意味がある場合もあれば、ない場合もあります。
たとえば、高校球児がすべてイチローの練習をして、
それだけの努力頑張りをしたとして、
イチローのレベルになれる人はほんのわずかです。
松坂になれる人もまずいません。
宮崎駿さんになりたいと思ってアニメ界に入ってくる人たちの10人中9人までが、
一年以内にこの業界を去っています。
その人たちがすべて努力も頑張りもなかったかと言えば、
そうでもない。
きっとすごく頑張って努力している人もたくさんいたでしょう。
結論は才能がなかったということ。
早期教育は効果があると盛んにおこなわれていますが、
長じると、その人の持っている能力が、その人の知力、技力を決定するという学者もいます。
だったら頑張って小さいころから詰め込み教育をしても、
結果として、その人の知能指数なんかが、学力などを決めてしまうのだから、
小さいころいくら頑張っても、その効果がない人がたくさん出てくるってことなのでしょう。
才能がある人が、才能を伸ばすために努力と頑張りをすれば効果があるわけで、
だからイチローや松坂の頑張りは半端なものではないでしょう。
だからと言って、それをしたからと言って凡人がそうなるわけではない。
でも学校や社会は努力すれば、頑張りさえすれば何でもできる、
無限の可能性があるという。
それは欺瞞です。
その人の持っている才能に関してのみ、その効果があるのであって、
才能のないことに努力しても、かなりが無駄になります。
その努力を、いい経験したね、とか、楽しかったね、
体力ついてよかったね、などと言ったレベルで評価すればいいわけで、
すべてに努力と頑張りを強いるのは、辛いのです。
自分の才能を探すために努力し、頑張って、
そして見つけたら、それに全力投球できれば
その人なりに満ち足りた人生が送れるのではと思います。
その才能が際立ったものではなくても、
そして社会的に評価され、拍手喝さいを浴びるようなことでなくても、
その人なりの幸せを社会が認められるような空気が何より大切なのでは。
頑張ってもできない人がたくさんいます。
才能がある人はちょっとやれば素晴らしい結果が出せます。
だからと言ってできない人に無理な頑張りを強いるのではなく、
才能は生まれ持ったものだから、才能がなくても、
人並みに幸せになることが出来ることを、
担保できる社会が豊かな社会なのではと思います。
お礼
ありがとうございます。