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人と通じ合うこと。。。

「今日は短く簡潔に書く時間がなく、冗漫な文章になることをお許しください」(パスカル) なんて言葉を冒頭に掲げながらも、ウディ・アレンの『マンハッタン』の冒頭で、アレンが、ニューヨークについての本を書きはじめる際の、書き出しにあれこれ迷っている場面を思ってしまいます。 よく「コミュ障」ということばを目にします。それがどういう意味であるのかは、未だに知りません。「コミニュケーション障害」という状態を示す言葉が、これほど日常的に使われていることも不思議に感じます。 通じないこと、他者と意思の疎通が持てないこと。 これがつまりわたしの人生だったように思います。(過去形) 哲学科の卒論のテーマが『文学と自殺』でした。 すでに10代後半から、わたしにとって人生は孤独で、暗いものでした。 大学の4年間、そしてそれ以降、20代、30代と、友達を持つこともできず、 仕事はといえば、あちらでゴミの収集を1年半、こちらでウエイターを半年、ここでは皿洗いを3カ月、むこうで電話オペレーターを1年ちょっと、と、正社員になることもなく、80年代~90年代を根無し草のように過ごしてきました。 同僚とは話が合わず、なにより仕事自体が無能力でしたので、これは当然の流れなのですが、これを「コミュ障」と呼ぶのでしょうか。。。 小学校から高校卒業までの12年間を除けば、友達と呼べる人を持てたのは40歳から46歳までの6年間のみ。無論その6年間はわたしの人生のもっとも幸福だった時とも言えますが、その友人を失ってから、全く外に出ることは出来なくなりました。 古い歌の歌詞に”Where Can I Go Without You?"  「キミがいないのにいったいどこへ行けるんだ?」(この歌は何処へ行こうとキミの思い出が離れないというような傷心の歌ですが)という一節があります。 何処へ行っても独り、ひとりで美術館へ行って、ひとりで絵を見て、ひとりでコーヒーを飲んで、ひとりで帰宅する。。。その間口を開くことはない。 無論ひとりでどこへでも行ける人も少なくないでしょう。でもそういう人たちは、はたしてひとりも、何処にも友達のいない人たちでしょうか。「そうだ」という方たちもいるでしょう、けれども、真似は出来ないようです。 何が原因なのか?いったいなんでわたしは人間社会に溶け込むことができないのか? 30歳の時から22年間、日本で最初に出来たという精神科の病院から、大学病院、総合病院の精神科、クリニック等に通い、これまでに様々な診断を下されました。 町沢静夫という精神科医は、自信をもって「キミは自己愛性人格障害だ。え?ボーダーライン?ちがうちがう!」 ある医者に行くと「待合室の人たちを見てみなさい、誰もあなたのような人はいないでしょう?あなたはどこも悪くはないんですよ」 20人以上の精神科医を転々とした結果、現在の医師に7年ほど通っていますが、そこでは「あなたと話の合う人は千人にひとりくらいかな」と言われています。もっともこれは一見意地悪な云い方に聞こえるかもしれませんが、このドクターは、名医ではないかもしれませんが、これまで会った中では、一番親切な医者で、この言葉にしても、わたし自身の実感としては、千人にひとりは多すぎると思っています。 この間、この主治医に「先生、わたしのような患者ってこれまでみた(会った)ことありますか?」と訊ねたところ、「うーん。大学病院時代から30年以上やってるけど、あなたのような人にはあったことがないですねえ」と、(苦笑) 先日、この主治医に紹介状を書いてもらい、「大人の発達障害」を診断する医師のところに初診で行きましたが、「お話を聞いていると、小・中・高とずっと友達がいて、普通に生活していたということですから、発達障害の可能性はほぼないでしょう」ということでした。 無論恋愛経験もなければ失恋の経験もありません。職場の飲み会も未経験。 人といろんな話がしたかったので、このアンケートのカテゴリーで質問をして、みなさんと言葉を交わすことが出来ました。 今日、駅ビルの書店で、「嫌われる勇気」という本を探してみたところ、「品切れ」ということでした。図書館では250人待ち。無論買うつもりはありませんが、いい加減、嫌われ、疎まれ、遠ざけられることに「死ぬほどうんざり」しているわたしにとって、「キラワレルユウキ」とは何ぞや、という興味がありました。 誰かのご質問の回答にも書きましたが、わたしにとって嫌われることは造作もないことです。「ありのままの自分でいる」そうすれば自然と孤立している。 それは上記の主治医の言葉にも重なるでしょう。臨床歴30年以上の精神科医が「これまで見たことがない。。。」というくらい呆れたキャラです。 もちろんここで、「どうしたら人と話が通じるでしょう」と問うことも、また、このままアンケートの場で、様々な質問を投げかけて、多少の「交流」を得て慰めとすることでよしとする、というのも一案かも知れません。 けれども「医療・福祉関係以外の人と」当たり前の雑談をする=好きな絵について、好きな映画について、音楽について、文学について、政治について。。。「30分位で。。。という、時間制限」なしで、話をすることは無理なのか。 そんなことを思っていました。 お読みくださってどうもありがとうございました。 多分、これは「質問」の体を成していませんね。無視してくださって結構です。 この投稿が今後の「アンケート」への質問の何らかの障害にならないことを願っています。。。

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回答No.2

まず「コミュ障」ってのはネット用語ですね 今までなら「内気でシャイで恥ずかしがり屋さん」と言われていたのが、ネットの匿名性をいいことにあれこれいらんこと書き込みするから、現実との違いを理解出来ず「コミュ障」って言われてしまうんです 周りに哲学専攻の知人がいますが、質問者様とよく似ていますよ とにかく話が長い それだけ自分なりの考え方を持っている、悪い意味ではございません

noname#226970
質問者

お礼

こんにちは。 そうですか、「コミュ障」は、障害の名称でないのですか。 >周りに哲学専攻の知人がいますが、質問者様とよく似ていますよ とにかく話が長い そうですか。恥ずかしいです。 話は短く簡潔にしたいですね。 このサイトでも、「哲学」のカテゴリーは敬遠しています。何が書かれて問われているのかチンプンカンプンだし、そもそも、「知的な人」ってなんだか苦手です(苦笑) 改めて、どうもありがとうございました。

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その他の回答 (12)

  • sqqrcxvx
  • ベストアンサー率9% (84/911)
回答No.13

くどい、と言われそうですが再度おじゃまします。 医療福祉以外の人と友人になりたい・つくりたい、という事でしたね。 人間の行動範囲は誰しも限られています。端的に言えば思ってる以上に狭い。今から友人作りといっても限界がある。別段grさん(と今回は呼ばせて頂きます)だけの現象ではなく大抵の人は狭いのです。 でも、そう言えば一つありますね。grさんが案外見落としている場が。それは医療福祉関係者でありgrさんの周りにいる人です。これを言うとウンザリしてしまうかも知れません。 ちょっと待って下さい。 私はボランティアグループを覗いたことはあります、本格的に参加した事はありませんが。ボランティアをやる人の中には本当に良い人がいますね、男女を問わず。 grさんは、彼ら(ボランティア)はミッションとしてgrさんに接している、だから友人とは別なんだと。そこなんです、そこのところをちょっと待ってくれませんか、再考してくれませんか。 個々人の世界は狭く、交友関係が広いと自負する人も実はさほどではない。友人作りは難しい。であれば、ボランティアの中で友人も何とかなりませんか。 尤も私はgrさんの立つ現場にはいない。実際にはそんな雰囲気じゃないんだ、と仰るかもしれない。 そう、その通りgrさんを取り巻く状況を私は何も知りません。しかし新たな友人作りほど難しいものはない・・そこなら知っています。 人は常に不自由の中で生きています。他人から見て満たされている人も実は云うに言えない悩みがあるものです。

noname#226970
質問者

お礼

こんにちは、 いえいえ、いつもあれこれ考えを聞かせていただいて参考になっています。 わたしはボランティアについてまるで知識がないので何とも言えませんが、 彼らは少なくとも、仕事としての「医師」や「精神保健福祉士」などとは違うので、そういう場からパーソナルなコミュニケーションが生まれることもあるでしょう。もちろん看護婦さんと患者さんの間に恋が芽生えるということも(今はわかりませんが)昔はありましたね。 無論どのような可能性だって否定はしませんけれど、なかなか日暮れて道遠し、と悲観的になってしまっています。 >他人から見て満たされている人も実は云うに言えない悩みがあるものです。 そういう部分をわたしは知りたいですね、いづれ質問として投稿するかもしれません。 いつもありがとうございます。

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  • LOLIPON35
  • ベストアンサー率30% (861/2837)
回答No.12

お礼と補足をありがとうございます。 長文にも関わらず、お読みいただき恐縮です。 …一応、先日の映画のご質問にも回答しているので、 初めましてではないのですが…(汗)。 なるほど、人によって友人の定義は違いますし、 どんなことでその存在を実感できるのか、 そこに何を期待し求めているのか、そういうことも、 人それぞれに違うのですね…。 個人的には、物理的な存在を伴わなくても、 そこに他者の意思を感じられれば、絵でも音楽でも、文でも、 他者の存在を信じることができると思っています。 ほとんど自己内対話の世界ですが…。 本が友人というのも、そういう考えによるものです。 一度読んだだけで分かりきってしまうような、 既知の言葉で書かれた薄っぺらい内容の本ならともかく、 未知を知る本は何度も読めて飽きないものだと思います。 これは、外山滋比古氏の著書からの受け売りです。 いわゆる西洋の哲学は、プラトン以降ニーチェ未満の イデアや神や理性という超自然的な形而上を設定してから 世界を説明しようという、たいへん回りくどいものです。 ソクラテス以前のソフィストの思想ならともかく、 いわゆる哲学という屋上屋を架すようなまどろっこしい 思想のカテゴリーを、日本人が理解できないのは 無理もないことですね。そもそもそういう思考の枠組みを 持っていなかったのですから。とまあ、これは、 木田元氏の著書からの受け売りです…。 極端な言い方ですが、初めからありのままをありのまま受け入れて、 その中に生きている東洋的な、多神教的な自然観にとって、 一神教の影響の濃いまどろっこしい哲学は、理屈屋の児戯に等しいので、 わざわざ理解しようとするほどでもないのではないでしょうか。 ちゃんとした哲学の勉強をしていない言い訳ですが…。 ええと、赤い貌の話は大変興味深いですね。 これも我田引水で、勝手に変換してみたいと思います。 孤独な人にとっては、周りはみんな青い貌で、赤い貌の仲間は ふたりだけ、あるいは、自分一人と感じてしまうのでしょう。 でも、現実には、一人一人違う色の貌で、違う色のお面を 被っているのだと思います。そのことに気づかないと、その先の、 人と深く分かり合うところまではたどり着けないのだと思います。 再び、友人の話ですが…。 肉体の内側からこの世界を覗き込んでいる孤独な存在にとって、 世界の向こう側からも誰かが同じように覗き込んでいる。 その事実だけで、僕は孤独ではないと感じるのです。 ただ、想いを通わせて、伝え合って、満たし合うというのは、 実際、言うほど簡単なことではありませんね…。当然ですが。 告白は、片想いを伝えるものであって、両想いになってください という告白は奇妙なものです…。両想いの二人には、わざわざ 告白する必要はなく、関係の確認でしかないはずなのですが…。 友人や恋人に限らず、どんな人間関係も、相手の存在を 認めることから始まります。一応、逆の例として、究極の否定は 無視することだと考えます。(故意の)殺人は、その行為自体が 相手の存在を肯定していることになってしまうので…。 ええと、かなり遠回りになりましたが、赤の他人でも、気持ちを 伝えることから始まるわけですね。もちろん、気軽なもので、 自分の都合が最優先される程度の関係ですが、だからこそ、 時候の挨拶や当たり障りのない会話をして、そこになんらかの 共有できるものを見つけるわけです。その積み重ねが、 自然な人間関係の始まりなのではないでしょうか。 一方的な欲求を押しつけるだけでは、相手が生身の必要もありません。 お互いの存在を肯定するところから始まって、日常的に顔を合わせる 当たり前の関係があってこそ、友人や恋人も現れます。 よくある誤解ですが、告白やプロポーズで契約しても、中身(実)がなくては、 その関係は虚しいものになってしまいます。それは、どんな人間関係にも 言えることではないかと思います。物理的に一緒にいるだけで、あるいは 一方的に見ているだけで、関係がよくなることはないと思います。 また、一緒の時間も大事ですが、一人の時間も同じくらい大事だと思います。 自分自身を深く知ることで、相手を想う気持ちもより深くなります。 そういうことができる者同士が、より深く分かり合えるのでしょう。 そのためには、一人で想う時間は、大切なものだと思います。 ここでのやり取りがすべてではない。おっしゃるとおりだと思います。 ただ、一人で考えるよりは、実際のやり取りの方が、ご自身の考えや 立場が見えてくるのではないかと思います。顔が見えないからこそ、 踏み込んだ話題やリアルな感情を見ることもできるのではないでしょうか。 肉体的な感覚も大事ですが、言葉で伝え合うことも、より深く人を理解し、 つながり合うためのステップになりうると思います。 また長文になってしまいました…。

noname#226970
質問者

お礼

こんばんは。 先に映画のトピックでもコメントを頂いていたんですね。スミマセンデシタ(汗) >理屈屋の児戯に等しいので、 わざわざ理解しようとするほどでもないのではないでしょうか。 ははは。まぁ、同感かな。(笑) わたしは「あれこれと考えること」自体は好きというか、自然にあれこれと考えてしまうんです。無論答えを求めているわけではない。考えていること、粘土をこねくり回していること自体がまあ好きなんでしょう。 そういう意味では「哲学を学ぶのではなく、哲学すること」は好きなのかもしれません。これもまた文学同様「悲しき玩具」としての思惟であったりするのですが。 知的な人って、なんだかいろんな答えを持っているように思えて、わたしとは異質な存在だと思ってしまいます。ですからこのサイトでも、「哲学」のカテゴリーには近づけません。(苦笑) >現実には、一人一人違う色の貌で、違う色のお面を 被っているのだと思います。そのことに気づかないと、その先の、 人と深く分かり合うところまではたどり着けないのだと思います。 うーん。これはどうでしょう。 実際はひとりひとり異なるパーソナリティ(ペルソナ=仮面)を持っているのかもしれませんが、少なくともわたしの実感では、みな同じ色のお面を被っているように見えます。まあこれはわたしが社会との接点がなく、あくまで遠くから抽象的な「マス」としてしか世界を見ることができないせいかもしれません。 >究極の否定は無視することだと考えます。 それはその通りだと思います。とはいっても、やはり友好的な関係が欲しいですよね。殺されるより。 >日常的に顔を合わせる 当たり前の関係があってこそ、友人や恋人も現れます。 これもそうですね。 また昔の歌ですが、" I'm in the mood for love, Simply because you near me "  物理的な距離と精神的な距離、ともに友情や恋愛感情が芽生える土壌ですね。 >一緒の時間も大事ですが、一人の時間も同じくらい大事だと思います。 自分自身を深く知ることで、相手を想う気持ちもより深くなります。 そういうことができる者同士が、より深く分かり合えるのでしょう。 そのためには、一人で想う時間は、大切なものだと思います。 寺山修司の詩を思い出しました。 半分愛してください。 のこりの半分で海を見ていたいのです。 半分愛してください 残りの半分で人生について考えてみたいのです。 (だったかな?) 仰る通り、こういう場で、みなさんのコメントにこうしてお礼のコメントを書くうえで、いろいろと自分の中から出てくる思いがあります。 こういうコミュニケーションを全否定しているのではありません。 これすらないのは寂しいと思います。 再度のコメントを、ありがとうございました。

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noname#231734
noname#231734
回答No.11

こんにちは(^-^)。 人と通じ合うこと・・難しいですね。 仲の良さそうな夫婦でも、 人にはわからない溝があったり・・。 昔観た映画(「永久の愛に生きて」)で 「読書は孤独を癒してくれる」っていう セリフがありました。 でも孤独を癒してくれるのは やっぱり人でしかないのかもしれません。 他人を求めるのは 人間の本能なんでしょうね。 私は映画が好きなので、 映画関連の質問、楽しみにしています。

noname#226970
質問者

お礼

こんにちは。 >私は映画が好きなので、 映画関連の質問、楽しみにしています。 はは、ええ、そうですね。 本当は映画の話がしたいんですけれど・・・ 「現実に映画の話ができる人」がいないことが哀しいので・・・ いつもありがとうございます。

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noname#224992
noname#224992
回答No.10

連休も最後になりました。 高校の国語の教科書で読んだ中島敦の「山月記」を思い出しました。 「隴西の李徴は博学才穎、天宝の末年、若くして名を虎榜に連ね、ついで江南尉に補せられたが、性、狷介、自恃むところ頗る厚く、賤吏に甘んずるを潔しとしなかった。いくばくもなく官を退いた後は、故山に帰臥し、人と交りを絶って、ひたすら詩作に耽った。」 http://www.aozora.gr.jp/cards/000119/files/624_14544.html 当時、自意識の塊だった私は、この短い物語を自尊心を強く持ちすぎると 井の中の蛙になってしまう。世の中で切磋琢磨することが大切だ。 という程度の表面的な解釈しかできなかったです。 今、読み返してみて思うことは全く別の感想です。 文中に出てくる「羞恥心」「臆病」という言葉。「才能の不足を暴露するかも知れないとの卑怯な危惧と、刻苦を厭う怠惰とが己の凡すべてだった」という言葉に衝撃をうけました。 私の弟が10歳でこの世を去ったあと、二人目の弟が生まれました。 この弟が、大学を出て地元の金融機関に就職し1か月もしないうちに首になり 以来職を転々とし・・おそらくはコミュニケーション障害なのだろうと思います。grassrootsさんのように頭がよくもないし、教養もないですが。 地元の金融機関を首になったのも、上司から車を駐車場に入れておいてくれ と言われて「自分が免許がないこと」を伝えられず、やったこともない運転を やって路上にバックして後続車に追突された。まぁ信じられない理由でした。 弟は、10年ほど前までは親の年金と貯金を食いつぶして、両親がなくなると やっと警備員の職についてしばらくは働いたものの、不摂生がたたって脳内出血 で倒れ半身麻痺の身体障碍者になりました。 インフルエンザの時期に高熱で寝込んでいる母を放置して三日も近県の風俗に 悪友と遊び歩いていたために母は危篤状態になったのです。 まぁ、コミ障というより「おもいやり、愛情を示す心」に障害があったので しょう。 愛はどこにいったら手にはいりますか?という問いに対しては 愛はまず与えることで返ってくるものだと答えることにしています。 両親が「無償の愛」を与えてくれて、思春期に恋に憧れ 「報われぬ愛」を体験し、つらい思いをしながら自分をみつめて 自分を魅力的にするためにいろいろ試行錯誤するのではないでしょうか。 そして、その試行錯誤自体が結構面白いことに気が付くあたりで 人は他人がみたら魅力的になっているのだと思います。 友達というのも、自分が経験しえなかった人生を経験していて その情報を得ることで違う人生を生きたような気持ちに なれるのが楽しいですね。自分と比較して優劣を考えてしまうと 友達づきあいはできない。違う世界を生きてきたから価値が ある。 身内に精神科医がいます。大学のサークルの友人も精神科医です。 一人は自分がアスペルガー症候群だと自覚しています。家に泊まりに来るのも 手土産も持たずに来るし、気ままにふるまうし、かなりヘンです。 精神障害というラベルを貼ることで、気持ちが楽になる部分もあるので しょうね。一方で失うものもあると思います。 言ってみれば、ポジティブシンキングだとか引き寄せの法則とかも 精神障害のようなものだろうし、鬱が高じて自殺するのも明るく考え て金運が巡ってくるのも「気の持ちよう」なんでしょうね。 話を山月記にもどすと、隴西の李徴は鬱病患者だったのだろうと思います。 鬱病患者は自分が怠惰などとは思いませんが。行動し挫折することを恐れ 自縄自縛の罠に陥る。人生というステージを無駄にしてしまったことを そこで悔やむ。でも、人生のステージもシナリオも自分が描いている 「唯識論」の人生観に立てば今日今からが人生で、過去と未来とに 自分の生き方は何の影響も受けないということがわかります。 自分の意識だけがすべて。孤独ですがすがすがしい世界観がそこには あったりします。

noname#226970
質問者

お礼

こんにちは。 「山月記」わたしも好きです。「臆病な自尊心と、尊大な羞恥心」など、身につまされる小説です。 例えば今回もいろいろな身近な例を挙げて、丁寧にお返事を下さるrepresentative2さんに、ここに書かれていることだけで、「お礼」をしなければならないこと、それがなんというか、難しいし、もどかしくも感じます。 これが喫茶店だとか居酒屋などで面と向かって話しているのなら、「唯識論てなに?」と訊くこともできますが、今ここでそれを知らずに「お礼」を書くことに抵抗があります。 「精神障害というレッテルを張る」ということに関しては、個人的にはその方がそれを知らずにわたしと言葉を交わすより、相手に予め「異質の人間」という知識を与えておいた方がこちらにとって都合がいいと思うからです。 わたしはどうも一見普通っぽく見えるようなので、「ふつうじゃありません」と言っておく必要を感じます。 山月記の李徴は「その性、狷介」といわれますが、わたしもまた「狷介」です(苦笑)狷介とは、「頑固で容易に人と妥協しないこと」とあります。 そのくせ、わたしは自己肯定感がとても低い。自尊心という言葉とはこれまで無縁でした。「自分を尊ぶ」なんて! 先のお返事で、 >私も、極めて内省的若者だったけれど、救われたのは のちに文学者になった高校の級友が薦めてくれた一冊の本のお陰です。 という個所がありますね。 わたしはその逆で、教室で独りで「惡の華」を読んでいたとき、クラスの人気者の好青年が「そんなものばっかり読んでるから友達ができないんだよ」と。。。彼はわたしを嘲笑するつもりはなかったと思います。本当にそう思ったのでしょう。 そこが大きな違いです。 >戦争直前の精神の荒廃しがちな時代の中で、正気を失わずに生きていくうえで 感性の鋭さとともに友情の厚さというものがいかに大切かということを この小説は熱く語っています。 今まさにそんな時代ではないかと思っています。 この部分には強く共感します。 とはいえ、文学も所詮は「悲しき玩具」。representative2さんも言われるように、生身の人間の代わりにはなりません。 >たぶん、自意識が過剰なんでしょう。 過敏な神経のバリヤが他人をよせつけない。 あるいは、他人が近寄ってきても自分から去っていく。そんな気がします。 そうですね。なんだかもうこれ以上傷つきたくないという気持ちが強いですね。その裏には当然、極端に低い「セルフ・エスティーム」があり、「狂人」という自任があるからでしょう。 なにしろこれまでの人生で、なにかを達成したこと、或いは人から褒められた=肯定された、という「記憶」がないのです。 以前「永遠の仔」という小説が流行りました。「生きていてもいいんだよ」という言葉が一緒にはやったと記憶しています。 けれども、「生きていてもいいんだよ」というある種「無条件」「条件なし」での存在肯定ののちの「条件を肯定される」という経験が欠落しています。 「無条件の愛」とは「あなたが誰であろうと」「生きていてもいい」「アイサレル」ということですが「わたしが、わたしであるがゆえに」愛され、肯定されるということ、「あなたのこういうところが好き」「きみのこういうところを評価する」という経験がすっぽりとありません。 「無条件の愛」は人間にとって必要欠くべからざるものですが、同時に、「個」として「個別の特性を持った存在として」愛され、肯定されるという経験も必要だったと思います。 そしてそれはおそらく「親の愛」ではなく、より「他者」から、(あるいは社会から)与えられる「愛」と「是認」だろうと思います。 『石川はふびんな奴だ。』 ときにこう自分で言ひて かなしみてみる。 ー「悲しき玩具」より いつも、ありがとうございます。

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noname#216959
noname#216959
回答No.9

先月の100分で名著はアドラーの心理学でした。 嫌われる勇気の著書が出られていたように 記憶しています。 とても良い内容でしたから、いま、本が 売れているのかもしれないですね。 他にもアランの幸福論がとても良かったです。 雑談と書いてあったので、少し 書いてみます。 モネが生で見てみたかったです。 美術館に行きそびれました。 あと、人生の中で、友だちだった人を 懐かしい優しい気持ちで語れるひとは ひとりぼっちじゃないし きっとまた友だちができると思います。

noname#226970
質問者

お礼

はじめまして、でしょうか?いつものことですが、みなさんの名前を覚えることができなくて。 >先月の100分 とはテレビの番組のことでしょうか? アドラーという人の名前はこの本が出て初めて知りました。 心理学者ということですね。 みなさん、嫌われたいということなのかななどと思ってしまいます。 嫌われることの怖ろしさを、孤立無援の哀しみを知っているのかなと思います。 アランですか。読んだことがないんですよ。 モネは上野でしたっけ?きっとすごい人だったでしょうね。 印象派は嫌いではありませんが、今のわたしには逆に表現主義、 (Impressionism に対する Expressionism )に惹かれます。 ヒトラーに「退廃芸術」と呼ばれ弾圧された表現主義。 マイトナーやスーチンを日本人はどう見るでしょう。 わたしは「グロテスクな姿」こそ、自分を含めた人間本来の姿だと思います。 雑談に声をかけてくださって、どうもありがとうございます。

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  • LOLIPON35
  • ベストアンサー率30% (861/2837)
回答No.8

こんばんは。 まず、コミュ障について…。 今の時代においての常識的な人間関係。それが、経験や技術の差で うまくできない人がいるというだけの話ではないかと思います。 コミュ障という言葉で、「自分の方がコミュニケーションが上手だ」 という自己満足をしたい人が、優越感を得るために使っているだけです。 自虐的に自称する用法もありますが…。 本当に、コミュニケーションができていて、誤謬もなく 人と通じ合えている人が、どれほどいるのでしょうか。 むしろ、一瞬通じ合うことはできたとしても、次の瞬間には すれ違ってしまっていることの方がずっと多いのだと思います。 少なくとも、コミュ障と言う側も言われる側も、人と分かり合いたい、 一緒にいたい、孤独を分かち合いたいという気持ちは同じだと思います。 だからこそ、関係やコミュニケーション(技術など)を有り難がるのでしょう。 しかも、本心を言ってしまえば嫌われると思っている点も、誰でも同じです。 だから、自分を殺して、本心を言わずに、円滑な人間関係だけを重視して 生きてきた人も多くいるのだと思います。そういう人が、ふと振り返ってみて、 自分の中に自分がないってことに気づいて、愕然としたりするわけです。 仲間はずれにされたくなくて、言いたいことも言えず、まとまった考えもなく、 ただただ必死にしがみついている人間関係なんて、それはそれで地獄だと思います。 子どもたちはもちろん、大人になってもそういう意識はあるのでしょう。 それが、コミュ障という言葉(の流行)に表れているのではないでしょうか。 コミュ障の逆は、八方美人でしょうか。どちらも、親友がいればともかく、 本質的に孤独なのは同じですね。いや、誰でもそういうものだと思います。 ご質問者様の病は、「それを気にする病」だと思います。 人間の本質が孤独であって、勘違いだとしても人と通じ合うことができれば、 一時的に満たされ、満たし合うこともできる。でも、日常では、そこまで 気にして生きている人はあまりいません。その事実が気になるというだけで、 気にしなければ、ごくごくまっとうな思考で、苦手意識も持たずに、 ほかの人と同じ程度には人間関係を持てていたのではないでしょうか。 誤解を恐れずに言うなら、「まともぶっている人がまとも」で 「気に病む人が病人」ということではないかと…。 人と通じ合うのは難しいもので、ほんの一瞬でしかありません。 次の瞬間には、それぞれに別々のことを考えてしまっています。 それでも、再び伝え合って、通じ合いたいと想い続け、その経験を積み重ねる。 それができた人同士が、本当に深い関係になれるのだと思います。 そうなれる相手は、生涯に一人いるかどうか、ではないでしょうか。 たとえそうだとしても、100%の自分を伝えることはできないし、 自分には見えない自分自身の姿を人には見せてしまっているわけで、 生身の人間関係は、それくらい難しくて面倒なものだと思っています。 なので、はじめの友人は、必ずしも生身でなくてもいいと思います。 本は、時空を超えて、人と分かり合える、とても便利な発明です。 それも、自分のレベルに合わせて読み解き、理解できる。 良い本は、読むたびに、その時々に応じた答えが返ってくる。 顔の見えないやり取りは、それに近いものがあるのではないでしょうか。 読みたいように読んで、誤解もあれば、感情的になることもあります。 でも、たとえ善意だけではなくても、お互いに何かを伝えたいという 基本の気持ちだけは、同じではないかと思っています。 自分の意見に対して、思わぬ方向から反論や異論が出ることもあります。 そうやって、自分の意見を磨くこともできるわけです。 話し相手に相応しい人がいるかどうかはわかりませんが、 お望みの場に近いものは用意されていると思います。 あとは、行動ではないでしょうか。 あ、これは完全に蛇足ですが…。 ちょっと極端な話ですが、「嫌われる勇気」という本を、読みたいという 気持ちの中に、すでに本に求めている何かがあって、その答えも、 ご自身で用意していらっしゃるのではないでしょうか。 まあ、こういう長文回答になると、相手には嫌われますね…。 若輩者が、失礼いたしました…。

noname#226970
質問者

お礼

はじめまして。 長文の回答?何も問題はありません。言いたいこと、伝えたい事を書いていたら長くなった。それだけのこと。 わたしは世間と接点がありませんので、例えば20、30代の人たちが、40代、50代の人たちが、「友人」をどのように位置づけ、どのようにかかわり、その存在によってどの程度充足感を得ていたり、また何に欠乏を感じているのかを知りたいと思います。 お話を伺っていて思い出したのは、シルヴァスタインという人の絵本です。 世の中がすべて、赤い貌(色は忘れました)をした人ばっかりで、そのなかで、たったふたりだけ、青い貌をした男の子と、女の子がいました。 二人はそれぞれに「仲間」を探しに出かけるのですが、自分だけが青い貌をしているのを恥ずかしがって、赤い貌のお面をつけて街をさ迷います。 そしてある地点で、二人はすれ違うのです。けれども、ふたりとも、自分の青い貌を隠した赤いお面をつけているので、相手が唯一の仲間であることに気付かずにふたり、すれ違っていきます。 わたしはいつも「青い貌」をしているせいかどうかわかりませんけれど、好かれません(苦笑) プラトンが描き出したように、人はもともと、雌雄一対の生き物で、それが別れ別れになってしまったために、一方は他方を求め続ける。(稀に同性同士が別れ別れになった場合は、男が離れてしまった男を、女が片割れの女を求めるということで、これは異常でもなんでもありません。)おっと脱線? わたしは「束の間の接触」を否定しません。その通りだと思います。そして、「点」と「点」を細い糸でつなげていって、一本の「線」になるのでしょう。 わたしは束の間の接触を持てる相手を未だに求めています。 他の方のお礼にも書きましたが、「わたしにとって」本は友人の代わりにはなりません。音楽や、映画、アートなどとともに、慰め(慰安)にはなるでしょうけれど。 インターネットは貌も見えず、声も聞こえず、表情も見えず、目の色も見えず、ましてや性別や年齢すら不明。 若い人にとってはこういうコミュニケーションも成立するのかもしれませんが、わたしが求めているのは「テクスチャー」或いは「マチエール」の伴ったコミュニケーションです。 五感を捨象したコミュニケーションは、わたしには不可能のようです。 興味深く読ませていただきました。どうもありがとうございます。

noname#226970
質問者

補足

無論、このやりとりも、あなたとわたしのコミュニケーションです。 ただ、わたしには、これがすべて、には成りえない、と言いたかったのです。

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  • sqqrcxvx
  • ベストアンサー率9% (84/911)
回答No.7

再度回答?します。 私へのお礼文中に 友人は欲しい・・それは分かりましたが 続けて 週末に会って本屋巡りをできる様な 一緒に公園を散歩できるような 夜中にふと電話できるような という一節がありましたが・・それは恋人同士の事ですよ。映画によく出てくる描写・・ 質問者さんは52~55歳位ではないかなと推察しますが。 人間は中高年ともなると次第に性格が頑固になり新たな友人と言っても作るのは至難。言わずとも当然お分かりかと思います。 ですが異性となれば話は別で・・ いえね、上記の描写は男同士が公園を歩く姿とは思えないのですよ。 自分の生活圏の中で気の合う女性を見付ける。同居せずお財布も別(ここ重要)でパートナーとしてお付き合いする。 ずっと独身、または現在は独身の女性であなたと年齢的にある程度釣り合いが取れる人はいない訳でもない。少なくとも年齢的に人間が凝り固まってしまっている同性の友人を見付けるよりは可能性がある。ほんのちょっとの差ですが。 質問文では、40代に友達と呼べる人を持てた・・同性だと思いました。ところが他の回答への補足を見るとそれは女性。 だったらこれからでも可能性は無いわけでもない。頑張ってという表現であなたにプレッシャーをかけたくはないのですが。でも公園における彫像の如しでは事態は何も動かない。 難しいところですね。

noname#226970
質問者

お礼

なるほど。 確かにご指摘の通りかもしれません。 わたしが40歳の時、約20歳年上の女性と『引きこもり』についての講演会で知り合い、「親友」になりました。 わたしは高校を卒業以来、同性・異性問わず、「彼女」を除いて友人を持ったことがないので、ああいう表現になったのでしょう。 男女の関係ではなくとも、異性ですから、当然手をつないでいました。 そして彼女もまた、何度か自殺を考えたことのある、心に(私などの計り知れないほどの)深くえぐられた傷跡を持つ人でした。 これまで多少なりともわたしと話のあった人は、どこかしら精神を病んでいる=心に傷を負った人たちでした。というと、まるで他にも友達がいたように聞こえるかもしれませんが、それはアルバイト先でちょっと言葉を交わしたり、インターネット上で数回メールのやり取りをしたりという間柄というほどの関係です。 傷を持つゆえに引き合うこともありますが、やはり心に抱えた傷ゆえに、次第にぎくしゃくしてくる。 わたしは特に「恋人」を求めてはいません。 そして必ずしも、「上記のような形」のみの付き合いを求めているわけでもありません。 曖昧で、漠然としたいい方しかできませんが、「ともだち」と呼べる人が欲しいのです。 わたしという「一個の人間存在」に、医者とか、福祉士とかいう「職業」や「ボランティア」でなしに、「関心を寄せてくれる人」「興味を持ってくれる」が欲しいのです。 けれども、お話を伺っているとなるほどと思わされる部分が多く、更に、異性に好かれる自信など皆無なので=52歳。無職。精神障害者ではね。 再度のお答え、ありがとうございました。 https://www.youtube.com/watch?v=SF69TgYVNzk&index=67&list=LLHCF71F_qKb0gs7wG9OAp_g

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noname#224992
noname#224992
回答No.6

こんにちは、私はアルチンボルドさんの、衒学的でレトリックに富んだ文章は結構好きですよ。 私は一応ビジネスマン40年やってきてますからコミュ障とは自分で思いませんが 人と話が通じないほうだとは思います。人はそもそも相性のいい相手というものがあって、私の場合「話の合う相手」は10人中2~3人。7割は「合わない」。 OKのサイトでも、合わない相手によく「そう思わないボタン(マイナス)」を押されていました。」 >哲学科の卒論のテーマが『文学と自殺』でした。 私は、母方の親戚に自殺者が二人います。母も長いこと鬱病でした。 >すでに10代後半から、わたしにとって人生は孤独で、暗いものでした。 私は中学1年のとき、3つ下の弟が小児癌で亡くなりました。身内の突然の死 (発症後半年で死亡)は不条理の極み。突発的に襲う不幸の存在を私の脳裏に 強く植え付けました。 ただ、私の場合、生きることの意味、この世界の構造を探求する方向に向かい 理論物理学、素粒子論、はては新興宗教、大本教からはじまって成長の家あたりまで経典を読み漁りました。 生長の家の谷口雅春の「生命の實相」は30巻ほどの大著ですが、この時代読んだ本のなかではもっとも面白く実用的だったと思います。 >4年間、そしてそれ以降、20代、30代と、友達を持つこともできず、 私もアルチンボルドさん同様、極めて内省的若者だったけれど、救われたのは のちに文学者になった高校の級友が薦めてくれた一冊の本のお陰です。 堀田善衛という作家の『若き日の詩人たちの肖像』という本は戦前の 東京の学生たち鮎川信夫・田村隆一など「荒地」の同人たちが小説のなかに でてきます。堀田は慶應の学生で、裕福な学生生活をすごすのですが 戦争直前の精神の荒廃しがちな時代の中で、正気を失わずに生きていくうえで 感性の鋭さとともに友情の厚さというものがいかに大切かということを この小説は熱く語っています。 >無論ひとりでどこへでも行ける人も少なくないでしょう。でもそういう人たちは、はたしてひとりも、何処にも友達のいない人たちでしょうか。 友達はいなくてはだめです。自分で心を閉ざしていたら、鋭い感性までも荒廃していくでしょう。 堀田善衛も戦前のすさんだ街を一人で徘徊します。砂防会館(当時の軍人会館)で演奏会を聴きにいく。ラベルのボレロを聴きながら、彼はそこで遺精してしまうのです。 >何が原因なのか?いったいなんでわたしは人間社会に溶け込むことができないのか? それはたぶん、自意識が過剰なんでしょう。 過敏な神経のバリヤが他人をよせつけない。 あるいは、他人が近寄ってきても自分から去っていく。そんな気がします。

noname#226970
質問者

お礼

こんばんは。 いつも立ち寄っていただきありがとうございます。 先ずはrepresentative2さんが、少なくとも現在、愛し、愛される(日本語で言うとどうも重い、というか。。。)方々をお持ちのご様子で、なによりです。 カミュのいうように、人間は不条理とともに生きることを運命づけられているようです。世界中の誰一人として、明日生きているという保証を得ることはない。 前にフランク・キャプラの名作『素晴らしき哉、人生』を観て、ラスト近くで、「友のいる者は敗残者ではない」というセリフがあり、非常に抵抗と反発を憶えました。 自殺を決意した主人公が、2級天使に助けられ、「あなたがいなかった世界」というものを見せられて、彼の存在でどれだけ多くの人が幸福になっていたか、を知り、生きることを望む男が主人公です。 昔はこの映画と『34丁目の奇蹟』をクリスマスに家族で観るというのがアメリカの習慣だったようですが、良くも悪くもキャプラ流の、古き良きアメリカ流の「通俗的ヒューマニズム」です。 文学も、芸術も、所詮は生身の人間の代わりにはなりません。 いえ、あくまでわたしにとっては、ということですが。 ご丁寧なお答えを感謝します。言葉足らずのお礼をお詫びします。

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回答No.5

22年間通院し20名以上の医師と関わったそうですが その中の一人が言った 「あなたは何所も悪くないんですよ」 私もそう思いますけれど。何処か悪いんですか?質問文の様な人はたくさ~~ん居ますよ。つまりあなたの様な人は大勢いる。 安心させようとは思ってない。事実を言っている。 分かって来ました。実は友人が欲しいのですね。では聞きます。友人の多い人は本当に満たされているのですか?孤独ではないのですか?

noname#226970
質問者

お礼

はじめまして。 >実は友人が欲しいのですね。では聞きます。友人の多い人は本当に満たされているのですか?孤独ではないのですか? ええ、友達が欲しいです。「精神保健福祉センター」でも「保健所の保健師」でも「精神科医」でも、「地域生活支援センターの職員」でもない。 ふつうの友達が欲しいです。 週末に会って、古本屋巡りができるような。 一緒に公園を散策できるような。 ふと夜中に電話で切るような。 友達が欲しいです。滑稽ですか?笑っちゃいますか? >友人の多い人は本当に満たされているのですか?孤独ではないのですか? それにこたえる資格は私にはありません。 充足感や孤独は友達の多寡とは無関係でしょうし、 「孤独を友とする」人も少なくないでしょう。 ただ、わたしはそうではないのです。 「孤独はいいものだ。でも、「孤独はいいものだ」と言える相手がいることは、もっといいことじゃないか」(バルザック) お答え、ありがとうございました。

noname#226970
質問者

補足

以前、今の主治医に訊いたことがあります。 「わたしは正常ですか?」と。 すると「いや、明確な「病気」ではないかもしれないけれど、あなたは人間関係が上手く築けないことで、生き辛さを感じて苦しんでいる、そのために孤独にもなっている。孤独が常態で、安定している人はここには来ないだろう。苦しんでいる以上、「健康な状態」とは言えない」

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回答No.4

おはようございます。^^ 先日、大人の発達障害の本を読む 機会がありまして、読んだのですが… アスペルガー症候群のひとの所で?と 思いました。 こんなひとはザラにいるし、それを 指差してあのひとはおかしい、と言ってる ようなものなのじゃないか、と。 また、ひとは、いつも朗らかで優しく 周りにあわせ、はみ出なければいけない ものでもないと思うのです。 逸れますが、東北大震災の津波が迫って いても、きちんと道路に整列し赤信号で 停まっていた渋滞の車列の映像を見て 涙が溢れました。 誰も反対車線を暴走などしない、そんな 場合に於いても日本人は出来ないように 刷り込まれているのか…と。 自分ひとりだけ助かれば良い、とは 思わないし車を残しても行けない生真面目 さゆえの映像。哀しくてなりませんでした。 枠にはまっていなくては 必ずしも いけない事とは限らないと思いますよ。 そうしなければ個々の個性は育たないし 人権の尊重を著しく損なうでしょう。 白か黒かと問われ、赤ですと言っても 別に構わないという事です。 質問者様は、もしかしたら、 ご自分に合わない場所に身を置いてきた のではないでしょうか。 私は思うのですが、高卒で就職をする場合 自分にピッタリな職業を見つけられるひと は非常に少ないのではないかしら。 18くらいで60まで働く生涯の基盤をみつけ るのは恐ろしく難しく、ほとんどのひとが 我慢して続けるか(途中で爆発もあり) 転職をするか。 私も、自分を知らない為に合わない場所に 身を置き、苦しんだひとりです。 自分は人と接する事が好きなのだと思い 15年、サービス業種で働きましたが、 現在は工場勤務です。 ものづくりの精神、先人の知恵、本当に 素晴らしく、最もはやくにここに 居たかったと何時も思います。 思えば父親は職人でして、私は父似ですか ら、DNAはしっかり受け継いでいた訳です ね。^^ このサイトの哲学のカテでも質問と回答 で考えの近い方は見つかりそうではない ですか? または映画や絵画の芸術面に興味がおあり なのでしたら、専門サイトで共通の趣味 の方もいらっしゃるでしょうし、オフ会 などで親交を深められても良いかもしれま せん。 あ、あとで絵のスレにお邪魔します♪ 開けていて下さいネ!!(^-^)/

noname#226970
質問者

お礼

はじめまして。。。でしょうか? 大地震に際しての日本人の行動様式、テレビを見ないので、そういうお話を初めて聞きました。 >また、ひとは、いつも朗らかで優しく 周りにあわせ、はみ出なければいけない ものでもないと思うのです。 どうも。。。そもそもどれにも当てはまらないようです。 わたしは大学時代に初めて、世界との断絶を実感しました。 自分が何に向いているのか?そもそも何が好きなのか?或は何ができるのか?そんなことすらわからずに、新卒で入社した小さな出版社を、試用期間で首になり、以来、こちらで荷物の仕分け、こちらでマネキンの搬入・搬出と言った仕事を転々としてきました。 今思えば、普通の大学など行かず、アート系の専門学校でも行っていればな、などと思うこともあります。 Jelly-beansさんは物づくりの仕事に遣り甲斐を見出されたのですね。 素晴らしいことです。 わたしが短期間いた会社で、営業をやっていた人が、ひとりは郷里に帰り、長距離トラックの運転手に、一人は老人福祉の仕事に。見事に天職を見つけたといった感じでした。月並みな言葉ですが、輝いているようでしたよ。 あなたと同じように。 >このサイトの哲学のカテでも質問と回答 で考えの近い方は見つかりそうではない ですか? あ、それは難しいです。哲学のカテゴリーは難解で、とてもついていけません。 >または映画や絵画の芸術面に興味がおあり なのでしたら、専門サイトで共通の趣味 の方もいらっしゃるでしょうし、オフ会 などで親交を深められても良いかもしれま せん。 ええ、でも問題があります。 わたしは単に「ともだちの見つからない映画好き」ではなく、精神障害者ですので。 とても素敵なお返事を頂き、ありがとうございました。 絵の質問、開けておきますよ!

noname#226970
質問者

補足

「哲学のカテゴリーは難解で、とてもついていけません。」 というのは皮肉でも揶揄でもなんでもなく、そのままの実感です。 以前(6年間)親友だった女性に「あなたって本当になんにも知らないのねぇ!」と呆れられていました(苦笑)

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