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乗り越えられる試練
神様は乗り越えられる試練しか与えないとは言いますが…手をつくした結果どうにも乗り越えられそうにない場合は、どうしたらいいんでしょうか もう諦めるか、それとも数年越しに頑張るしか無いのでしょうか
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乗り越えられる試練と言うと、響きは良いかも知れませんが、諦める事も『乗り越えられる試練』の内に入ると思います。 ただそう云った問題の前に立った時如何考えるのかで結果は違うと思います。出来なかった言い訳を考えるのか?或はどうやったら出来たのか?の違いです。 出来なかった言い訳だけを考えたり、出来なかった理由はいくらでも見付ける事は出来ると思いますが、それだけでは進歩が無いと思います。 出来た可能性を探す事の方が良いと思いますが、それが出来なかったとするなら諦める事も選択肢の一つと思います。全てを諦めると言う言い方は言い過ぎかも知れませんが、『万策尽きるほど』考え尽くしたのかを考えたらさっぱりすると思います。 針の穴にらくだを通す事さえ出来る考え方もこの世の中にはある事も知って下さい。不可能を可能にする智慧を学ぶ試練を貴方は、今、体験しています。
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- michael-m
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神様は乗り越えられる試練しか与えない・・誰が言ったんでしょうね。 一部では聖書に出てくる一説だとしています。しかし、聖書では最終ゴールは天国です。最終的に試練に立ち向かっていれば天国に入れる、これが乗り越えた先です。つまり現世利益ではないんです。 でも「神様は乗り越えられる試練しか与えない」と言っている連中って、ほとんどが現世利益ですよね。乗り越えて先の人生を送れる、問題解決する・・・。ということですよね。だからこの世では乗り越えられない試練もあり得てくる訳です。前提条件がまるっきり違っているんですよ。 第二に、例えば富士山の反対側に行きたい場合、富士山の頂上を超えて行く人居ますかね。まず万が一にも居ないでしょうね。、そんな感じですかね。 ふもとを廻ってみたり色々試すしかないですよね。 「乗り越えられそうに無い試練」そう考えた時点で乗り越えることはできません。それは富士山の麓に立ち、頂上を眺めて「越えられない」と嘆いているのと同じです。 そんなこと考えている暇もなく、足掻きまくるしかないんですよ。そうすればひょっとしたら麓をグルッと廻る道が目に入るかもしれません。
お礼
ぐるっと廻ってみました 私はなんでもかんでも猪突猛進といいますか、まさに猪のごとく、真ん前しか見てないうえにつっぱしるのが欠点です。 勉強はできますが頭は悪いタイプです 欠点を分かっていながら、直さなかった結果が今回の状況かもしれません。正攻法ばかり考えて、もうすこしかしこくなりなさいってことだったのかもしれません 急がば回れですね*^^* 結果を急いても、乗り越えられないと泣いても仕方がない すこし回り道をしてみます お返事ありがとうございました
- gouzig
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「神様は乗り越えられる試練しか与えない」 →それは弱気にならずに努力すれば道はひらけるという意味でしょう。 だからといって、全ての苦難を努力だけで解決するものではないのは当然でしょうね。 例えば、当てはまらないこともあります。 一つは欲望です。 お金を儲けたいや高級車がほしい、お金持ちやハンサム、美人と結婚したいなどは全て欲望ですね。 もう一つはそんもそも無理な希望です。 実力を超えて、一流高校や最高峰の大学、一流会社に入りたいというのは無理な希望です。 もちろん努力で得られるものもあるでしょうが、全ては無理でしょうね。 「手をつくした結果どうにも乗り越えられそうにない場合は、どうしたらいいんでしょうか」 →上記の二つに該当しているのであれば諦めることでしょう。 そもそも無理な夢なのですからね。
お礼
上記二つではないですが、二つ目にかぶるかもしれません 実力を越えたこと 実力を尽くした結果いたらなかった場合は、今の実力では足りないということですもんね 部下の尻拭いをしきれなかったのは、私の力不足です。 諦めます、か お返事ありがとうございます
- kagami20075-
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信じている神様がちょっと違うのかもしれません。 神道の神様は不敬な人には罰を与えますが、罰が当たった、というのはよく聞く言葉です。この場合与えられた罰は、明らかに試練とは異なると考えられます。人間を成長させるために罰を与えるのではなく、懲らしめるためだけに罰を与えます。 罰を与える神様は乗り越えられる試練しか与えないことは、ないと言えます。 従いまして、乗り越えられる試練しか与えませんよ、とおっしゃっている神様を信じるときに、神様は乗り越えられる試練しか与えないと言うことができるようです。 私の信じているところでは、「試練は呼びかけ」と教えられています。 ここでは、神様は乗り越えられる試練しか与えないと言うことはあまりありません。試練の時には、必ずそこを超えて行ける一筋の道がある、ということが教えられています。 躓いた時は、一歩先を歩いている先輩や、教えてくださっている先生が一緒に同伴して、一筋の細い道を歩いて行けるようにアドバイスしてもらえます。
お礼
あぁ罰か…それも考えられますね はい、この質問に回答いただいた一歩先を行く先輩方々に、沢山意見をいただきたいです 乗り越えられる道を模索してみます お返事ありがとうございます
- eroero4649
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東日本大震災で、妻や子供などの家族全員を津波で失い、自分だけ生き残ってしまったという人をネットで目にしたことがあります。その人は職場で被災したために助かり、家族は家ごと流されてしまったそうです。 私はこれを到底「乗り越えられる試練」だとは口にできません。自分だけが死に、家族が生き残ってくれた方がどれだけ救いがあったことか。その人は、「死ぬために毎日酒を飲んでいる」といっていました。そうでしょう。酒で泥酔でもしないと夜を越すことなんてできないと思います。その人がいちばんつらいといっていたのは、「家族の顔がなぜか思い出せない」ということでした。きっと思い出してしまうとあまりにつらすぎて狂ってしまうから、思い出せないようにしているのでしょうね。 イエスは十字架にかけられたとき、「神よ、なぜ私をお見捨てになられたのですか」といったと聖書にあります。この話に答えもオチもありません。私たちはあまりにどうしようもない運命に翻弄されたときにはただ、「なぜ私をお見捨てになられたのですか」としかいうことができないんです。
お礼
そうですね…このお話を聞いて、私の問題はちっぽけに思えました。乗り越えられるのかもしれません 私一人だけではなく複数人が絡む問題なので、私一人では乗り越えられない(現時点ではなんとか頑張りましたが無理)です、今は休んでみたいと思います。 お返事ありがとうございます
- etranger-t
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確かに神様は乗り越えられる試練しか与えないとはよく聞く言葉ですが、乗り越えられないことも多々あることも事実だと思います。 では、乗り越えられない試練とは何かと言いますと、最後は自分に負けてしまうから乗り越えられないのではないでしょうか。どんな苦難や困難に直面しても、結局はそれらに対峙するのは自分です。諦めるというのはまさしく自分に負けたことに他ならず、最後は自分自身に勝てるかどうかということだと思います。 よく万策尽きたという言葉を聞きますが、それとて自分に負けた言い訳ではないでしょうかね。長年の経験から個人的にはそう思いますし、自分に勝つことほど難しいことは無いと思います。
お礼
そうですね…私は負けてしまいました。複数人が絡む問題のため、私が一人あがいてもどうにも動きませんでした。 いや、動かした結果、これ以上は進まないと分かったものですね 諦めます。 今どうにかしても前にも後ろにもいけません やれることはやりました。より悪化しないのを祈ります お返事ありがとうございます
お礼
自分ができることを考えて考えてさまざまな方向から見てみて…結果、駄目だと分かりました。 周りも私がやることを黙っていましたがこれ以上やっても無駄だからやめなさいと止められるまで、頑張りました。 これで、すっきりはしないけども、諦めることにしました。 まだあれから引きずってはいますが、どうしてこんなことにという自分を責める気持ちから、どうしたら良かったのか、これからどうしていこうかと視点を変更できました 凄く凄く辛い経験をしました。乗り越えられないと、泣きじゃくっていたけど、今ではつまずきながらも山を越えられそうです、道が見えてきました。 お返事が遅れてすみません 助けてくださってありがとうございます お返事ありがとうございました!!