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人間関係の構築の仕方について
こんにちは。 最近似た様な前置きをした上での質問をし、またかと自分でも思っています(笑)が、私が今考えている事に対する率直なご意見をお伺いしたく、見る方によっては大変不愉快に感じるかもしれない(あくまで可能性の問題で、不愉快とは私であれば思いません)私の日頃の内心を以下に記します。 これは、飾って原型から変わってしまった私の内心を書いたところで有益なご意見は得られないであろうという判断に基づくものです。 従いまして、以下には人によっては不愉快な内容が記されています。 不愉快なのは承知の上で書いている質問なので、これに対して感情的になる方のご意見は求めておりませんので、自身がない方はここで読むのを止めてください。 読み終わった上で理性的に、一人の自立(自律)した人間としてご意見を頂ければ幸甚です。 ふざけた回答の相手はしませんので、あしからずご了承頂きます様お願いします。 上手に私が指し示したい事を漏れなく表現する言葉を思いつかず、拙い以下の様な言葉になってしまうのですが、 行間等お読み頂き、理解力のある方が私の言いたい事をご理解して下さる事を期待して申し上げます。 「自分は問答無用で君の仲間だよ」という類いの事を言ってくれる知人が居たとします。 詐欺などの犯罪性のあるものではなく、普通に人間関係を構成している中で言われたとします。 その時、私はこう思うのです。 「そんなものは不要です。あなたが人間として隣人に払うべき礼や誠を失わず、正きを追い正しく生きようとしている中で私を見て、誤りを最大限排除して誤解の無い様に私を見る事に気をつけてくれればそれで十分です。むしろ問答無用で無条件の仲間になどなられると余計な不穏な流れが自分の身の回りに生じやすくなり迷惑な面の方が気になります」 もちろん、視野が十分広く深く、しかも精神が安定しているしっかりと自律(自立)した人に同じ事を言われたのならとても嬉しい気持ちになるのではないかと思いますが、いわゆる普通の人にそう言われても素直な気持ちとしては上記のような事を思ってしまいます。 「無条件にあなたの仲間だよ」と言う人は私の周囲にはまあ居ませんが、そういう姿勢というか、言動をしてくる人は居ますよね。人間関係とはそういうものだろうとでも思っていそうな。 私自身、多くの日本人を金太郎飴の様な民族だなと思っている面があるため、人間への興味は失っていないつもりですが、所謂一般的な日本人のそれにはあまり興味もなく、故に自分に興味のない人にはこちらも特に興味もわかない。 自分に興味を持ってくれる人に対しても、上記の様な事を思ってしまう私は「距離」を近く付き合う事を好まず、熱の伝わりにくい距離というと分かりにくいかもしれませんが、理性的な距離を保とうとします。 感情的な人間が以前自分の回りに多く、鬱陶しい事極まりない目に遭い続けたので無意識のトラウマなのかもしれません。 私はそもそもが孤独が嫌いではありません。 みんなでワイワイする機会があっても途中で一人ですっと息抜きをしに出るタイプです。 普段から人に囲まれている訳でもなく一人の時間は大量に与えられているのにも関わらず。 仲良くしようと思えば仲良くしてくれる人は周囲にもちろん居ますが、中々気が進みません。 従って、私はとても孤独な時間をかなり長期間過ごしていますが、今この瞬間に於いても私は私の人生が結構好きですし、今の現状にとくだん問題を感じていません。 今回、ちょっとした理由があり人間関係というものを今改めて見つめ直してみようと思いまして、書いてみました。 先ずは上記をお読み頂いてどうお感じになりましたでしょうか。 頂いた回答で満足すればそこでめでたく終了。頂いた回答で更なる新領域が生じればそこでまた別の質問等を立てるかもしれません。 先ずは今回のこの私の心理状態に対するご意見を頂ければ幸いです。 なにとぞ、よろしくお願い致します。
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- doraneko66
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偽善者ですね。
- 783KAITOU
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お礼の文書の中にご質問を頂きましたので再度失礼いたします。 >どうしてあなたはご自分の人間関係の有り様にある種分かった様に~原因がきになります。ここは少し考えてみても意味が分かりませんでした。もう少し詳しく説明して頂けますか? ↑ 人と人の関係の有り様についてあなたは、あなたなりの規定された様なお考えをお持ちになっているので、それが時として悩みを発生させる原因になっているのではないでしょうか。と、いうことを伝えたかったのです。 又、寂しさとか満たされないという事を申し上げたのは、現在のあなたについて申し上げたのではありません。現在のあなたに至る過程に、特に幼少時において「寂しさ」「満たされない気持ち」を、無意識のうちに内包したまま今日のあなたがあるように感じたのです。 誠に失礼ながら、あなたがお書きになっている文書、その内容を拝見して私の正直な気持ちを以下に申し上げさせて頂きます。又、あなたとここで論争する気持ちがないことも申し上げておきます。なぜなら、ここは個人の意見交換の場ではないことに加え、あなたとのやりとりは、現状では際限のない不毛だと考えるからです。 ◎あなたは内面について話しています。と、仰っていますがそれは、あなたが対象と関わる際、或いは対象との関係性について、あなた個人の気持ちについて話しているに過ぎません。この点からでも分かる様に、あなたのものの見方考え方はご自分の方から観た、考えた考え方です。難しくいうと「自己意識」の思考方法です。(自己中心とは違います。)自己意識とは、右脳の前頭葉の虚像というイメージ野に浮かぶイメージのことです。 従いまして、難しいことを仰っている割にお書きになっている言葉に一貫性が感じられません。場面、対象が変わると思考がブレてしまうのです。もの事を認識・理解する基軸がブレるのです。見えるものとか感覚される対象については問題ないでしょう。しかし、見えない対象には、そんなものあったのか。と、いう感じなのです。 従いまして言葉の意味も自己解釈に陥る傾向があるのでしょう。失礼千万は承知で申し上げました。勝手ですがこれ以上この場でのやりとりは控えさせて頂きます。
お礼
こんにちは。 思った事を率直に相手に伝え、それに対する応答を相互に繰り返すのが対話というもので、対話の目的の一つは「答えに至る事」だと考えています。 従って、思った事を率直に語って頂くのは何も問題ない事かと思うのですが、いかんせん仰っている内容に対する理解が私には難しく、意図が掴めずに居ります。 意図が掴めないと言うのは半分社交辞令で、もう半分はご自身を鏡に映してその鏡に映ったご自身に語りかけている。つまり私とは何ら関係ない内容かと思っているのですが、これもいかんせん内容の理解が出来ておりませんので判断しかねております。 そういう訳で、半分は自分の不出来の可能性、もう半分はあなたの不出来の可能性、あなたの不出来の可能性に興味はありませんし、あなたも興味はないでしょう。 とすれば残るは私の不出来の可能性。 私の不出来部分については知り、吟味し、判断した結果を反映させるために興味があるのですが、どちらかというともう半分に私の見解が寄っているため、それほどモチベーションも上がっていません。 さらにあなたも捨てセリフよろしくフェアとは言えない言い草で去って行こうとなさっている。 特段問題ありません。 お好きになさってください。 ご回答ありがとうございました。 では。
- hajime0309
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知性のある方なんだなと思いましたが、答えになっていますか?
お礼
こんにちは。 すみません。 なっておりませんが、あなたへの回答を考えるという私の作業自体が私にヒントを与えてくれました。 あくまで種としてのヒントなので、まだ表には出せず、先ず地中に埋めなければなりませんが、ありがとうございました。
- LOTUS18
- ベストアンサー率31% (1807/5783)
#2です、お礼ありがとうございます。 人間関係構築についてのご質問だったので 自分にとって快適にするには、 という事のヒントが得たいのかな? と思っての回答でした。 誤解していたようで失礼いたしました。 だとしたら今回人間関係の構築の仕方について 考えるきっかけとなった 「ちょっとした理由」を明記していただけると 誤解少なく回答させていただけるのではないか と思うのですが そこはおっしゃりたくないのでしょうか。 > 私の言う「感情的な人」は別の言い方をすると 「耳も頭もついていない人」です。 ここは理解していたつもりですが 想像以上にその足きりラインが高めに設定されていて あそびの部分がないのだな、と感じました。 効率よく「思慮深い人」を選びたい、となると 人間関係の構築というよりは 自分にとって害にならない知人と ある程度の距離感を持って付き合う のがベストな状態なのではないでしょうか。 そしてそれは今まさに 実践なさってきたことなのではないでしょうか。 >それを認めもせずに言い訳ばかりしている人と 一緒にいて面白い筈がない。 では 知人を増やす漁場が違うということでしょう。 私は心理学関係とか解剖生理学関係とかの 勉強会に一時期行っていたことがありますが 皆さん魅力的な人でしたし 話していて楽しく、勉強にもなりました。 自分のダメなところを 気付かせてもらうきっかけにもなりました。 これは普段の幼稚園関係の母親との関わりでも 感じることがあります。 そして類は友を呼ぶのは本当だなと思います。 ですから、今何か変えたいとお思いなら 新たな場所に足を運んでみるとよいのではないでしょうか。 >私の人間関係に於ける他人との間にある気持ちは 幼少期に由来しているものが多そうです。 そうですね、大抵の人はそうです。 私もヒステリックな女性(母親)と 身勝手で自己中心的な男性(祖父)と 働かずに文句ばっかり言っている知人や その他癖のある人が身近にいたおかげで 最低限の感情のコントロールもできない人間や 都合悪くなると語気を荒げる人間を どこか見下すところがあります。 でもそれはもうしょうがないので そのうえで人付き合いをしています。 幼少期の自分や家族や生育環境などについて 改めて整理して分析してみるといいのかもしれませんね。 それでわかることは多いです。 みんな年をとり、昔嫌だった家族とも 否応なくかかわらなければならない時も来るでしょう。 気の持ちようとか、関わり方とか ある程度自分の中で構築していると 必要以上に惑わされない助けになるでしょう。 あと、必ずいつか 誰かにお世話になる時がきます。 その相手をバカ認定していても 世話にならなければならないこともあります。 あまりに高い防御壁は 却って自分を苦しめることもあります。 憶測でものを言うなと思われるかもしれませんが 今のご自身の人生結構好き、なことは 間違いないのでしょうけど 時々言いようもなく 「寂しい」 とお感じになるのではないかな、と思いました。 難しいかもしれないけれど もっと近しく、 関わりたい他人が欲しいのではないですか。
お礼
こんにちは。 再びありがとうございます。 ここは聞かれるだろうかとは思ったのですが、とくにこれといった考えもなく、そのまま書き進めてしまっただけです。 理由は「人生で最も”この人浅はかだな~”と思う人間に出会ったのが約1年前、こんどその人と共に仕事をしなければならなくなり、本来なら助けになるはずの別のポジンションの人も移動になり変わりに配置された人が当てにならず、ちょっとしたストレスになっている事、これからどう接していくかを考えているところだから」です。 私に落ち度のあるところなら早々に改めておいた方が良しでしょうし。 >知人を増やす漁場が違う~ これは常々そう思っているので、色々な分野に顔を出してはいるのですが、今のところは特にといった感じです。 私の家族の中で私の精神に強い影響を与えたのは両親だけで、兄弟は特に問題なく仲良し。 両親もあまりに「バカ」過ぎて見下す、軽蔑、これら全てを超えてしまっています。 でも、それはある一面だけの問題で、両親ともに私には愛情を注いでくれましたし、人並みの生活を送らせてももらいましたし、その一面の他の部分は問題のない人たちなので、特に仲良くできないという人たちではありません。 ただ一緒には暮らせないだけ、それは兄弟も同じ意見です。 もう少し老いぼれてエネルギーが衰えてくればまた事情も変わってくるでしょう。 聖書にも「あまりに高い防御壁が身を破滅させる」事は書いてあります。 でも私は現状でも大分低いと考えている位です。 その低いものすら止めなければならないなら、世の中の全員に暴力団やチンピラ、詐欺師などなどを普通の人認定してほしい位に引き下げています。 日本人の昨今のレベル低下は留まるところを知らない様です。 自分がダメな事を理解して、それを受け入れてくれる人を探していた昔はまだ良かった。 今は自分がダメな事を「多様性」などの類いの言葉を使って認めさせない。 それもまあ良いでしょう。 では同じ様に他人のそれも認めるべきではないでしょうか。 そういう自己矛盾に陥っているにも関わらずその自覚からすら逃げる。 私は一体どこまで引き下げれば良いのでしょうか。 >時々言いようもなく「寂しい」と感じる時がある~ 7年位前まで、数年に一度数日間そういう気持ちになる時期がありましたが、今はそういう事はありません。 ただ心臓に負担がかかっている(もしかしたら単なる不摂生が原因の可能性もかなり大きい(笑))のは感じます。異常なしですが。 そしてこの心臓の負担も私のもう一つ抱えている問題からの要因の方が大きいと考えています。 ただこのもう一つの問題は問題として成立してしまう側面もしばしばあるのですが、本来なら「人生の良しを得る為のツール」として非常に有用なものなので、なくしたくもない。 最後に、私の母はこの質問で言うところの典型的な「耳も頭もついていない人」です。 そんな母に育てられましたので、「バカ」の世話になる事は既に経験済です。 「バカ」という言葉を使うと誤解されてしまうかもしれませんが、私は普通に母の事は愛しているつもりです。 とても愛情深い人ですし、明るく優しい。 ただ「優しい」が「物事を曖昧にする事によって成立する偽りの優しい」だからその優しさにあまり興味がないだけで、私の母の周囲にはいつも人が絶えません。私も含めて。。。ってそんなに会っている訳でもないのですがあくまで気持ち的にはというお話しで。 また、これらが自分の心の中で整理がついていない期間は、そういう「未来の自分の状態に不安を抱き、そういうネガティブな理由で今を変えようとする事は避けていました。」 未来の事等気にせず、正きは正き、悪しきは悪しき、その時々で理解し、判断する事を大切にしていました。 もし未来のそうした要因を考慮して今を変えるなら、それは権力に負けて取るにも足らない権力者に不必要に媚びたりなどして自分を歪め、その歪みに言い訳を探している事によって私に「つまらない」判定を下されているその人たちと同じになるのではないでしょうか。 弱いから歪み、その歪みに言い訳を探すまでは良いでしょう。 人間の弱さは計り知れませんから。「考える葦」と言われている通りです。 でも、その害度が半端ではなくなり猛威を振るい始めたらいい加減止めるべきだ。 そう思うのは「高過ぎる」でしょうか。
- 783KAITOU
- ベストアンサー率43% (1758/4022)
人間関係において、あなたはあなたなりの距離感をお持ちですのでそれに対して問題だと感じる事はありません。人との関係意識をあなたなりに築いていらっしゃるのですから、それらから派生する都合の良いことも不都合なことも自己責任ですので・・・。 どうしてあなたはご自分の人間関係の有り様にある種分かった様に自分に言い聞かせているのかの原因が気になります。多分、あなたはご自身でお気づきになっているかどうかは分かりませんが、心の中に寂しさ、満たされない何か、或いは両方を無意識に感じられていてそれが解消されないまま今日に至っているのでは、と思います。 このように→「自分は問答無用で君の仲間だよ」と、言って土足で人の気持ちの中(心)に入り込んでくる人もあるでしょう。こういう人は、友人知人などは仲間内。身内。と、いう位置づけで他者との関わります。こういうタイプの人は、言葉遣いも内輪の人間にしか通じない言葉で会話します。 一方、あなたのようにある程度の距離を置いた関係の気持ちで人をみると、相手はどの様な人なのだろうか。と、言う様な相手の属性とか社会的立場などを考えながら相手との距離感を図りながら近づいたり離れたりをするでしょう。言葉遣いも仲間内の言葉遣いにならずに相手と距離のある言葉遣い、つまり敬語を中心とした言葉遣いになるでしょう。 最後にタイトルの【人間関係の構築の仕方について 】についてです。人間関係を構築するには、自分と相手とを媒介する何かが必要です。その何かの中で一番普遍的だと思うものは「言葉」です。言葉の中でも「挨拶の言葉」です。この言葉が自分と相手とを関係づける一番最初の何かになります。 挨拶の言葉、例えば「誰々さんお早うございます」と、相手に挨拶の言葉を投げかけたとします。そうすると相手は「お早うございます」と、挨拶の言葉を返してくれるでしょう。そして、そういう言葉が交わされる回数が増えると何となく親近感を覚え、挨拶の後の言葉を言えるようになります。 例えば、挨拶の後に「今日は寒いですね」とか「11月に入ったばかりなのに12月の寒さのようです」等の言葉が挨拶の後に続くと、人間関係の距離は少し縮まります。挨拶の言葉を切っ掛けに言葉のやりとりが盛んになる事でお互いが持っている色々な情報交換が可能になりますので人間関係は豊かになるでしょう。 人間関係を構築するのはまず挨拶の言葉を正しく言い表すこと。次に、挨拶の次の言葉、つまり自分が興味を持ったことを言うことです。そこから関係が発展します。
お礼
こんにちは。 >どうしてあなたはご自分の人間関係の有り様にある種分かった様に~原因がきになります。 ここは少し考えてみても意味が分かりませんでした。 もう少し詳しく説明して頂けますか? 例えば、「生きている人としての言葉」を返してくれる様な人ならぜひ一緒に居たいと思いますので、そういう人が居る状態と居ない現状を比較すれば寂しさはありますが、居ないのが当たり前になっているので特段「寂しい」という感覚を感じているのかどうかという話しはやや込み入った話しになりましょうか。 満たされないのは満たされていません。 いや、「足るを知る」という言葉の意味を私は分かっていない可能性もありますが、「足るを知る」という範疇で見れば差し支えない状態かとも思っています。 それが質問文にも書いた「自分の人生が好き」という所以でもあります。 敬語については、私は物心ついた時には既に親にも敬語でありたいと考えていましたので、通常の人間関係が基本的に敬語になっている理由は自分でも分かりません。 子供の頃親にも敬語を使いたいと考えていたのは、距離感というよりは「礼」が主にあったように記憶しています。 挨拶をすれば仕返してくる普通の人間ばかりではありません。 挨拶をしているのに仕返してこない人も結構います。 そしてそういう人たちとも接しなければならないので、挨拶の有無に関係なくその後の会話は始まります。 でも、「挨拶を仕返してこない」に現れている通り、たいした人間ではありません。 持っている価値感や世界観も披露して頂く事がありますが、今のところ全く興味がないどころか、浅はかだなーであるとか、弱いなーとか、愚かだなーなどと思うものばかりです。 上記の様な人は論外ですが、そうでない人との関係も疎かになる理由として最も多いのが「やはりその枠からは出る気がないんだよね」です。 例えば、男性(A)が女性(B)のご両親(C)に婚約の挨拶に行く際、ご両親を安心させるために色々なステータスを持ち、立ち居振る舞いを整えなどするかと思います。 これは「礼」として当たり前の事かもしれませんが、別の視点で見ると、相手方のご両親も完璧ではない人間です。 偏見もあるし、頭がそんなに良くない事だってあるでしょう。 その親を安心させる為に様々な事をする。 これは「AがCの持っている世界観や未来設計などを予測してそれに則した自分であるというアピール」と言えるでしょうか。 会社での企画とプロジェクトの進行も同じですし、多くの事柄がこの「相手の既存の世界に則した自分であるアピール」が行き交います。 先進国ではある程度仕方ない事です。 例えば、禅宗では「考える事」そのものを否定する場合があるそうです。 いろんな人を見ていて、「人間が考える事なんてたかが知れているな」と思った事位はありませんか? 何も分からないところに踏み込んでいくのは少し大胆な言い方をすれば人生の醍醐味でもあり、進化、成長の大切な要素だと思うのですが、「そんな事したらどうなるかわからない」で全て終わり。 逆にそんな自分でコントロールできる範疇でのみ、、、どころかさらに他人に見せる余裕のためにその範疇からさらに余白を内側にとって生活していてそれが結果退化に繋がるとは考えないのかという点です。 私から見ればこれだけ科学の文明が発達していても、人間自身は太古の昔からそれほど変わっていません。 いや全然変わっていないのかもしれない。。。どころか太古の人間の方が優れていたかもしれないとさえ思います。 私は仕事ができるとか、頭がいい等と言われますが、これらが「褒め言葉」として用いられるのも「予測された相手が望んでいる反応の提出」ではないでしょうか。 正直私は自分が頭がいいかどうかなどどうでも良い。知る必要のある事、理解する必要のある事さえ理解できればそれで良いと思っているにも関わらず。 一口で言ってしまえば「箱庭族」なのです。 大抵の事が計算された範疇内での生活。 そこから逸脱する事に過度に恐怖心を抱く臆病。 何ヶ月、何年か先まで手に取るようにと言ったら大げさですがそう言いたくなる様な人生を大した目的意識を持っている訳でもなく単に恐怖心や不安の類いから歩いている人も多いでしょう。 計算された範疇内での生活がつまらないという事を言っているのではないんです。 それが臆病や不安などの類いから成立しているというところがつまらないんです。 「箱庭族」をさらに進めて一口で言えば「ネガティブな要素に負けている人間」です。 何年先が手に取るようにわかる堅い道を歩いている人も、それがその人が心から望んでいる事ならそれは結構な事です。 大学進学も、その人が本当にそれを学びたい、極めたい、進めたいと考えているならとても尊い事です。 どの位の割合の人が「自分の目で見て自分の耳で聞いて自分の肌で感じて自分の頭で考えて人生を創造している」と思いますか? みんな何となくはじめてませんでしょうか? 何となく始めて色々な経験をして大人になっていきますが、全てに安全対策がとられる世の中では大人になる機会すらなく図体だけ大人になる人も増えていると思いませんか? これが私の言う「退化」の一面です。 「つまらない」んです。 だから一人で進めるところまで進む。 途中世間話をする程度の道中友達位はあっても、長い道のりを一緒に歩く人はそうは居ません。 その理由が一人一人が「生きて」あっちに行き、そっちに行きしているならその姿を見ているだけでも面白いものですが、道を歩いている人を適当に引っ捕まえてたとしても大半が枠から出るような範疇に関しては思考停止で理解不足から生じているだけと言った方がより適切な状態。 「つまらない」んです。 さて。 大分長く内面について話してしまいました。 先ずは長文に関してお詫び申し上げます。 そして、大分表に出さずに内に抱えている事を表現してみましたので、改めて見ると私の内面に抱えていたものこそが愚かで浅はかだという可能性から確認し始めなければなりません。 回答者さまも有用な手助けがおできになるようであればお手伝いして頂ければとても幸いと存じます。 勝手ばかりで恐縮ですが、ここはそういう場所でございますので、何卒、よろしくお願い申し上げます。
- doraneko66
- ベストアンサー率11% (535/4742)
私なら軽く疑わしい、煩わしい感じがしたら 仲間?仲間になったつもりないですけどね。笑 と言ってしまいます。
お礼
こんにちは。 すみませんが、隣人愛、博愛などの精神はそれなりに大切にしているつもりです。 従って、友と呼べる人は居なくても仲間としての愛は捨てはしません。 ま、相手が先にこちらを捨てれば追いもしないのですが。 なにせ相手の自由意志ですから。
- LOTUS18
- ベストアンサー率31% (1807/5783)
人と対面したときに、 過度に「この人は自分より利口かバカか」を 意識していらっしゃるのではないかなあと思いました。 確固たるモノサシがご自身の中にあって それは自己防衛のためのものでもあるのでしょうが 人を楽しむ、ということを 阻害しているのではないかと思いました。 人間関係は頭で考える面と 五感を使って感じ取る面があり どちらに偏っても 自分的に心地よくなくなります。 自分にとって「こういう人間のみ求む」という状態だと それこそ嫌悪していらっしゃるステレオタイプの人を求める という事態に陥るのではないでしょうか。 感情的な人、にも色々いて なぜそうなっているのか なぜその言葉を選んで発するのか なぜそういう行動をするのか 考えてみると人によってその原動力は違うでしょう。 でも 人間関係を構築するにあたっては その人といて楽しいかどうか に尽きると思います。 それは初対面でもわかることです。 一人でいる自由はいつか飽きる可能性もあります。 何も考えずに目の前のとの時間を楽しむ という機会もあっていいんじゃないでしょうか。
お礼
こんにちは。 最初のパラグラフですが、当たらずとも遠からずというところでしょうか。 私の念頭にあるのは人間関係を良好に保つ事ではなく、自分の目的です。 ですから、その邪魔になるタイプは避けるという面が人間関係を良好に保とうと注力している人よりは過度になっているとは思います。 頭と五感のお話しももちろん分かっているつもりです。 私の「こういう人間を求む」の重要キーワードは「思慮深い」ですから、ステレオタイプを求める事にはならないと思います。 このパラグラフは私の質問文をよく理解されていないのかな?と思いましたがいかがでしょうか。 次のパラグラフは私も質問をするボタンを押した後に気付いたのですが、質問文の書き方が悪くて生じてしまった誤解だと思います。 私の言う「感情的な人」は別の言い方をすると「耳も頭もついていない人」です。 相手が何を言っているのかちゃんと聞いた上でも相手の言い分をちゃんと理解できるかどうかは分からないのに、聞かずに何か分かったつもりになるバカに用はないという事です。 世の中には本人、当事者よりも洞察力のある、相手の話しを聞かなくても理解が進む人も居ると思いますが、私はその人がそれかどうかをある程度観察した上で「バカ判定」しますので、問題ではないかと思っています。 >でも人間関係を構築するに~いいんじゃないでしょうか。 何も考えずに目の前の人との時間を楽しむのは必須だと思います。もちろんしているつもりで、だから笑顔で周囲の人たちと話し、その笑顔や交流が自分のメンタルヘルスにも役立っていると感謝している部分もあります。 でも、ふと冷静になるとやはり面白くない(つまらない)内容でばか騒ぎしているだけで虚しいという面も出てきます。 今「なぜ虚しいのか」を自問しましたが、恐らく心からの働きかけをしていないからでしょう。 でも、今の世の中の人たちの多くは口では綺麗事を並べ立てても、心の中では経済社会のしがらみにがんじがらめで世界観や価値感までも捕われてしまい、それによって生じた歪みの言い訳ばかりしているような人も多いのはご存知だと思います。 多かれ少なかれこういう側面は非常に多くの人にある。 真実を受け入れられない人と一緒に居て面白い訳もなく。 人は弱く愚かなのだから、できもしない世界を丸呑みするという行為をして怪物の一部として同化してしまう位は許容範囲でしょう。 でも気付いたら止めようよと思います。 自分の意志で化物から脱却すると決めれば同化は次第に取れていくのだから、気合い入れようよと思います。 それを認めもせずに言い訳ばかりしている人と一緒にいて面白い筈がない。 認めても「仕方ない」と諦めているだけの人も同じです。 「仕方ない」のがなぜ「仕方ない」のか。 この理由が軟弱極まりない。 もっと「生きろよ」と思うところです。 少し前からずっと思っている事なのですが、私の人間関係に於ける他人との間にある気持ちは幼少期に由来しているものが多そうです。
- yaasan
- ベストアンサー率22% (2726/12281)
あなたの感覚は普通に存在するものでありますが、 >精神が安定しているしっかりと自律(自立)した人に同じ事を言われたのならとても嬉しい気持ちになる と人間を区分けし差別視している点は非常に気になります。あなたの言っているしっかりと自立した人と普通の人に大きな違いはありません。どちらに言われても同じ思いを持たなければ、あなたの考えは偏屈となってしまいます。 「仲間(友人)だ」と特別に言う人間はそのほとんどが偽りのための発言になると思います。要は個人で考えるどんなに偉く素晴らしい人間だとしてもこの言葉によってあなたを騙す気があると考えて間違いないと思います。 故に偉く素晴らしいと捉える人こそ喜ぶのではなく、返って用心すべきなのだと思います。人物評にこそ騙されてはいけないと思いますよ。
お礼
こんにちは。 申し訳ありませんが、私にとって思慮深い人と浅はかな人の差は雲泥です。 ここの区別をつけなくて良ければそれは確かに楽というか、楽しさが増すかとも思いますが、うんざりする様な思いも多々する事になると思います。 思慮深い人と、浅はかな人を区別する理由は何かと自問しました。 思慮深い人は単純に話していて面白いですし、相手に何をすると土足で踏み込む事になるのかを理解しそれを避ける事ができる。 浅はかな人はその反対。 ここが私の最も懸念している点かもしれません。 ただ、今自問して今即席で返って来た答えなので、まだもう少し置いておく必要がある答えです。 でも、子供の頃この「土足で他人の心に踏み込む」タイプが身近に何人かおり、非常に嫌だった記憶はありますので、可能性としては濃厚です。 >差別視している点~偏屈となってしまいます。 のパラグラフは自問のきっかけになったのでお礼を申し上げますが、 それ以外の内容については、内容が迷走しているように見えています。脱線してしまっているのか、概念を私が拾えていないのか、真面目な回答を装ったふざけた回答なのか分からない様な文面になってしまっているようにお見受けしますが、今回の「自問」のきっかけは有用でしたので、たとえふざけた回答でも今回だけはお応えしても良いかという気分で書いています。 このサイトには本当に心から下らないなと思う輩を結構見ますので、最近の心理コンディション的にもそういうのには本当にうんざり来ており、やや過剰反応を示しています。 もし次からも回答頂けるなら、思い込みや偏見をもう少し取り除いて断定調ではなく相手への確認調を強めて頂けると過剰反応が出にくいと思いますので、何卒、よろしくお願いします。
お礼
こんにちは。 たぶん、あなたとは以前にこのサイトでお会いした事がありますよね。きっと。 このコメント単体だけなら相手する必要のないゴミ回答なのですが、あなたの場合、頭が良くないだけで性根がひねくれている訳ではない可能性が払拭できていなかった気がしますので、念のため確認です。 どのように「偽善者」なのか、説明できますか? 頭が良くないから説明できない可能性は考慮しますが、いずれしにろ説明できなければ相手に伝える事はできません。 「偽善者ですね」「偽善者ですね」だけで良いなら安いプログラムでもできてしまうので、簡単に取って代わられてしまいますよ? そんな人生で良い筈がないでしょう? とりあえずこのサイトが自動的に閉め切るまでこちらで閉める事はしないでおきますから、ゆっくり考えて文章にしてみてください。 では。