んでいて、自然体でそれが出てきて面白かったり学びあったりしていました。なんとか君は顔はそのままで白髪になっていたよ、とか。顔はそのままに見えるのが幼馴染なんでしょうね。 私たちの世代には手紙か会いに行くことしかできなかったので,それはそれはたくさんの手紙を描いたものです。どちらの方法も思い出を築くツールですね。 手紙は時として何かの催促だったり支払い書だったり、恋文だったり友情を育むものだったりします。新しいメデイアは何を運ぶのでしょうか。まだまだこれからの楽しみがありそうですね。 ありがとうございました。
お礼
素敵な詩をありがとうございました。 自分では表現を尽くせない景色を見せていただきました。詩で表現するのは難しい内容なのに誇張もせずごく自然な言葉を使って、見せてくださいました。 どんな関係でも人や動物や物事と出会っても、一つ一つに丁寧で優しくありたいと思います。だからこそ喜びも悲しみも深く、怒りも大きくいられます。 彼との関わりの延長に戦争反対が出来ますし、戦争が古来からのサガである悲しみも思います。 こうして戦後の70年そのものを生きてきた私と彼が、形がないのに存在があるつながりで、心豊かになれるのも平和あってこそです。 だんだん全てに感謝したくなってきているなんて、お迎えが近いのかも。 それはそれでいいんですが、こんな言語でコメントすることが申し訳ない気がします。メッセージをありがとうございました。