• 締切済み

カチューシャがロシア民謡って詐欺でしょ?

だって、 ・作詞者:ミハイル・ヴァシーリエヴィチ・イサコーフスキー     Исаковский, Михаил Васильевич ・作曲者:マトヴェーイ・イサーコーフスキー・ブランテル      Блантер, Матвей Исаакович ・初めて歌った歌手:リーディヤ・アンドリェーエヴァ・ルスラーノヴァ           Русланова, Лидия Андреевна ・公開初演の日時:1938年11月28日 だと判っているんですよ。 民謡というものは作者も初演者も不明のものを指すんですから、「カチューシャ」が民謡というのは理屈から言ってありえません。 なのに「ロシア”民謡”」って……(笑) まあ、詐欺という言葉はきつすぎるかもしれませんけど、特定の作者の存在が明らかであるにもかかわらず作者が存在しないかのように無視して誤魔化している(としか受け止められません)のは私にはどうも理解しがたいんです。 ソ連の存在していた冷戦の時代ならば、作者の情報が入ってこなかったので「民謡」ということにしてお茶を濁したのだろうとまだしも理解できますが、鉄のカーテンも消滅してインターネットで手軽に世界中の情報を得られ、もちろん旧社会主義国であろうとどこであろうと歌謡曲の作者の情報など当然のように知ることができるこの時代ですよ。 それとも、「カチューシャ」に限らず歌に作者が存在するという事実を認めることが嫌いなんでしょうかね?

みんなの回答

  • 918BG
  • ベストアンサー率48% (476/984)
回答No.4

民謡という言葉の意味を少し調べてみました。 デジタル大辞泉によれば、「民衆の、労働・儀礼などの集団の場において自然に発生し、伝承されてきた...」 また、大辞林によれば、「各地の庶民の日常生活の中から自然に生まれて長い間伝承され、...」とあります。 これら、「自然に発生し」「自然に生まれて」ということが民謡と呼ばれる歌曲の基本要素であるならば、プロの作曲家が作曲したものを民謡と呼ぶのは適切ではないことになります。たとえば、養殖した魚介類を「天然もの」と表示して販売したならば事件になるでしょう。 でも、食品など消費者保護が必要な品目と違って、歌の場合、とりわけ長い年月の経過によって著作権が消滅してパブリックドメインになり、小学唱歌や文部省唱歌としてだれもが気軽に歌ったり演奏したりする曲の場合には、そこまで厳密なことを言わなくても良いように思います。 かつての歌声喫茶の歌詞集や、レコード会社が企画したアルバムの収録曲に関して、厳密な区分けをせずに◯◯民謡といったわかりやすくてキャッチーなタイトルを付けたことがそもそもの発端なのだろうと思いますが、それらの扱いを責めるのは酷でしょう。 三省堂の新明解国語辞典では、カッコ付きながら、「広義では大正・昭和初期にかけて大量に作られた、いわゆる『新民謡』も含む」と補足されていますから、質問者さんがお書きのように厳密に言えば不当表示ということにはなりますが、そこまで重箱の隅を突つかなくてもいいんじゃないの、というのが私の考えです。いかがでしょうか。 ここまで書いてきてさらに検索していたら、以下のようなサイトの記述を見つけました。いろいろな考え方をまとめて書いてあって、ある意味玉虫色の記述になってますけど、おおむね妥当な結論を導いているような気がしますので貼っておきます。 民謡とは コトバンク https://kotobank.jp/word/%E6%B0%91%E8%AC%A1-140184#E6.97.A5.E6.9C.AC.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E5.85.A8.E6.9B.B8.28.E3.83.8B.E3.83.83.E3.83.9D.E3.83.8B.E3.82.AB.29

steinfluss
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。いまのシステムでは締め切りの後でもお礼コメントが書けるのを知らずにだいぶ遅れてしまいました。 >「自然に発生し」「自然に生まれて」ということが民謡と呼ばれる歌曲の基本要素であるならば そうなんですよね。私はこの点を、ある歌曲が民謡と呼ばれるための絶対条件であると見做しています。面白いのが、ご紹介のリンク先に記述してある国際伝統音楽協会が民族音楽の定義を採択したことであって、このような定義が自然発生的になされたのではなく国際会議で決定されたという点です。民謡とはそれだけ、各国や各文化圏において、また個人個人においてまちまちな解釈が可能なのでしょうか。 >歌の場合、とりわけ長い年月の経過によって著作権が消滅してパブリックドメインになり、小学唱歌や文部省唱歌としてだれもが気軽に歌ったり演奏したりする曲の場合には、そこまで厳密なことを言わなくても良いように思います。 ここが納得できない部分です。歌を楽しみ音楽に親しむことはなんら不都合ありませんし、古今東西問わずどんどん親しみましょうというのが当方の持論ですが、気軽に親しめるからと言って著作者を無視してもよいとはならないと思うのです。918BGさんもお使いだったはずの小学校や中学校の音楽の教科書には(もちろん高校の教科書にもです。選択されたかどうかわかりませんので)、必ずその歌の作詞者と作曲者、必要に応じて編曲者も載っています。民謡や作者不詳であればその旨が必ず書き記してあります。音楽の教科書を使って著作権について学習できるといってもよいでしょう。それに、ある歌の著作者を知ることで、その著作者がほかにどんな歌を作ったのかを知ることができ、知っている歌の数を増やすことも可能です。 また、「パブリックドメイン」とありますが、私がいま議題に取り上げている「カチューシャ」の作曲者であるマトヴェイ・ブラーンテルは1990年没、作詞者のミハイール・イサコーフスキーは1973年に没しており、2015年現在で曲も歌詞も著作権が消滅していない状態です。これを「民謡」と呼ぶのは苦し紛れにしてもひどすぎます。 比較対象がちょっと変わりますが、「カチューシャ」は、滝廉太郎作曲・武島羽衣作詞の「花」よりも新しいですし、作者たちの没年も「花」よりあとなんですよ。でも「花」を日本民謡だという人はまずいません。非常に日本人に親しまれるなじみ深い歌であるにもかかわらずです。(なお、「花」の著作権は曲のみパブリックドメインになっています。) 「それは作者が有名だから民謡と呼ばれないのでは」という意見の御仁もいることでしょう。ではこの歌はどうですか。 「♪お魚くわえたドラネコ 追っかけて~ はだしで駆けてく 陽気なサザエさん」 日本人の人口に非常に膾炙している歌だと思いますが、作者は誰かと問われて答えられる人はまず存在しないでしょう。誰も知らない(少なくとも、意識していない)からです。だからと言って、「この歌は民謡か?」と問われれば、たいていの人は否定するはずです。 (なお「サザエさん」の作詞者は林春生、作曲者は筒美京平です) >かつての歌声喫茶の歌詞集や、レコード会社が企画したアルバムの収録曲に関して、厳密な区分けをせずに◯◯民謡といったわかりやすくてキャッチーなタイトルを付けたことがそもそもの発端なのだろうと思いますが なるほど。そこがこの誤解を起こさせるような区分名称の発端なのかもしれません。 「大衆歌」や「愛唱歌」という言葉もあるのになぜ「民謡」という単語が選ばれたんでしょうね。当時(昭和30年代?)は「民謡」という言葉が外国のまだ見ぬ景色や風俗を思い起こさせ憧れさせてくれるような、それこそキャッチーな言葉だったのかもしれません、と独自解釈いたします。 >三省堂の新明解国語辞典では、カッコ付きながら、「広義では大正・昭和初期にかけて大量に作られた、いわゆる『新民謡』も含む」と補足されていますから、質問者さんがお書きのように厳密に言えば不当表示ということにはなりますが、そこまで重箱の隅を突つかなくてもいいんじゃないの、というのが私の考えです。いかがでしょうか。 私とて決して重箱の隅をつついているつもりはありません。でも、「『民謡だ』と主張すればどんな歌も民謡になってくれる」というほど、世の中甘くないと思うんですよ。それをこの、カチューシャをはじめとする、いわゆる”ロシア民謡”には適用されてしまっている。「ポーリュシカ・ポーレ」、「すずらん」、「モスクワの夜は更けて」、いずれも作者が明確であるにもかかわらず民謡扱いです。つきあいの薄いロシアのことだから、作者など書かなくても気づかれないと思ったのか、それともロシア文字で表記された著作者名を読むことができなかったのか。しかもこれらの歌のうちには、古くから伝承されてきた実際の「民謡」がほとんど含まれていません。 しかし、いちばん大きな要因は、#1さんも書いてらっしゃる「作者への無関心」のようです。なにしろ1981年というかなり近年に発表された「百万本のバラ」がロシア民謡とされていたことがあるほどの体たらくですから、どれほど作者への関心を拒絶してたんだろうと勘ぐってしまうほどです。 (「百万本のバラ」はもちろんラトヴィアの歌謡曲であり、作曲者はライモンズ・パウルス、作詞者はレオンス・ブリアディス氏です。パウルス氏もブリアディス氏もともに2015年現在ご存命ですし、当然この歌も著作権保護期間内ですから、当方の主張に沿えば民謡であるなどあり得ません。) 「コサックの子守歌」(作詞者のミハイール・レールモントフは1841年没)や「カリンカ」(作詞・作曲者のイヴァン・ラリオーノフは1889年没)のように、作者が亡くなってから100年以上たつ歌曲を、(「民謡」の定義を拡大解釈したうえで)民謡の範疇に含めることにはまだしも目をつぶれますが、「カチューシャ」のように著作権がまだ切れていない歌を平然と「民謡である」と主張するだけの劣化したモラルは、当方は持ち合わせておりません。 当方が「『カチューシャ』はロシア民謡ではない」と主張するわけは、日本語の「民謡」という言葉の解釈があいまいであることをちゃっかり利用して、「カチューシャ」などのロシア歌謡曲にあたかも特定の作者が存在しないかのように一般大衆をごまかしていることに気が付いたためです。 「誰がそのごまかしを行なっているのか?」と問われれば答えにくいですが、やはり歌曲の受容者である大衆自身なんでしょうね。この情報化時代に歌の作者の存在を知ろうとしないのですから。

  • TAC-TAB
  • ベストアンサー率76% (1921/2526)
回答No.3

「カチューシャ」はロシア民謡ですよ。 ロシア民謡ではないとすれば、どこの民謡でしょうか?また、どう聴いても、ポップスとかクラシックということでもないでしょう。 >民謡というものは作者も初演者も不明のものを指すんですから、 この概念は間違いですよ。 何かにそのようなことが書かれていたのでしょうか? 「民謡」というのは、音楽のジャンルですから、「カチューシャ」を「ロシア民謡」とすることは、ビートルズの「イエスタデイ」を「イギリスのロック」、AKB48の音楽を「J-POP」と言っているのと同じです。曲が存在している以上、それを作った人がいるのは当たり前のことです。 ブリタニカからの抜粋では 「民衆の生活のなかで生れ育った歌。民衆によって作られ,民衆のなかで伝承され,その本来の性質が民衆的な歌をいう。」 と書かれています。作曲者はロシアの人だということであれば、「カチューシャ」は立派なロシア民謡ということです。 どのような曲でも、必ず作った人がいるのは間違いがありませんが、ある人にとってそれが誰だかわからないことは仕方のないことです。その場合は「作者不詳」とか「anonymous」と書かざるを得ませんが、実際の作曲者の名を多くの人が知っている場合もあれば、極少数の人のみが知っている場合もあります。「作者不詳」と書いたから詐欺というものではありません。「私にとっては、作者名がわかりません」というだけのことですから。 「草競馬」とか「オールドブラックジョー」は「アメリカ民謡」の代表とされていますが、フォスターが作ったということは誰でも知っています。「アロハオエ」や「カイマナヒラ」はハワイ民謡とされていますが、これも著名な作詞・作曲家が作ったことはよく知られています。 「カチューシャ」がロシア民謡とされていることは、詐欺でもなんでもありません。 そのようなジャンルに区分けされている曲であるというだけのことで、作曲者が誰だということは別の話です。

steinfluss
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。いまのシステムでは締め切りの後でもお礼コメントが書けるのを知らずにだいぶ遅れてしまいました。 >ロシア民謡ではないとすれば、どこの民謡でしょうか? 「カチューシャ」はどこの民謡でもありません。れっきとしたソヴィエト連邦(あるいはロシアと置き換えてもよいでしょう)の「歌謡曲」です。あえて別用語を使えば「スタンダードナンバー」です。 音楽に関して常識のある人なら、歌謡曲やスタンダードを民謡と呼ぶはずはありません。TAC-TABさんは平気で著作権を粗末にできる身勝手な人なんですね。 >>民謡というものは作者も初演者も不明のものを指すんですから、 >この概念は間違いですよ。何かにそのようなことが書かれていたのでしょうか? これが民謡についての社会一般的な概念ですよ。ウィキペディア日本語版で「ロシア民謡」を調べれば分かります。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%82%B7%E3%82%A2%E6%B0%91%E8%AC%A1 >「民謡」というのは、音楽のジャンルですから、「カチューシャ」を「ロシア民謡」とすることは、ビートルズの「イエスタデイ」を「イギリスのロック」、AKB48の音楽を「J-POP」と言っているのと同じです。 これは誤りです。「カチューシャ」を「ロシア民謡」とすることは、ビートルズの「イエスタデイ」を「イングランド民謡」、AKB48の音楽を「日本民謡(東京都民謡)」と言っているのと同等です。それとももしかしてTAC-TABさんは、ジョン・レノンや秋元康の存在を無視しておくべきだと主張するのでしょうか?だとすればすべてのロックやすべてのJ-POPは、音源のジャケットやテレビの画面などに作者を表記する必要がありませんね。 あるいは、別ジャンルに置き換えて「『戦争と平和』や『罪と罰』は民話である」と言ってみてはどうでしょうか。これには違和感を感じますか?感じませんか?「カチューシャ」や「ポーリュシカ・ポーレ」などの作者が明確な歌曲を民謡扱いするのは、レフ・トルストイやドストイェーフスキーの作品を「民話」にジャンル区分するのと同等ですが。 >曲が存在している以上、それを作った人がいるのは当たり前のことです。 それではその作者の氏名が明らかになっている以上、「作曲者」「作詞者」として表記すべきです。絵画や小説や映画などと同様、歌曲も著作物なのだから当然です。その当然の行為が「カチューシャ」の場合はなされていないのです。著作権が消滅した曲ででもあるかのように歪曲したいのでしょうか? >ブリタニカからの抜粋では 「民衆の生活のなかで生れ育った歌。民衆によって作られ,民衆のなかで伝承され,その本来の性質が民衆的な歌をいう。」と書かれています。 これが正しいのなら、私の主張の正当性がますます強まりますね。なぜなら、「カチューシャ」の作曲者のマトヴェイ・ブラーンテルは、地位もあり、数々の受賞歴もある一流の作曲家であって、この説明で述べられている「民衆」のうちには含まれないからです。 https://ru.wikipedia.org/wiki/%D0%91%D0%BB%D0%B0%D0%BD%D1%82%D0%B5%D1%80,_%D0%9C%D0%B0%D1%82%D0%B2%D0%B5%D0%B9_%D0%98%D1%81%D0%B0%D0%B0%D0%BA%D0%BE%D0%B2%D0%B8%D1%87 作詞者のミハイル・イサコーフスキーにしても同様です。音楽に関してはいわゆる「民衆」とは一線を画しています。 https://ru.wikipedia.org/wiki/%D0%98%D1%81%D0%B0%D0%BA%D0%BE%D0%B2%D1%81%D0%BA%D0%B8%D0%B9,_%D0%9C%D0%B8%D1%85%D0%B0%D0%B8%D0%BB_%D0%92%D0%B0%D1%81%D0%B8%D0%BB%D1%8C%D0%B5%D0%B2%D0%B8%D1%87 彼らの経歴からもうかがえるように、「カチューシャ」は「民衆の生活の中で生まれ育った歌」とは到底言い難いものです。なお、民衆がこの歌に親しんだかどうかはまた別問題ですし(大いに親しんだのは確かですが)、いくら親しみ楽しもうと、民謡であるかないかの区分にはつながりません。 >作曲者はロシアの人だということであれば、「カチューシャ」は立派なロシア民謡ということです。 違います。作曲者がロシアの人だということは、ロシアの歌謡曲かもしれませんし、ロシアの軍歌かもしれませんし、ロシアのロックかもしれませんし、ロシアのバラードかもしれませんし、ロシアのヒップホップかもしれません。第二次世界大戦後だの21世紀だのになってから書かれた歌すら「ロシア民謡」に括り込みたがる暴力的な発想の持ち主でもなければ、ロシアの人が書いたからというだけで、これらの歌を民謡だと思うはずはないでしょう。 「カチューシャ」にしたって同様です。ただ80年近く昔の歌であるというだけのことであり、「民謡」として区分できない点では同等です。そもそも「カチューシャ」は2015年現在においていまだ著作権が有効です。著作権の消滅していない歌を「民謡」と呼んで、あたかも著作権が消滅しているかのような誤解を与えようとするとは、恐るべき了見です。 >どのような曲でも、必ず作った人がいるのは間違いがありませんが、ある人にとってそれが誰だかわからないことは仕方のないことです。 それでは、作者が分かり次第可及的速やかに作者名を表記するのが筋というものでしょう。そもそもいまの情報化の時代において、有名な曲の作者を知らないというのはほとんどの場合単なる調査不足でしかありません。 もっとも、米国の「仰げば尊し」のようにほんの数年前に作者が明らかになった事例はありますが、これはそれまで資料が発掘されていなかっただけであり、その初公演の時から作者が明らかだった「カチューシャ」の問題とは根本的に異なります。 >「草競馬」とか「オールドブラックジョー」は「アメリカ民謡」の代表とされていますが、フォスターが作ったということは誰でも知っています。「アロハオエ」や「カイマナヒラ」はハワイ民謡とされていますが、これも著名な作詞・作曲家が作ったことはよく知られています。 そのとおりですね。ですから、「草競馬」や「オールドブラックジョー」などは、どの楽譜や文献にも「フォスター作曲」と表記されるのが一般的です。「アロハオエ」や「カイマナヒラ」も、リリウォカラニの名やチャールズ・キングの名と結びつけられて紹介されています。 ですから、いずれも「民謡」(アメリカ民謡なりハワイ民謡なり)に分類されることはもはやありません。とりわけ、フォスターの歌が「民謡」に分類されているのを見た事例は、当方は皆無です。これらの歌は、「あたかも民謡であるかのように大衆に馴染み親しまれている」というのであって、あくまでも民謡ではありません。「カチューシャ」を未だに「ロシア民謡」と誤魔化しているのとは大違いです。 >「カチューシャ」がロシア民謡とされていることは、詐欺でもなんでもありません。 詐欺でなければ誤魔化しか隠蔽か、理解の拒否か。歌謡曲だと判っているのだから、それを民謡に区分することが詐欺でもなんでもないなどあり得ない話です。 >そのようなジャンルに区分けされている曲であるというだけのことで その区分そのものが誤りなのです。「民謡」という区分は、世間一般に、作者が不明であって古い伝統歌曲であることをイメージさせる用語であり、そのイメージで定義できるロシアの民謡ならたくさんあります。こんなのとか。 http://a-pesni.org/rus/Rus.php いずれにせよ、作曲者や作詞者がはっきりわかっている歌を、「大衆歌」とか「愛唱歌」という括り分けではなく、”作者不明”に匹敵する「民謡」というジャンルに放り込むことが、如何に著作者を無視し、聴衆や演奏者を欺くものであるかについて、いよいよ強く確信が持てました。

  • mota_miho
  • ベストアンサー率16% (396/2453)
回答No.2

そんなに怒る(?)ことはないですよ ^^。 》 なのに「ロシア”民謡”」って "ロシア民謡" というジャンルの曲と思えばいいじゃないですか?  別の例ですが、「スコットランド民謡」だってそうです。 例えば、「アニーローリー Annie Laurie」。作詞者・作曲者が存在しますが、「スコットランド民謡」とされていることに文句をつける人はいないような(笑)。 https://www.google.co.jp/search?sourceid=navclient&aq=hss&oq=Annie+Laurie&hl=ja&ie=UTF-8&rlz=1T4GGHP_jaJP510JP510&q=%e3%82%a2%e3%83%8b%e3%83%bc%e3%83%ad%e3%83%bc%e3%83%aa%e3%83%bc%e3%80%80%e3%82%b9%e3%82%b3%e3%83%83%e3%83%88%e3%83%a9%e3%83%b3%e3%83%89%e6%b0%91%e8%ac%a1&gs_l=hp..8.41l301.0.0.6.223612...........0.

steinfluss
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。いまのシステムでは締め切りの後でもお礼コメントが書けるのを知らずにだいぶ遅れてしまいました。 >"ロシア民謡" というジャンルの曲と思えばいいじゃないですか?  そうはいきませんよ。ロシアには、日本人が「ロシア民謡」と誤解を招くような名づけ方をした流行歌や、その他歌謡曲やら軍歌やら童謡やらの、作詞・作曲者がはっきりしているくさぐさの歌(ピェースニャ)以外にも、昔から歌い継がれてきた作者不明の民謡やわらべ歌がちゃんとたくさんあるんですから。「ヴァーレンキ」とか「白樺は野に立てり」とか「うちの門の前に」とか。 だから、誤解を招かないように、「ロシア民謡」といえば「ロシアで伝統的に歌い継がれてきた作者不明の民謡・里謡」と定義すべきです。「カチューシャ」をロシア民謡とするのは、たとえて言えば「青い山脈」を日本民謡とするようなものでしょう。 >例えば、「アニーローリー Annie Laurie」。作詞者・作曲者が存在しますが、「スコットランド民謡」とされていることに文句をつける人はいないような(笑)。 私は文句をつけますよ?それに、「アニー・ローリー」が民謡ではないと解釈している人が私だけではないらしいことが、mota_mihoさんの示したグーグル検索結果と、下に私が載せたグーグル検索の比較でうかがい知れます。 「アニーローリー スコットランド民謡」でグーグル検索した検索結果の数(約11,500件)よりも、「アニーローリー -スコットランド民謡」とマイナス検索したほうの結果数(約628,000件)のほうがずっと多く見つかります。 https://www.google.co.jp/search?num=20&newwindow=1&hl=ja&rlz=1T4GGHP_jaJP510JP510&q=%E3%82%A2%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%80%80-%E3%82%B9%E3%82%B3%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E6%B0%91%E8%AC%A1&oq=%E3%82%A2%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%80%80-%E3%82%B9%E3%82%B3%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E6%B0%91%E8%AC%A1&gs_l=serp.12..0i30.67255.67255.0.68307.1.1.0.0.0.0.267.267.2-1.1.0.msedr...0...1c..62.serp..0.1.267.9ssHwHto65w しかもこちらはきちんと作者名を表記しているリンク先が多いのです。 もちろんこれは、「アニー・ローリー」や「カチューシャ」に限られた話ではありますまい。 このことからも、単に長年多くの人によく知られているからとか、雰囲気がある地域を彷彿とさせるからなどと言って、作者が確定している歌を民謡と解釈することの馬鹿馬鹿しさが分かろうというものです。

  • trgovec
  • ベストアンサー率52% (2538/4879)
回答No.1

別に認めたくないとか隠すつもりはないでしょう。作者がいるものを民謡として広めたのはどこかの機関とか出版社ではなく、受容してきた、聞いたり歌ったりする日本人です。あえて言えば作者がいることへの無関心です。 昭和34年初版の「ロシヤ民謡アルバム」という本が手元にありますが、タイトルに反して中身は作者がいる曲が非常に多いです。ウィキペディアにはソ連時代は歌は公共財産として作者は伏せられていたとありますが、国家機密のようなものではないようで、実際この歌本やそれ以前の楽譜でも作者は明記されています。このことからどこかが隠したとかいうことは考えにくいことです。 Народная песня の訳語の問題についてはウィキペディアに詳しくありますが、これは大衆歌謡とも民謡(人民の歌)とも訳せる言葉です。 それはともかく、他の国の曲では起こりえない誤解がなぜ広まったのか、なぜより正確な訳語を求めなかったは、情報の入ってこなかった時代に我々が勝手に作り上げたロシア(正確にはソ連)のイメージがいまだに尾を引いているように思えます。 先の「ロシヤ民謡アルバム」でも、ロシアっぽさを感じる曲はほぼそのまま知名度と一致し、その多くに作者がいます。正真正銘の民謡は民俗音楽の香りが強く、本当はこれがロシアっぽさなのに、日本人が感じるロシアっぽさは薄いものになっています。 「ロシアっぽさ」をもったものは、作者がいる歌謡曲というより民謡であるとしたい気持ちが働く、と考えますがいかがでしょうか。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%82%B7%E3%82%A2%E6%B0%91%E8%AC%A1 こちらもご参考に。私の考えとほぼ同じです。あと一つ付け加えれば、こういう歌曲の作者の名前が昔から日本ではあまり知られておらず、「フォスターの曲」とか「シューベルトの曲」というような言い方がしにくいということもあるでしょう。 私自身、こういう「(悪意のない)嘘」は、今日の情報化時代だからこそそろそろやめたらどうかと思っています。ではどう言い換えるべきか、という問いには答えが見いだせないのがもどかしいところです。 乱筆失礼いたしました。

steinfluss
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。いまのシステムでは締め切りの後でもお礼コメントが書けるのを知らずにだいぶ遅れてしまいました。 どうやら、trgovecさんのご指摘のように、作者がいることへの無関心がはたらいている点と、ロシアっぽいイメージのある楽曲はロシアの「民謡」ととらえてしまうというのがいちばんの要因と見えます。 日本人がロシアの歌を好んできたことについては全く異存がなく、むしろもっとどんどん好きになれと発言するのが当方なのですが、楽曲の受容者がその楽曲の作者の存在を無視しているという事実を考慮すると、この日本という国によその国の歌を持ち込むのは他国の文化に対して失礼ではないだろうかという疑念すら湧き起ってきます。 ちなみにこれらロシアの愛唱歌の呼称ですが、ロシア語のできる女優・歌手として知られる山之内重美さんは、これらのロシアの歌に対して「ピェースニャ」の呼称を提案している模様です。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E4%B9%8B%E5%86%85%E9%87%8D%E7%BE%8E http://www.asahi-net.or.jp/~YZ8H-TD/yamaschedule.201210a.html ちょうどフランス歌謡を「シャンソン」、イタリア歌謡を「カンツォーネ」と呼ぶような感覚に似ており、分かりやすく用いやすい用語と受け止めておりますが如何でしょうか。

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